桜花一片に願いを

善吉_B

 

 詩人の話をしよう。


 一人の天才と言われた詩人の話であり、その詩人の弟子と言われた、これまた天才だった子供の話でもある。


 だがその詩人たちの話をする前に、まずは全く違う話から始めなければならない。



 そもそもは新種の寄生生物のせいだった。


 そいつは元々何やら別の生き物―――確か、昆虫かなにか、小さい生き物だったはずだ。そいつに寄生し、鳥か何かに食われ、その内蔵のどこかで繁殖することを目的としていた生き物だった。

 それが色々な過程で、数人の人間の脳内に落ち着くことになった結果、奇妙極まりない、ある意味『ギフト』とも呼べるような代物を人類にもたらした。



 芸術のギフトだ。



 その寄生生物の棲み家に選ばれた栄えある人々は、それぞれとあるジャンルの芸術ばかりが他とは違うように受け取るようになった。


 ある画家曰く、キュビズム絵画がベートーベンの交響曲に聞こえる。


 ある音楽家曰く、EDMがアクアリウムに見える。


 よくある芸術家の比喩ともとれる独特の感性と片付けること無かれ。奴等は実際にそのように聞こえたし、見えたのだ。


 そして彼らがそう感じられるようにつくった芸術作品は、どれもこれも傑作だった。


 芸術の天才を生み出すのか、それとも芸術の天才の脳に好んで居座ろうとするのか。


 本来は鳥と共に空を飛んでいたはずなのに、全く違う二足歩行の哺乳類の頭を終の棲み家にした寄生生物の思考回路など、無いのと等しい程には分からない。

 それでもその奇妙な恩恵をもたらす生き物に興味を示す人々というのは一定数いて、一時はそれなりに本やら記事やらにその生き物の名前が登場していた。



 だが、恩恵を受けられた――――このような好意的な表現が正しいのかは今も分からない――――芸術家たちは、この広い地球で人間一人の両手の指だけで数えるのが終わる程度の数しかいなかった。


 たまたま天文学的確率で迷い込んだだけの寄生生物だから、数がそもそも少ないのだろうし、その中から更に居座るという奇特な選択肢を選んだ(やつらに意図などあるのかは分からないが)ものの数も少ないだろう。恩恵を受けながら芸術家にならなかった人間もいるかもしれない。


 まぁ、そんな訳なので天才は量産されず、やはり天才は天才としてあがめられるだけであった。

 それが寄生生物というものを通して神より賜りしギフトなのか、それとも寄生生物ではない何かによる天性の才能なのか。

 努力というものを当たり前に加味した結果である以上、その前もしくは後の条件は、殆どの世の人々にはどちらでも良かったようだ。



 さて、話を戻そう。これは詩人たちの話だ。



 あるところに天才と言われた詩人が居た。

 年は大体三十から四十の間としておこう。何、細かい数字などここでは関係ない。あとで年表なり事典なりを引けば分かる話だ。


 君はとりあえず、それ位の年齢の詩人がいた、ということだけ分かっていればいい。


 その詩人のところに、ある時手紙が届いた。まぁ、よくあるファンレターというやつだ。


 だがこれが少々、普通のものとは変わっていた。


 手紙の中に入っていたものは三つ。

 とある科学雑誌の記事の切り抜きと、差出人からの手紙。そしてその差出人の子供が書いたという一篇の詩だ。


 科学雑誌の切り抜きは、言わずもがなあの、新種の寄生生物の与えるギフトの話だった。


 とつぜんのお手紙失礼いたします、差出人は手紙でそう丁寧に切り出してからこう続けた。


 自分の子供が、件の切り抜き記事の寄生生物に寄生されているとの診断が下りた。

 ある日国語の授業で教師が詩を音読させようと当てたところ、モミジの葉の絵だから読めないと言い始めたのだという。

 初めはただの子供らしい反抗かと思っていたが、科学のニュースを聞きかじっていたパートナーが例の寄生生物の話をたまたま耳にした。まさかと思い病院に連れて行ってみれば、本当にそのであった。


 自分たちの子供は、詩が植物の一部に見えるのだという。


 子供には、詩が文字として読めない。それはまだ感覚を掴めていないせいもあるのだろう。だが詩は書けるようだった。ヒマワリの花の絵になるように文字を連ねてみたと本人は言っているが、自分たちには詩にしか見えないし、読めない。

 この手紙にその詩、またはヒマワリの絵を同封した。お忙しくなければ是非ご一読の上、プロの詩人から見てどう思うかご意見を頂きたい。何卒よろしくお願いしますと、出だしと同じように礼儀正しく手紙は締め括られていた。


 書いた本人がヒマワリの絵だといった一片の紙きれは、手紙を受け取った天才詩人にも詩だとしか思えなかった。空の青さを不思議に思う、子供らしい可愛らしい内容だった。


 ただ、出来は非常に良かった。手紙にはいま小学校の第二学年だと書かれている。その年でこの出来は、なるほど記事が言うように天才の卵だとも思えた。


 天才詩人は返事を書いた。お手紙ありがとうございます。なるほど言葉の誤解を恐れず言わせて頂ければ、たいへん興味深い症状です。小生には詩に思えます。詩には思えますが大変すばらしい出来です。お子さんの将来が楽しみです。良ければまた詩を送ってください。拝読したいと思います。草々。


 こうして、何も生物学的な芸術の恩恵を受けていないだろう天才詩人と、その恩恵を受けた未来の天才詩人である子供の手紙のやり取りが始まった。


 その時の天才詩人には、金の卵をたまたま知ることが出来たという純粋な喜びと、その成長を見守るこれまた純粋な楽しみしかなかった。


 手紙は何往復も続いた。初めは親が挨拶の言葉を書いていたが、やがて手紙も子供本人が書くようになった。

 その度に一片の紙きれに書かれた拙い文字の詩も増えた。出来は傑作もあればそこまででもないものもあった。

 一度はツタの葉のように書きたかったのにうまく形にならなかったと、子供にしては珍しくでしかない出来のものを送ってきたこともある。思春期らしい未来に惑うような内容で、その出来栄えがまたその年頃の迷いを表しているようで詩人には大層ほほえましかった。

 だがそれでも、出来はより更に下にはならなかった。天才詩人はますますこの文字でしか知らぬ子供の将来が楽しみになり、その子供が将来どんな詩を書くのかを夢想しては心を躍らせた。

 まぁ、要するにこの子供の、詩人としてのファン第一号だったわけだ。


 ある時また手紙が来た。子供は十八歳になっていた。


 桜の花びらになるように書きました。読む人が幸せになれるような詩をと思い創った詩ですが、如何でしょうか。これまでは自分の思ったことに目を向けて書くばかりで、こういった、誰かの気持ちを動かしたいという心で書いたことが無かったので、少しだけ不安です。いつものように感想お待ちしております。


 最初の手紙よりもずっと整った文字で書かれた手紙と共に添えられた、初めと同じように手元にあったのだろう紙切れ一枚に書かれた詩を読んだ天才詩人は、そのあまりの出来栄えに心を震わせた。


 おもわず溜息が零れた。読んでいる時からそわそわと浮足立っていた心は、詩を読み終える頃にはかつて感じたことのない幸福で満たされていた。長年文字だけでやり取りをしていた子供の文字は、その思惑通りいとも簡単に相手の心を動かした。


 そしていとも簡単に心を動かされた天才詩人は、自身が詩を書くことをやめたのだった。


 それがどういう思惑であったのか、今となっては文献で知る手がかりはない。ただ一つ言いたいのは、それが子供への羨望の気持ちとか、生物学的恩恵を受けていない自身の才能の絶望とか、そういうよくある話じゃなかったということだ。


 その証拠になるかは分からないが、詩人は自身が書くのをやめる代わりに、馴染みの編集者に子供の詩を紹介している。

 どうかこの才能を世に埋もれさせることなかれ、と。

 そしてどうか、その素晴らしい詩を祝福して欲しい、と。そんなような内容の手紙が、後世に残されている。


 だが可哀想なのは子供の方だったろう。

 真っ先に幸せな気持ちにさせたかった、自分が慕う詩人が、自分の詩を読んだすぐ後に詩を書くことをやめてしまったのだ。自分が何かしたんじゃないかと、不安になっても仕方ないだろう。


 子供と詩人―――いや、この段階ではもう、元詩人、というべきか――――との手紙はその後も続いていたが、子供の方の手紙では、どうかまたあなたの詩を読ませてほしいという、痛ましいほどの嘆願が何度も書かれていた。

 それに対する手紙の答えは、子供を慰め、励ますものではあったけれども、詩を書くという答えは遂に一度も返ってこなかった。


 それでも子供が詩を書くことは止めなかった。それは元詩人が願っていたことでもあったからだろう。師の帰還を願う言葉の書かれた手紙には、必ず一片の紙切れに書かれた詩が同封され続けた。


 その手紙のやりとりは、けれどその後はそれほど長くは続かなかった。


 元詩人が、ある日突然姿を消したのだ。


 その直前に子供から送られていた手紙と共に同封されていたのが、今君が硝子のショーケース越しに眺めている、他と同じように一片の紙切れに綴られた一篇の詩だ。


 それは尊敬する先生についての詩だった。


 ――――ここまで来たら、分かるだろう。

 例の、書くことをやめた天才詩人に捧げる詩だ。


 詩には元詩人への感謝と、尊敬の念と、詩を書くのをやめてしまった相手への一方的な怒りや悲しみと、それでも期待に応えたいという純粋な願いと、その他諸々の相手への思い全てを込めた言葉が綴られていた。


 子供は手紙で、その詩は一冊の本と、その上に振り落ちる一片の桜の花びらに見えるように書いたと書いていた。

 初めて花以外に見えるものを描いてみたので、自信がありませんという言葉を添えて。

 幸せになってほしいけれども、自分に思い付くのはこれ位ですとでも言いたげな、顔も分からない表情が行間に浮かんでくるようだろう。


 さて、丹精込めて作られたものが魂を持つ、などという話は世の中に山のようにある。


 この一編の詩も、どうやらその類だったらしい。


 この詩は魂を持っているのだ。


 いや、正確にはこの詩そのものの魂とは言えないかもしれない。


 何故ならこの詩に宿るのは、他でもない詩の宛先であった、元詩人なのだから。


 元詩人へのありったけの思い全てを執念のようにぶち込まれたその詩は、あろうことか受け取った本人を閉じ込めてしまったのさ。

 もちろん当時の世の中は大騒ぎした。既に書くのをやめていたとはいえ、高名な天才詩人が一人突然姿を消したのだ。警察も相当に頑張ったようだったが、結局行方は誰一人として分からず、捜査は打ち切りになったらしい。

 今ではちょっとした、近現代文学史のミステリーの一つになっているそうだ。



 どうやら、寄生生物を通じて神より賜りし子供のギフトは、とんでもない力を持っていたらしい。


 元詩人はそのことを、誰よりも――――そう、当の子供よりも分かっていたのさ。


 天才だったから? それも理由の一つかもしれない。


 けれど一番の理由は、あの桜の花びらを描くように書いたという、読む人が幸せな気持ちになる、あの詩だろう。


 あれは恐ろしい詩だよ。


 きっと詩のことを分かっていればいる程、その恐ろしさが分かるはずだ。


 だから詩人は悟ったし、自分が書くことをやめてしまったんだ。


 この子供が行きつく先が、詩ではないことを知ってしまったからだ。


 それでも世に広めようと思ったのは、その子供が生み出すそれが恐ろしくも、素晴らしい詩であることもまた事実だったからだ。


 何より、子供が詩を書くのが好きなことが、痛い程によく分かっていた。


 好きなものを、才能ある素晴らしい、可愛がっていた子供に続けて欲しいと願うのは、よくある年長者のエゴだろう。


 だからこそ、なのかもしれない。

 詩ではない何かを詩の形にして書き続けるその子供の横で、自分が純粋な、ただの詩を書き続けることはやめてしまったのさ。


 まぁ、その結果、こうして詩の中に閉じ込められてしまうとは想像もしていなかったわけだが。




 さて、子供は後に世界的に有名な詩人になった。こうして資料館が作られる位には、後世に名を残している訳だ。

 その子供を天才にした―――あるいは、天才と見込んでその脳に住み着いた例の寄生生物だが、その子供以外の二、三人の偉大なる芸術家を輩出してからある時ピタリと、報告が聞かれなくなったらしい。

 大方環境の変化とか、気候やら気圧の変化だとか、そういったものが原因なのだろう。


 らしい、なんて曖昧な表現を使うことを許してほしい。


 何せこの一篇の紙切れに閉じ込められてから、世の中の移り変わりというものが、目の前の人の会話からでしか拾えないのだ。


 お陰で自分をこんなところに閉じ込めた子供が、いつの間にか死んでいる程時間が経っていることも、文字でしか知らなかった子供がどんな姿をしていたのかも、この資料館が出来てから初めて知った始末だ。


 そして―――――――あの子の私への思いを、この一篇の詩や、あの子に見えていた花以外に何と呼べばいいかも、その正しい受け取り方も、未だに何一つ分からないままここに居る。

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