シャブを産むガチョウ
イソップ寓話集には「金の卵を産むガチョウ」という寓話が収録されている。
話に詳しい人であるならばご存知の通り、この話は農夫が一日一回に金の卵を産むガチョウを手に入れるところから始める。最初は金の卵が手に入るだけでも満足だったが、しかし、次第に欲が出てきてしまい、もっと金の卵が欲しくなったために、ガチョウの腹をかっさばいて殺してしまう、という話である。
しかし、金の卵を産むガチョウがいるとするならば、他にも愉快なガチョウがいることは間違いない。
例えば、そうだな……麻薬の卵を産むガチョウなんてどうだろうか。
◇◇◇
昔々あるところに、農夫の老夫婦が住んでいた。その老夫婦は小さな小屋でガチョウたちを育てており、そのガチョウたちが産む卵を売って、小銭を稼いでいた。
ある朝のことである。おじいさんはいつもの通り、ガチョウの卵を取りにやってきた。彼らの健康の秘訣というのは、朝食に産み立ての卵を使いハムエッグを食べることなのだ。
だが、その朝はいつもとちょっと違っていた。明らかに変なガチョウが一匹混ざっていたからである。
そのガチョウは、痩せこけており、羽もところどころが抜けている。だが、目の辺りは血走っており、ひっきりなしに地面をつついたり、あるいは羽の抜けたところをつついたりしていた。たまに鳴いてはそこらを走り回ったかと思うと、急に静かになって、地べたに寝転がっている。
そんな様子のガチョウであるから、何か悪い病気にかかったに違いないと思ったりもするのだが、そのガチョウの近くには、いままで見たことがないような、ツルツルの水晶のような卵があったのである。その病的な姿とは余りにも対照的な卵に、おじいさんは恐ろしいものを感じたが、好奇心に負けることはできなかった。
おばあさんに経緯を説明して、二人で食べようとするものの、おばあさんは気味悪がって食べようとしない。そこで、おじいさんだけが毒味することになり、そのはりのある見事な半円を描いだ黄身に箸を着け、口に運ぶ。
するとどうだろう……。
おじいさんはその黄身を食べた瞬間、卵とは思えない繊細でクリーミーな味わいと共に、世界が鮮やかに、キラキラ光るように見え始めた。それどころか、年老いた身体の重みが消え、頭も明晰になり、内側から元気が溢れてくるようであった。全ての肌の感覚が研ぎ澄まされ、さきほどまで使っていたバターやミルクの臭いが脳を溶かす。全てが明晰になり、自信が溢れて、エネルギッシュになり、まるで神の祝福を受けているような……。
おばあさんは、おじいさんが血眼を走らせ、焦点の定まらずにぼんやりとしている姿を見て、あわてておじいさんははっとした様子に我に帰り、おばあさんに先程の体験を聴かせると、おばあさんは怪訝に眉を潜め、汚らわしい目でおじいさんを見る。
「いやですよ、おじいさん……。まるでハクスリーの『知覚の扉』に描かれていたようなことを言うじゃありませんか……。あれは文学者によるLSD体験記でしたけど。とにかく私はそういう薬物の体験記を読むのは好きですけど、さすがに身内がそういうことをするのは、自然志向かつ健康志向である私には受け入れられませんよ……」
とはいえ、おばあさんはかなり倫理観が無かったので、身内がラリっているのは耐えきれなかったが、しかし赤の他人がラリっているのは全く構わなかった。むしろ、おばあさんはご近所さんを憎んでおり、合法的な方法で金銭を巻き上げたいとすら、思っていた。
おばあさんは、さっそくその卵の残りを他の卵と混ぜ合わせ、見事なタマゴサンドを作り、家の前で販売をしはじめた。最初のうちは、皆は「何がタマゴサンドだ、そんなものは家でも作れるわ」とせせら笑っていた。
だが、一人の木こりが弁当を忘れたために、ものは試しと「おばあさんのほんわかタマゴサンド」とやらを買ってみたのである。そして、切り株に腰をかけてそのタマゴサンドを頬張る。
すると、周囲が一瞬ぐにゃりと曲がったかと思うと、急に恐ろしいほどの静けさを帯び始めた。ただ静かというだけではなく、鳥たちの鳴き声や、動物たちの足音が輪郭と存在感を持って現れはじめたのである。そして、座っている切り株も、恰も世界の中心から生えてきて、自らを支えてくれているかのような、そのようなしっかりとした存在に感じ始めた。唐突に、木こりは世界はこんなにも美しく、そして豊潤であったことに気が付き、木を切る仕事も忘れ、頭を抱え、ざめざめと泣き始めた。
いつの間にか、空が血を塗りたくったかと思うほどに鮮やかな赤で染まる夕方頃になると、木こりは我に帰り、さきほどの内的体験に啓示を受け、木を切っている場合ではない、この「おばあさんのほんわかタマゴサンド」を売って皆に知らしめなければ、と確信するのである。
そういうわけで「おばあさんのほんわかサンド」は飛ぶように売れ始めた。しかも、その売れ行きといえば、朝になって地平線が明るくなる頃には、ニワトリの鳴き声よりも、人々の騒ぐ声で老夫婦は目が覚めるようになっていた。
おじいさんといえば、もう一度あのタマゴを味わいたいと思っていたが、おばあさんは「売人が自分の商売に手を出すなんて言語道断」と厳しく叱る。おじいさんにとって売人とかプッシャーとかそういうものは解らなかったが、おばあさんの壮絶な過去を垣間見るようで、黙って従っていた。
そうやって大人気のタマゴサンドを売り上げていたところ、老夫婦の元に一人息子が都会から返ってきた。
その息子というのは他ならぬ放蕩息子であったが、田舎で育つのには少し賢すぎたために、それならば都会の大学でビジネスの勉強をしてもらったほうがいいだろう、と思って上京させたのである。確かにこの息子は賢かったが、商人には向いていなかった。どちらかというと社会学者に向いており、適当に統計をでっち上げたりしては、やんややんやと社会問題に首を突っ込んだりしていた。もちろん、働いてはおらず、かといって非常勤講師の職にもつけないので、老夫婦の年金をせしめて生きている。
「おじいさん、おばあさん!ただいま!かわいい我が子が返ってきましたよ!」
三十代がかわいいかどうかは議論の別れるところではあるが、しかし両親にとっては我が子というのはいつまでたってもかわいいものである。しかし、かわいい子供が帰ってきたのにも関わらず、老夫婦はでかけていた。というのは、老夫婦は取材を受けては「愛情こそが最大のスパイス」などとメディア受けしそうなことをインタビュアーに答えていたのである。
しかし、この息子は家のテーブルの上にタマゴサンドがあることに気がついた。それはおじいさんがこっそりあとで食べようと残しておいたものである。息子はちょうどお腹が空いており、「本当におばあちゃんの料理を食べると、家に帰ってきたかのように安心するよ」などと心にもないことを言って、食費を浮かせようと思っていたところだったので、そのタマゴサンドを食べることにした。
息子は一口食べて気がついてしまった。
このタマゴサンド、シャブが入っている!
都会というものはうぶな青年たちに対しての誘惑が多いことで良く知られている。一歩繁華街を歩けば、それこそ野菜だとかキノコとかハーブだとか風邪薬だと、そういう怪しげだが、幸福を金で買うということに相応しいものがそこらかしこに転がっている。そういう薬物について、やたら詳しいのが若者たちの嗜みというものなのである。
両親が何の因果でシャブを売っているかはわからない。ただ、おばあちゃんが家族で銭湯に行こうとしなかったこと、いつも長袖を着ていたこと、そしで袖口から何やら肌に掘られた模様がちらほらしていたこと。そこから色々と察そうとしたが、しかし、おばあちゃんは意外と若いところもある。田舎に一つしかないクラブに出入りしていたことを、幼馴染から聞いたこともある。そういう仕事をしていてもおかしくはない……。
この息子は、言わば学者特有の浅慮を持ってしてこのように考えた。
もし、このおばあちゃんのタマゴサンドにシャブが入っていることを暴き立てたとしたら……。そうすれば、世間の人々は大騒ぎをする。そして、おばあちゃん達は逮捕される。そうすると、遺産は全て自分に転がり込む!シャブを売っているのだから、かなりの蓄えがある筈だ……。
何はともあれ、善は急げである。賢明な読者であるならば、これを持ってして「善」なのかどうか、首を傾げるところであるが、往々にして人というのは自分の成すことを「善」と思い込む傾向が強い。特にこの息子というのはそういう人間である。だから、このように「おばあちゃんを売る」ことは、バタークッキーやハニートーストを焼いてくれたやさしいおばあちゃんに戻ってもらう為に必要なことだと思っていた。
息子は村に飛びだして、出会う村人に次々と演説をぶち曲げた。
例えば、幼年期にいつも親の精神薬を盗んではラリっていたころの叱ってくれていた、未成年を売春することにしか興味のない神父であったり、あるいは、夫婦特有の倦怠期を誤魔化すために何時しかダブル不倫になってしまった二組の夫婦。または、都会からやってきた青年に処女をヤリ捨てされたのにもかかわらず、未だにその青年が返ってくることを心に願っているそばかすの少女。
その人達に「タマゴサンドにはシャブが入っている。食べてはいけない、あれは危険な品物だ」と熱弁するのだが、しかし村人達は疎ましい顔をするか、あるいは「考え過ぎだ」と話を打ち切る。
息子の頭では、村人たちはもはや「おばあちゃんに弱みを握られていて、本音を喋ることができなくなっている」と思い込んでしまっていた。息子の思い込みが強いのは、薬物乱用の後遺症のせいであったが、本人は全く自覚症状が無く、そういった人々が集まる自助グループにも参加していなかった。息子にとっては、そういうグループの顔つきが大嫌いだったからだ。息子は、自分の偽善にはそれこそメイプルシロップのように甘かったが、他人の偽善にはハバネロのように厳しくあたっていた。
とにかく、村人にことごとく拒絶されてしまっているせいか、彼は怒り心頭であったため、一刻も早くこの村から出るべきだと考えた。俺はやはりシティーボーイ。こんな田舎者の巣窟にはいられない。もはやかまうものか。彼は即座に新聞社に電話をかける。受付に自分の名前を伝えると、編集長に自分の話を売り込む。内容は「一人の善良なおばあちゃんが、村人をシャブ漬けにしている」という恐怖。編集長は直ぐに話を聞きたいというわけで、明日新聞社に来てくれと伝えた。
都会に帰り、自分の部屋でビールを飲み、食べかけのピザをほおばりながら、お気に入りのポルノを見て一日を過ごした後、即座に編集長のデスクへと駆け込む。「おばあちゃんの息子」の姿を、編集長が見つけると、記者が取材対象に見せる特有の「私には敵意が無いですよ」と伝えるためだけの笑顔を見せて、近寄ってくる。そして、息子をいわば取材対象に話を聞くための防音室に通す。
そこの室内は赤いソファと彼岸花が備え付けられていた。息子はソファに深々と座り、足を組む。編集長は恰も気を使っているようなそぶりで、息子に話しかけている。
「そういえば、お腹は空いていないかね。もし小腹が空いているとするならば、例えばそうだな……。タマゴサンドなんかどうだね」
そのように編集長は提案する。息子は「タマゴサンド」という単語を聞いてドキッとしたが、心を落ち着かせてその申し出にのった。編集長は、その返事を聞くと満足そうに、指を鳴らす。すると、そこに現れたのは……。
「お、おばあちゃん!」
そうだ、そこに現れたのは、例のおばあちゃんである。おばあちゃんは村の様子とは打って変わって、赤い高そうな婦人用スーツに身を包み、サングラスを付けていた。村の姿で見る野暮なエプロンを着たおばあちゃんではない。その姿の二面性について、息子は裏の顔を瞬時に理解し、そして顔を青ざめさせる。そして、片手にはタマゴサンドではなく、サイレンサーの付いた銃が握られている。
その銃から弾丸が発射する直前に、息子は自分の頭が卵のように綺麗で、周囲の親族にやたら褒められていたことを思い出した。卵料理を作るときには、殻を割らなければならぬ。殻と骨は違うものではあるけれども、やわらかいものを硬いものが包みこんでいるという意味では一緒のものだ。だから、息子の「タマゴサンド」を作るためには、その頭蓋骨を割らなければならぬ。
「坊や、村の人から聞いたよ。あんた、余計なことを散策しているって。あんたの悪いところはそうやって余計なことに口を突っ込もうとすることなの」
そして、弾丸は放たれる。
◇◇◇
元来、私はこういった寓話の教訓を述べることは苦手である。だが、一言だけ言えることがある。
多くの中毒者というのは、自らの中毒を自制できている、あるいは、自分が中毒であることは不可避なことであって、仕方ないことだと信じ込んでいる。だから、中毒患者に対して「貴方は依存症なのですよ」と言うと怒り出すのである。
文明にも似たようなところがあって、私たちが文明によって依存症を内包しているとき、その否認として多大なる反発が生まれ、ときには大きく恨まれることがあることを、この息子のような人達は忘れがちなのである。
ほのぼのレイワ えせはらシゲオ @esehara
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