跋 ある軍人の立身
終局 上下
列椿の国の首府、王城の上階、
もう夜も遅い。石造りの床、銀の柵が、
「ねえ、本当に今さらなのだけれど、決して、嫌ではないのだけれど――」
事の次第を承知している行は何も言わなかった。
「――どうして潤がここにいるの?」
「そりゃあ、いるよ。なんたって、明日、一緒に仕事をしようっていうんだから。親睦なしに連携を築くのは無理があるからね。ま、誕生日祝いの贈り物は、ひとつでも多いほうが、あたしも嬉しいし」
今日は十二の
反して、潤は金に余裕がたっぷりとある。伊達に
これ以上、この話題を掘り下げても、改には自分が不利になるだけのように思われたので、切り口を変えることにした。
「潤と一緒に仕事を?」
「そ。明日の警備、潤と一緒にやるから」
今となっては、改には不満があるではない。島に招くのに好都合であるし、周囲を見渡し、即座に攻撃に移れる潤がいることは、警備を万全なものとしよう。しかし気になることはあった。
「潤も一緒に、って、よくそんな予算がついたものね」
戦勝請負に加えて、
「まさか。いくら列椿だってそんなお金はないよ。明日一日だけ、潤は正式な戦勝請負の一員だから、よろしく」
改は絶句するしかなく、沈は嬉しそうに聞いていて、行は饒舌に続けた。
「正式な一員として加わるんだから、潤には、戦勝請負の流儀に従ってもらう。
当の潤は、沈よりもいっそう嬉しげでいた。喜色満面で口にする。
「あっちゃんとさっちゃんより多いんだよねぇ。そんなにもらっちゃっていいのかなぁ?」
むしろ額が多いと疑問を持つのだった。潤のそば、
「いいんだよ。潤は経歴も長いし、一番年上なんだから、それで」
行はさらさらと言うが、どう考えても、よくない。改にはそうとしか考えられない。正式な一員であるのは一日だけ、つまり行は、一日あたりの小遣い、たったの一〇〇
他方、改には当てつけにも思えてくる。
「まるで、
改は行を睨む。行は面白そうに笑うだけで、否定する気を見せなかった。
「ま、実際、必要ないからね。君王苑半周なんて。
改は、結局は文句がつけられない。潤が孤独に過ごす日が一日減るというなら、それは望むところなのだ。
「ところで、さっちゃんはどこで何をしてるわけ?」
行がやっと思い出したかのように言った。囁からの贈り物にはもとより期待していないと、改にはそのように聞こえる。
沈が、少し言いにくそうに口を開いた。
「その、さっちゃんは、生理痛が重いということで、部屋で休んでいます」
「まあ、体調不良は仕方ないけど。でも珍しいね、しずっち、そういう時はさっちゃんの面倒見てるでしょ」
どこか残念そうな、少し嬉しそうな、複雑な顔つきになって、沈は疑問に答える。
「わたくしとしては、そうしたかったのですが、先客がいましたので、遠慮してこっちに来たんです」
言われて、行には先客に思い当たるところがある。戦後処理をしていく中で、
「あたしの誕生祝いは欠席でいいけど、これから明日の作戦会議をするから、そっちはそうもいかない。潤、さっちゃんを無理にでも連れてきてくれる?」
「ええぇ、行ってもいいけど、潤の仕事、高いよぉ」
困惑の浮かぶ潤に対して、行は親愛を込めた笑顔を向ける。表情は言葉に力を与える。欠かしてはならない。今や、全くの偽りというわけでもなかった。
「これは仕事の依頼じゃないよ。友達としてのお願い」
友達、その語に、潤はことさら強く反応し、びくりと、椅子の上でわずかに跳ねるようになった。そうもなるだろう、改は思う。友達らしい友達なんて、
「大急ぎで絶対に、さっちゃんを引きずってでも連れてくるね!」
潤はすっくと立ち上がり、意志の炎は瞳の
これもやはり、改には当てつけに思えるばかりだ。
「君王苑を半周する必要なんてなかったと、そう言うかのようね?」
行はまたも否定せず、面白がりながら、呆れてみせるだけなのだ。
「実際、必要ないからね。君王苑半周なんて。ちっとも」
潤に連れてこられるなり、部屋着として着ている藍染めの浴衣のまま、囁はぐったりと床に倒れ込んだ。軽く
「いったいどういうつもりだ。腹痛で苦しんでいる者を、無理に起こして連れ出すなどと」
その人物は怒りをあらわにして、今にも噛みつかんばかりである。
「
潤は不思議そうに言う。怒気を振りまいて立つのは、死処の姫として名を知らしめた、
「いくら
機嫌をすこぶる損ねたまま、早はまくしたてる。
「そんなことは
「まあまあ、はち公の言いたいこともわかるけど」
行は、一応は早をなだめ、場を収めようとした。疑問を呈したのは沈だ。
「あの、いくらあだ名とはいえ、はち公というのは……」
早を指して言われた名であり、普通、はち公は犬への愛称である。人に使うのはいかがなものかと沈には思われた。しかし、早本人は一向に気にしない。気にするだけの余裕がない。そして、怒りの収まる気配がない。
「わかられてたまるか!
行はすぐに諦めて、膝元に置いていた
「これ、あたしの印。貸してあげるから、軍の医療班のところに行って、薬を分けてもらってきなよ。そこなら、西国から輸入した鎮痛剤があるから」
聞くや否や、早は半ば引ったくるようにして行から印を受け取り、先の潤を上回る速度で
行は何とも言えない顔つきで、沈に答えた。
「ね、はち公っていうのも、的外れじゃないでしょ。まるで忠犬だよ」
沈はずいぶんと困り果てて、どうにか言った。
「その、わたくしとしては否定したいのですが……否定の言葉が見つかりません」
下働きの者が三人、器に載ったかき氷を持って、
「遅くなって申し訳ありません。雑務がなかなか片づかなくて。お詫びにと思って、かき氷を用意してもらいました」
それぞれ、かけられた蜜の違う、六つのかき氷が銀の円卓に並べられる。潤は数に入っていたが、さすがに早の分はなかった。
ちょうど下働きの者と入れ代わりに、薬を取りに行っていた早が駆け込んでくる。すっかり肩で息をしていた。ふっと顔を上げ、かき氷に目が留まるや、また怒りをこらえられなくなる。
「腹痛で苦しんでいる者に、かき氷を食べさせようというのか。いったいどういうつもり――」
またもまくしたてられようとするところ、遮ったのは腹痛を抱えている本人、囁だった。
「早、僕、苺の蜜のやつね。溶けちゃうから、今、食べる。持ってきて」
言われるなり、早は自分の言っていたことをすっかり忘れ、円卓の上から苺のかき氷と
「やっぱり、はち公だよ」
「その、えっと、否定したいのですが……ごめんなさい」
行は納得し、頷きを繰り返し、沈は申し訳なさそうにうつむいてしまう。
どうあれ関係は良好なようだとして、行は視線を移し、円卓のそばに立つ睦に向ける。言うことがあった。
「睦、出世おめでとう」
行はいたずらめいた笑みで言う。睦には心当たりがない。何を指して出世と言われているのだろうか。訊ねるしかなかった。
「出世とは、いったいどういう?」
「正式な書類は明日だって言ってたから、まだ知らないか。軍の選り抜きは任命に対して拒否権がないから、どうしようもないけど」
どうも睦には、穏やかならぬ事態に思える。問いが重なる。
「いったい私は、何に任じられるんですか?」
ごくごく当たり前のことのように、自然な口ぶりで行は答えた。
「出世おめでとう。睦は明日から
「は?」
言ったまま、睦は開いた口が塞がらない。そして、思い出してしまう。先の
たっぷり唖然とした後、睦はどうにか気を取り直し、別なことを訊ねた。
「いったいどういうからくりなら、私が総大将になれるというんです?」
どう考えても、睦には、行の策略であるとしか思えなかった。
「心外だなぁ。あたしはただ、質問に正直に答えただけだよ。ほら、さすがに、爺ちゃん将軍をそのままにしておけないでしょ。戦勝請負としても困るし。信頼できない将のもとでは仕事ができないって、王に言ったわけ」
そこまでは、睦にも当然の流れだと思える。軍の主力を、知っていて危険に晒したのであれば、どこかから
「で、王にさ、誰であれば信頼できるのか、って、そう聞かれたから、思うままを言っただけ」
それは、聞かれた、ではなく、聞かせた、というほうが正しかったろうと、睦には思える。行は巧みな話術をもって、話を誘導したのだろう。
「聞かずとも答えはわかりましたが、どうぞ、続きを」
睦は諦めの境地に至る。選り抜きとなるにあたって、任命に拒否権を持たないと、しっかり契約を交わしている。自宅の書類棚には契約書の控えがある。逃れられるものではない。それも含めての待遇なのだ。
本来、地方へ赴任することを拒めないなど、そういう狙いのものであるが、まさか総大将の就任において活かされようとは。
作った表情ではなく、ごく自然と、行の顔つきは嬉しげになった。行にとってもっとも望ましい人選が実現しようとしているのであるから。
「もちろん、答えは決まってる。戦勝請負にとって信頼に足る将は、乙気吹睦しかいない、ってね」
ほとんど脅迫に近しいと、睦はげんなりしながら思う。乙気吹睦を総大将に据えなければ、戦勝請負は列椿の国から離れると、そう言っているに等しいからである。王としては、若手の
勝者は乙気吹睦ただひとり、それはあるいは正しいのかもしれないが、睦は疑問にも思う。これで終わらないような気がする。別千千行の策、その裏の裏は、乙気吹睦が総大将に就くことであるのかもしれない。けれど、裏の裏の裏がないと、いったい誰に言えるのか。あの別千千行のやることなのだ。あっておかしくない。
「明日、元旦の祝賀の後、睦の総大将就任式典をするから。警備はあたしが指揮を執ってきっちりやるから、睦は堂々と祝われてくれればそれでいいよ」
行は自信ありげに言う。実際、何の心配も要らないだろう。潤まで抱き込んで、万全に万全を期すような構えなのだ。睦は祝賀の警備と思い込んでいたが、万全を期したいのはその後に続く式典であるらしい。
もう諦めに達していることもあり、睦はいっそ強がってみせるしかなかった。
「わかりました。出世するために選り抜きになったんですから。総大将になるのなら、上等です」
「いいね。その
睦にとってはそら恐ろしいことを、行はさらっと言うのである。
睦がうっすら寒気を覚えるのと同時、夜空で光が瞬いた。遅れて破裂音が響く。祝いの花火が上がったのだ。
ついさっきまでは十二の
集まった面々の目を奪う。それぞれの顔を鮮やかに照らし、さらに瞬く。城下で歓声が聞こえる。新しい年の始まりを喜んでいる。
それぞれがそれぞれの思いを抱えて、花火に
別千千行の策、その裏の裏の裏、それを成すために。
自分でこれだけのお膳立てをしてなお、やはり行は、恥ずかしかった。
睦を勝たせた、それには違いない。行はそのついでに、もうひとつの裏を足したのだった。本当なら必要のないはずのところ、言う勇気が足りなかったために。
「さて、もうあたしの誕生日は終わり。だったら、睦はもう総大将。となると、あたしたちの雇い主だ」
今もまだ、行はひどく遠回りをする。こんな時まで理屈を並べてしまうのかと、心中で苦笑することになった。
「それなら、上下の別はわきまえないとね」
とりわけ大きな花火が咲いた。面々がそちらに気を取られる中、行と睦だけが、互いを見ていた。
行は、困るようにしながら、恥ずかしげに、睦に向けて手を伸ばした。握手を求めた。頬を染めながら、行は言う。
行なりの上下の別で、睦のことを呼んだ。
散々な遠回りの果てに、それは声になって、睦のもとへ届いた。
「今後ともよろしく。睦姉ちゃん」
咎なることばの絡繰草子 香鳴裕人 @ayam4
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます