四七 月光
月明かりの山道が、もとの暗がりに戻っていた。
早は汗だくで、もはや戦いも終わったとなれば、ためらいなく汗に濡れた装束を脱いだ。ずいぶんな水気を含んでいた。下穿きだけになってから、主として包帯に使う布を胸に巻いた。
早は少し不満げに、囁に訊ねた。
「どうして、奥の手をひとつしか使わなかった? ふたつあるはずだろう。あれは
囁のほうは、着ていた服は燃え散り、花片の爆裂によって、置いていた
「さっきのは
「それは、禁止されているという意味か?」
囁は首を横に振った。禁止されるまでもなく、どうあっても言うべきではない。
「かつて、乱の明が、たった一度だけ、奥の手を言ったことがあるよ」
御前試合は引き分けに終わった。その引き分けが、囁が手を抜いた結果と思われては意味がない。早の里の望みは、早の強さの証を得ることだった。
「乱の奥の手は、対象をふたつ選ぶ。ひとつは、普通のと同じ、咎言の影響を与えたいもの。もうひとつは、大切な人。その人が傷つく、それが代償なんだ」
早の過去、咎を負った
「普通のは、道理をねじ曲げ、あってはならないことを正しくする。奥の手は逆なんだ。そうあるべき道理で、けれど、もっともあってはならない結果を引き起こす」
囁は思い出す。もう心に愛は照らされず、痛みばかりが走る。
「かつて僕は、火打ち石に対して、奥の手を言った。正義の味方は、悪人の恨みを買うからね、たまたま、殺されそうになっちゃって」
偶然、そこに火打ち石が転がっていた。視界に入って、それがいいと思った。おそらくは炎となるだろうと思ったゆえに。炎ならば、続けて自分に
「火打ち石ぐらいなら大丈夫だろう、大切なあの人が傷つくとしても、ちょっとした怪我で済むだろう。わけを話せば許してもらえる、そう思って、言った」
本当なら、
「違った。火打ち石の役目である火花、それが、燃やすなんてものじゃなくて。焼き尽くすというのも、正しくなくて。その炎、すごく熱かったんだろうね。僕は僕に咎言を言っていたから、涼しくて仕方なかったけど」
思い返す。一瞬の火、その後の景色を。
「その火は、都をひとつ、蒸発させたよ」
自分だけが残った、世界の終わりに似た光景。
―――――――――――
――嫌だ。こんなところで。これから、言いに行くんだ。だから。
――こんなところで、ここで、死にたくない。
――約束するんだ。指輪をもらって、言葉を返すんだ。
――言いたい。
――ずっと一緒にいる、って。
――だから、だから。
――ここで、死ねない。
「
―――――――――――
「青い光がぱっと広がってから、火が満ちた。次の瞬間にはもう、都は存在していなかった。そのすぐ後のことは、よく覚えていない」
一瞬のうちに
「気がついたら、この世のものとは思えない色をした湖に、ひとり、浮かんでてさ」
その時、なんとなく思われた。蒸発するほどではなかった深さで、地が溶けたのだろうと。液体になったのだろうと。
「周りには青い光が残っていた。けれど僕は、空高くで光がきらめくほうを見ていたよ。ちょっとゆっちに聞いてみたら、その空の光、
早の考えの中で、囁の話が、世間に知られているひとつの出来事と一致した。
「天の
早の言う通り、囁が都を焼き消したことは、そう解釈されていた。
「そう。一瞬で都がひとつ消えちゃったらさ、天の
早には
「仕事では、
原因は都を焼き消したことだけでは、無論、ないだろう、早は思う。都がひとつ消え去る火の中で、大切な人が、無事でいられるわけがない。咎言の対象として選ばれているなら、なおさらに。
早は何も言わない。
囁は、早の瞳の色に、優しさを見る。月明かりの頼りない光のもと、はっきりとわからないはずが、それを見る。
改しか知らないことを、改さえ聞かなかった本音の形で言ってしまおうと、囁はそんな気にさせられる。
「大切な人に、どうしても伝えたいことがあったんだ。だから死にたくなくて、それで、奥の手を言ったんだよ。大失敗だったね」
わずか、一粒ばかり、囁の頬に涙が滴るのを、早は見た。
「馬鹿だよね、僕。言っちゃいけないことを言って、本当に言いたかったことは、ずっと、言えないまま」
早は言わない。
何も言わない。
ただ、見つめている。
かつて自分を照らした光を、少しでも囁に返せるように。
どこの誰であっても、囁を許してやることはできない。
何を言ったとしても、それで囁が救われることはない。
だから、何も言わない。見つめたまま、隣に立つ。ただただ、そばにいる。
その無言のうちにこそ、その優しさにこそ、囁は支えられる。
黙したまま、月明かりに照らされる早が隣にいるから、いてくれるから、
囁は知る。
――月光が、こんなにも鮮やかに、優しさを照らすものだったなんて。
できれば、もっとずっと長くこうしていたいと、囁は願うほどだったのだが、そうもいかなかった。
人の近づく気配を感じた早が視線を外し、頭上を見上げ、直後、呑気な問いが投げかけられた。
「
崖の上、戯を伴った潤は、右手にふたつ、左手にひとつ、三つの大福を持って、当たり前のように尋ねてくるのである。言いようから察するに、決着の場面は見逃しているようだった。途中経過も見ていたのかどうか、
結局、山道が闇に落とされることはなかった。潤にその気があれば、試合の全容を見ていられたはずである。
「残念ながら、
呆れ混じりに早はこぼすが、囁は微笑みを向けた。
「都合がいいんじゃない?
他ならぬ囁に気を利かされて、早に拒む余地はなく、「
「じゃあ、さっちゃんは桃大福ね」
次いで、囁の手元に放られたのは桃の大福なのである。
「負けた人は最後だからねえ。潤にも苺が食べたい時があるから、仕方ないよねぇ」
桃の大福を手に、勝ちを譲ったことを囁が半ば後悔しているところ、早が囁に問いかけた。
「
あるいは囁を傷つける問いかもしれない。それでも早は言いたかった。
失ったものばかりではなく、手にしたものがあるのではないか、と。
「乱の囁の奥の手は、今、ふたつ目の対象として、
優しいのはもはや、瞳ばかりではなく、声音からもあふれるようなのだ。早は尋ねている。代償とするにふさわしいほど、早を大切に思えるかどうかを。過去になかったものが、今ここにあるかどうかを。
「そうだね。きっと、選べるよ。今なら」
囁が苦笑に似た微笑みでそれを言うのを聞いて、早は満足した。
「さて、
「僕?」
問われ、考えてみるが、もう
迷いなく、微笑みのまま、囁は答えた。
「大切なみんなのところへ戻って、お疲れ様って、そう言うよ」
心から言いたいことを、大切な人に向けて言う。それだけだ。
囁は頭上を見上げた。すでに大福に
囁は、言った。
「潤も、お疲れ様」
それを聞き、口の端に
「うん! お疲れ様だよぉ!」
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