「落ちる石」を思うとき、天使の羽は黒くなる

 僕は自宅に帰った。

 ベルクは相変わらず、例のソファでだらしなく寝ていた。掛け布団がずれていたので直してやると、久しぶりに身体を動かしたせいか、眠くなって、そのまま寝てしまった。


「おはよう。ノイくんはいるかな」

 その声に気が付いて目を覚まし、ドアを開けると、そこにはリダンが立っていた。いつもの通り、満面の笑みだ。ベルクの笑顔が動だとすると、リダンの笑顔は静である。

 近くには、プニッツがいる。プニッツはちょっとモジモジしていた。


「あ、プニッツもいたんだ」

「だって、リダンがどうしても来たいって言うからさあ……」


 そう言いながらうつむく。プニッツは不機嫌とはいえ、どちらかといえば元気溌剌という感じなんだけど、今日はその元気が半分くらいに減っている。


「なんか元気ないみたいだけど大丈夫、プニッツ?調子悪い?」

「バカ!そういうのじゃないの」


 その様子を見ながら、リダンが笑う。


「そういえば、僕を助けてくれたお礼で、お菓子を買ってきたんだ。《暗黒の地》から渡ってきたものらしくて、羊羹っていうんだ」


 羊羹とは珍しい。僕は皆で食べましょう、と提案すると、簡単なお茶会が開かれることになった。

 お茶と聞いて、ベルクは面白い機械があるからと、奥から何やら、ビーカーっぽいガラス瓶と、穴の開いたコップのような形をしたガラス容器を持ち出してきた。

 これは元の世界で見たことがある。いわゆるサイフォン式コーヒーメーカーというもので、下のビーカーに水を入れて、アルコールランプ等で水を沸かす。すると、密封されたビーカー内の蒸気圧により、水が上がっていき、上部に設置されたコーヒーと混ざる。

 そこから温度が冷えると、また蒸気圧が下がるので、水が下がっていく。

 簡単に言えば、そういう装置だ。


 しかし、問題はそこではない。

 僕が元の世界で、喫茶店のマスターに聞いた話ならば、サイフォン式コーヒーの起源は、だいたい十九世紀前半だと言われている。

 また、ガラスがあることは不自然ではないが、耐熱ガラスがあるというのも不思議だ。この世界は技術が変に偏在している。


 気が付くと、隣でプニッツが心配そうな顔をしている。


「どうしたの、ノイ。なんか怖いよ」


 いつの間にか険しい顔をしていたのだろう。目の前で、ベルクとリダンが水が上がっていく様子にざわめき、そして議論している姿を見ながら、少し心を落ち着けようと思った。そもそも、技術の発展というのは直線的ではないわけで、もしかしたら、この世界には独特の発展の仕方があるのかもしれない。


「あ、いや、ちょっとね、考え事」


 お茶が継がれたカップを持ち上げ、口で冷ます。一口飲んだあと、羊羹を食べる。甘すぎず上品な甘さだ。そして、何処となく、元の世界を思い出す懐かしい味だ。

僕はグランに尋ねた。


「そういえば、グランはこの茶入れはどこで知ったの」

「んー、実はこれらは行商人から二束三文のガラクタとして引き取ったものなんだ。なんか面白い形をしているから、買ったあとに、パズルのつもりで適当に組み合わせたら、これが出来たってだけだよ」


 チェス、そして、サイフォン式コーヒー。確かに、こんな細かいことを考えるのは、正直パラノイア的だ。しかし、どうしても引っかかる。

 《転生者》が自分一人であるとは限らない。それは考えうる。しかし、自分以外に《転生者》がいたとして何だというのか。なぜ、そのことにやたらと引っかかるのか。


「興味深い現象だ。水なのにも関わらず、上昇する目的を持ち合わせている。普通、水は下へ行く目的を持ち、温められて風に変化して初めて上に行く、という目的になると言われている」


 一方、リダンの、その興奮した説明は、確かに元の世界では、余りにも滑稽な説明であったけれども、この世界における科学観の一端を知るのには充分だった。なるほど、そのような考え方をしているのか。


「うー、リダン、当初の目的を忘れていない?」


 リダンははっとした表情をしたあとに、ちょっと照れくさい顔をした。


「いやあ、僕はこういうことになると、つい熱弁を振るってしまうんだ」

「この熱心さが神学にもあればいいんだけどね。天使だから期待されているのに」


 プニッツは呆れた顔をしている。僕はこの世界に天使がいるんだ、ということに興味を覚えた。


「へえ、リダンさんは天使なのですか。なんか神の使いとかいう奴なのですか」


 リダンは気まずそうに、一口紅茶を含む。


「ああ……でも自分の役割は正直わからないんだ。生物の殆どは、生まれたときに目的が教えられるわけじゃない。僕も似たようなものさ。君たちと違うのは、単に背中に羽が生えているだけさ」


 その言葉を聞きながら、僕が転生したときのことを考えていた。僕も《神の間》らしき場所に通されたとき、ただ与えられた能力と、これから別の世界へ連れて行かれるということだけだった。

 ちょっと重苦しい雰囲気に耐えかねたのか、ベルクが唐突に声を上げる。


「でさ、その当初の目的ってのはなんだい?さすがに水の上がり下がりを見て、お菓子を食べるためだけに来てるわけじゃないだろ」


 ベルクは雰囲気を和らげるためか、道化のようにちょっと大げさな形で答える。


「そうだったね。でも一言で終わることなんだ。ノイくんと、ちょっと話をしたいと思っていたんだ。ベルクくん、ちょっとノイくんを借りていいかな」


 プリッツは不満げな顔をして、こちらを見る。


「なんで、私は一緒じゃないのよ。もう、私はいっつもこうやって雑用ばかり押し付けられて」


 ああ、いつも酒場でやってる奴だな、なんて思うけれど、リダンはゆっくりと、そして軽く頭を下げて謝ると外に出た。僕はプニッツのほうを向くと、


「ごめん、何か埋め合わせをするよ」


 と言って、慌てて外に出た。僕が謝るべき理由は特にないけれど、プニッツがこうやって連れまわされたことについては、何か謝るべきだと思った。


「なんであんたが謝るのよ、謝るのはリダンだからね」

 そんな声が、工房から聞こえてきた。


 リダンと僕は二人で川沿いを歩いていた。

 この都市は、川を挟んで北部と南部に別れている。南部は、北部よりも治安が悪いと言われており、素性の知れない人間が多いと言われている。ベルクは南部で開催されている闇市を見にいっては、ガラクタを集めるのが趣味らしい。

 リダンは、背筋を伸ばし、川沿いをゆっくりと歩いていた。その雰囲気は、思慮深く、落ち着きを感じさせる。根っからの聖職者という印象がある。


「例えば、重い鉄球と軽い鉄球がある。この二つを同時に落とした場合、どうなると思うかな?」

「まあ、たぶん同時に落ちると思います」


 リダンはにっこり笑った。僕は何気に返事してしまったけれど、ここの文明レベルのことを忘れてしまっていた。


「私たちの哲学体系によれば、普通重いものと軽いものがあった場合、重いもののほうがより速く落ちるとされている。

 確かに、重いものを持った場合、それを持っているだけでも疲れるわけで、それくらいに地面へと戻ろうとする目的が備わっていると考えられるんだ」


 黙って聞いていた。

 リダンは、この世界の自然科学について語っている。その理解は、僕の元の世界における物理法則の理解と真っ向に違う。


「結論から言えば、君の意見は正しいと思っている。実は、僕も重い球と軽い球を、教会の屋上から落として確認したことがある。プニッツに凄く怒られたけどね」


 リダンは、石を拾うと川に投げる。静かに川へ着水する。

 チャポン。


「君も知っての通り、僕は天使なんだ。だから、教会や市井の人々も、僕が人類を諭し、導くことを期待している。

 だから、僕はよく勉強して学んだんだ。だけれど、ある時気が付いたんだよ。僕は石が落ちる理由も知らないんだって。だから、神の心を学ぶより、勉強するべきたと思い、魔術大学へ入学したんだ」


 石が落ちて、波打った水面は、何事もなかったように元通りになる。


「そこからだ。僕の羽が黒くなりはじめたのは」


 リダンは笑っていた。しかし、その微笑みには、哀しみが混ざっている。

 その雰囲気を打ち消すかのように、透き通った声が聞こえる。この声はエリザベス女王のものだ。


「どうもこんにちは。わざわざこのような者に声をかけて頂けるとは光栄です」


 リダンはうやうやしく頭を下げる。ローブを着て、その姿は見えないけれど、振る舞いから隠しきれない気品を感じる。


「教会の説教を聞きにいっていたのですが、貴方がいないのでどうしたのかしら、と思っていたのですが、こんなところにいたんですね」


 僕たちが話をしている間に、何時の間にか教会に近づいていたことに気が付いた。

 エリザベスは僕を見つめた。そのローブからもわかる、透き通った、そして突き刺さるような目つき。


「リダンもこのチェス名人のことが気になって仕方ないんですね」

「ほう、エリザベスさんも、この青年のことを知っているんですか」

「街中ではエリーゼと呼んでください。いつ刺されるかわからない立場なんですから」


 リダンは笑顔を崩さないものの、少し弱った顔をしている。お忍びで教会に通っているとは言え、この大胆不敵さは本当に恐ろしいなと思う。

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異世界で科学を発展させるとして、僕には何が出来る? えせはらシゲオ @esehara

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