YMJKは静かに眠る(3/3)

 柏ICで降りた車は西へと進路を取った。国道の両脇に駐車場つきの飲食店や中古車店、ホームセンターやスーパーマーケットが流れていく。ヤヒルが声を上げた交差点を曲がると道幅は狭くなる。壁の汚れた一軒家が並ぶ旧市街地を時速四十キロメートルで進んだ。空は夕方の赤色に染まり、紫の雲が斜めに三本の筋を引いていた。五分も走ると道路の舗装は一新される。街路樹の埋まった歩道、ベージュ色に塗られた車庫付きの家、スタジアム付きの運動公園、そういった宅地開発の典型的な風景が現れる。

「ストップ」

 小奇麗な一軒家の前で車は止まった。屋根付きの駐車場は空で、自転車が一台だけ止まっている。女子高生は車から降りて門扉を開けた。助手席の窓から見ている荒沢に向けて「バイバイ」と手を振った。玄関扉が開いて閉まり、ヤヒルは家の中へと消えた。荒沢はアクセルに足を乗せようとして思いとどまる。壁下に置かれた室外機の羽根が回っている。彼女がドアの鍵を開ける様子を見た記憶が無い。時間が経っても家の明かりは点く気配を見せなかった。西日が窓を照らしているが、いずれも厚いカーテンに覆われて中の様子は分からない。荒沢はサイドブレーキを引いて車を降りた。インターホンを押す。応答は無く、まるで留守のように静まり返るだけだった。新聞受けには何日分もの郵便物が溜まっている。荒沢はヤヒルの番号に電話をかけた。こちらも応答は無く、顔をしかめて玄関扉の前に立つ。ドアノブに手が伸びる。傾けて引くと容易に開いた。鍵もチェーンもかかってはいなかった。

「ごめんください」

 荒沢は十秒待ってから革靴を脱いだ。下を見るとローファーが一足、整えて置かれている。天窓から差した光が宙を舞うホコリを照らす。薄く積もった床面には足跡が残っていた。二階へと続いている。荒沢はゆっくりと階段を上った。踊り場で二回、左へ直角に曲がり最上段に着く。先の廊下はT字路になっている。突き当たりで右を向けば閉じたドアがある。振り返って左を向けば人がいる。無表情で立つのはヤヒルだった。荒沢は首の脂汗を手の甲でぬぐう。

「おい、いるなら返事くらいしろよ」

 返事は無かった。ヤヒルは制服の上にダッフルコートを着たままの姿で、フードはかぶっていない。ふわりと右腕が持ち上がる。伸び切らない人差し指が荒沢のほうを向いた。「トントン」ヤヒルは言った。トントン、と音が鳴る。荒沢は振り返る。気のせいではなかった。扉から二回目のノックが響く。トントン、同じリズムが緩慢に繰り返される。

「あけて」とヤヒルが言った。

 荒沢は思い出す。間取りを整理すると、外の室外機はちょうど前の部屋に配管がつながる配置になる。

「お願い、おにいさん」

 ドアノブに触れるが、力を込めても開かない。鍵穴は見当たらず、物理的な力で閉じられているのだと検討をつける。さらに肩と腕とで力を加えると、隙間から粘着質のはがれる音がした。強引に蹴り飛ばすとドアは開いた。扉の端からガムテープが垂れている。悪臭が徐々に流れ出てくる。部屋の床に金属バケツと殺虫剤の缶が見える。荒沢はハンカチで口元を押さえて中に入った。エアコンがしきりに強風を出す音が聞こえる。バケツの中身は燃え尽きた灰だった。部屋を閉じ切って使う燻煙式の殺虫剤が三つ、使用済みのまま放置されている。天井の火災報知器には誤作動防止の袋が垂れ下がる。冷房の設定温度は16度、窓や建て付けのクローゼットといった隙間には執拗にガムテープで目張りがされている。調度品は少なく、隅にドレッサーと椅子が一つ、中央にダブルベッドが置かれている。空気が薄く、酸欠と警戒して荒沢は息を止めた。ベッドに横たわる死体は二人、その年恰好と服装から一人は母親、もう一人は娘だと分かる。母親の体型は異常なほど痩せ細っており、病的だった。隣の女子は年齢が十代半ばから後半ほどで、ごく平凡な背格好に制服姿、髪はかすかにパーマの入ったウルフカットである。二人とも眠るように死んでいた。

 荒沢は部屋を出て扉を閉める。口で息を吸っても異臭は鼻につく。舌打ちを鳴らして誰に言うでも無く言葉が漏れる。

「練炭と睡眠薬による穏やかな自殺、か」

 廊下にヤヒルの姿は無く、荒沢は静かに階段を下りた。ドアが一つ開いている。整理整頓の行き届いたリビングにヤヒルは立っていた。彼女はダイニングテーブルの上に畳まれたマフラーを手に取って首に巻く。壁際のアップライトピアノを指でなぞって鍵盤を押すとドの長音が部屋に響いた。フタを閉じる。カーテンから透けた西日が部屋を照らしている。ピアノの上に写真立てがあり、桜の樹の下で「入学式」の看板に並ぶ母と娘の姿を写している。「ヤヒルは優しいですね」と言って彼女は写真立てを前に倒した。

「二回も憑かせてくれました」

 荒沢は紙箱に収められた郵便物の宛名を読んだ。「杉崎詩音」高校生向けの学習塾の封筒だった。彼女は「はい」と返事をして力無く笑った。

「母は心を病んでいました。父は遠い昔に家を出て行きました。普通の生活だと思っていたものが、身の丈に合わなくなっていたんです。母は専業主婦を続けてしまった。私はバイト禁止の進学校にダラダラと通い続けてしまった。お金があればと思います。もしくは、環境を変える勇気があれば、と」

「そうだな。生き延びるためなら手段を選ばない人間を見習うべきだった。たとえ何を失おうとも。そんな人間はいくらでもいる」

「選択できない人間は死ぬんです」

 彼女の目つきが鋭くなって、反抗的に荒沢を見た。大人は何も動じるところが無かった。いかにもわざとらしく驚いて見せて、幽霊に言った。

「やればできるじゃないか。そういう感情を表に出すんだよ。来世の土産に覚えておくといい」

「来世なんて……」

 杉崎詩音の幽霊は自嘲を浮かべて言った。

「いつものように睡眠薬を飲んで眠る母の姿を見て思いついたんです。このまま起きなければいいって。キャンプなんて行きやしないのに、倉庫に備長炭があることを思い出してしまって。あとはもう、あの寝室を作るだけでした。私も薬を飲んで眠りました。それからのことは、車の中でお話した通りです」

「一つだけ質問。なぜホテルでヤヒルから離れたんだ」

「それは友達じゃなくて彼氏に憑こうと思ったから。でも無理だった。そういう体質の人じゃなった。きっとヤヒルが特別だったんだと思う。もう彼を追いかけることすらできない。私はまた、何も選択できない存在になってしまった――あの死んだ男は、偶然です。たまたま部屋に来たときに、父親に似てるなって、思ったのかもしれません。驚かせようと思って扉を叩いたら、怯えて白い粉を袋ごと飲みこんでしまった。本当にドラマみたいな証拠隠滅するんだって思いました。あさっての方向に怯えて知らない人は死にました」

「そうかい」

 女子高生は一人掛けのソファに腰を下ろした。だらしなく上半身を背中側に傾けて遠くを見る。電源の切れたテレビの黒い画面に焦点はない。両目を閉じて首のマフラーを口元まで上げた。荒沢はダイニングテーブルから椅子を引き出し、その横顔が見える位置に座る。沈黙が続く。目を閉じたまま静止した姿は黙祷のようだと荒沢は思う。彼女の目尻から垂れた涙が、横顔に線を描いてマフラーの中に消えていく。乾かぬうちに小さな口が開いて言った。

「つかれた」

 すでに日は沈み、部屋は薄闇に包まれていた。

「ねえアラサー。ちょっと寝る」

「二時間でいいか?」と腕時計を見て荒沢が言った。

「わかった」

 荒沢は椅子から立ち上がる。公務員として事後処理について考えている。いつまでも車を家の前に止めておくわけにはいかないだろう。適当に走らせて時間を潰し、戻ってヤヒルを起こした後はタクシーを読んで帰らせる。経費は落ちるだろう。あとは警察に話をつける。そんな段取りだった。リビングのドアが閉まる。玄関の扉が音を立てる。車のエンジン音が遠ざかる。その家には一人だけが残される。幽霊の見える女子高生は静かに眠った。

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YMJKは渦中で踊る ねくす @nex_f8f8ff

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