第10話 これから

「あのっ」

 挑むような声がかかり、葵と仁美ひとみは声の方向を振り向いた。

「望月さんに、なにか用事なんですか?」

「あー、ごめんなさい。たしかにこれ、呼び出してイビってるみたいにしか見えないよね」

 泣きそうに俯いたり、必死に首を振ったりしている葵を見かねてやって来た食堂の職員に、仁美は苦笑して頭を下げた。

「違うんです、仁美さんは、そんなんじゃ、なくて」

「でも、顔赤いよ? 大丈夫?」

「や、その、これ、は、その……」

「泣かされたとかじゃないの?」

「ち、違くて、あの――」

「ちょっと落ち着こうよ」

 続いてもう一人が現れて、仁美を含めた全員が、厨房横の控室に集合する。普段、入ることなどない場所を珍しげに眺める仁美に、葵の同僚は口調を荒らげた。

「それで、この子に何をしたんですか!」

「だから、あんたは落ち着きなって言ってるでしょ」

「だって、もっちー泣いてんじゃん」

「望月ちゃんは、違うって言ってるでしょ。あの、坪内さん、プライベートに立ち入るつもりはないんですけど、もし差支えなければ、事情を訊かせてくれませんか?」

「たしかに超プライベートな話ではあるんだけど、端的に言ってしまえば、まあ、恋バナ?」

「恋バナ?」

「え、それもっちーがってことですか?」

「いやー、私があおっちゃったせいもあるんだけど、本人ようやっと自覚したらしく」

「ちょ、それ、こないだ言ってた気になる人のこと?」

「あれ、そんな話してたんだ」

「クリスマスどうするのー、みたいな話をした時に、流れで」

「坪内さん、時間あります? お茶でも飲みます? あー、上原さーん、じゃがいも餅焼いてー」

 ついさっきまで仁美に対して敵意を剥き出しにしていた女性は、ころりと態度を変えて、歓待モードへ入る。

「あんたね……」

「いじめられてないなら、いいんだって。今大事なのは、もっちーの好きな人の話でしょ。ね、もっちー」

「無理して言わなくていいからね、望月ちゃん。よかったね、大事にしな」

「……はい、ありがとう、ございます」

「ちなみに坪内さんは、相手をご存知で?」

「まあ、ね」

「聞-きーたーいー」

「それは私の口からは」

「坪内さんの知り合いってことは、あいつじゃないのか」

 皿を持って入ってきた上原が言い、女性陣が一斉に首を傾げた。

 そして思い出したように頷き、次に溜め息と共に首を振った。「憐れなり、パン屋見習い」と合掌する。

「パン屋さん、が、どうか、しましたか?」

「いーの、もっちーは気にしなくていいの」

「望月ちゃんは、自分の好きな人のことだけ考えてればいいから」

「……はい。が、頑張り、ます」

「なんなの、この可愛い生き物」

「相手の男、死ねばいいのに」

「俺は、相手の男がタンスの角に足の小指をぶつけて、骨折する呪いをかけておく」



   ●



 金庫の扉に小指を挟んでしまった氷上朔也が、とりあえず給湯室で指を流水にさらしていると、仁美がやってきて、ギロリと一睨みされた。

「あのさ、氷上くん」

「なんだろうか」

「バカなの?」

「いきなりだな」

 そこで一歩近づき、周囲に聞こえないような距離で囁く。

「葵ちゃんに気持ち伝えてないとか、なにやってんのよっ」

「――順番があるだろ?」

「なんのよ」

 朔也としては、陣内親子に対して、義理を通してからでないと、葵に気持ちを告げるわけにはいかないと思っている。二人が葵を大事に思っていることを知っているからこそ、きちんと説明して、許しを得るべきだと考えている。

 そう言うと仁美は、大仰に肩を竦めて呆れた。

「ほんと、生真面目だよね、氷上くんってさ。でも、それで葵ちゃんが不安になってたら、意味ないでしょうに」

「どういうことだよ」

「自分で確かめろ」

「……容赦ないよな、坪内さん」

「言ったでしょ? 私は葵ちゃんの味方なの」

「葵がどうかしたのか?」

 割りこまれた声に、朔也と仁美は固まった。振り向くまでもなく、それは葵の従兄、陣内ひとしで、朔也は大きく息を吐いた。





「ちょっと望月さんに話があるんだけど、いいですか」

「え? 氷上さん、ですか?」

「眼鏡、どうしたんですか?」

「……ちょっと、壊れまして」

 驚いた顔をされ、朔也は居心地悪げに目を逸らした。

 普段かけている眼鏡は伊達で、視力は決して悪くはない。眼鏡をしている理由は、童顔のせいだった。お金を扱う仕事をしている以上、少しでも落ち着いた大人として見られるよう、虚勢を張っているだけなのである。

 食堂班の面々に奇異の目で見られつつ、朔也は葵を連れ出した。

 社内食堂に近い場所にある休憩スペースは、時間帯のせいもあって、誰もいない。話をしていても、咎められたりはしないだろう。

「あの、眼鏡、どうしたん、ですか?」

「フレームが曲がったというか、曲げられたというか」

「曲げられ……?」

「ま、それで済んだなら安いもんだよ。二、三発は殴られるつもりだったし」

「な、なぐっ。ま、さか、ジンくん、ですか?」

 息を呑んだ葵が立ち上がり、珍しく憤慨したような様子となる。こんな顔もするんだな――と思いつつ、怒った顔も可愛いな、と胸中で呟く。

「殴られてはないよ。気持ちの持って行き場がなかっただけだろ。その矛先が眼鏡になっただけで。なくても支障がない物に当たるところが、ジンらしいよな」

「なくて、困りません、か?」

 眼鏡を外した姿は昨日すでに見られているが、そういえば、それについて言及はされなかったし、自分もそれどころではなかったことを思い出す。

 苦笑して、朔也は答えた。

「眼鏡は俺の武装だったけど、別にもういいよ」

「武装、ですか?」

「前に言っただろ? みんな擬態してるって。大人に見せかけるための擬態が、眼鏡だったんだ。でも、もういいかな。どっちでも」

 童顔の自分は嫌だったけれど、今となっては感謝する。二十歳の葵の隣に立とうと思えば、童顔すらプラスの要素になるだろう。

 使えるものは、なんでも使う。

 仁にバレたことで、朔也は清々しい気持ちになっていた。

「坪内さんにも怒られたよ。不安にさせるなって」

「仁美さん、が、なにを?」

 葵の手を取り、立ったままだった彼女を隣に座らせる。

「望月さん」

「は、い」

「君のことが好きです」

「――っ」

「君を大事にしているご家族に、先に話を通しておこうと思った俺が悪かった。先に俺の気持ちをきちんと伝えておくべきだったと、反省している」

 握りしめた小さな手が、朔也の手の中で小さく震えた。

 悪かった、と謝罪する声に、葵がかぶりを振る。朔也の前で左右に揺れる髪に手を伸ばし、葵の長い黒髪に初めて触れる。

 髪なんて、特に珍しくもなんともないものなのに、どうしてこんなに美しいと思うのだろう。

 どうしてこんなに、触りたいと思うのだろう。

 人の思考は不思議だ。

「友達じゃなくて、彼女になってくれますか?」

「わ、私、で、いい、ですか?」

「言っただろ。君いいんだって。話がしたいのも、顔が見たいのも、声が聞きたいのも、一緒に居たいのも、全部君だ」

「……ひ、かみ、さん」

「うん」

 私も、ずっと一緒が、いいです。

 囁くような小さな声が耳をくすぐり、全身を巡る。

 朔也は「何故、今は昼間で、ここは会社なのだろう」と、天の神様を恨んだ。




 その日の帰り、朔也は陣内家を訪れた。

 仁は自身の両親には何も話してはいないらしく、同じ部屋にいながらも、黙って座っている。葵が欲しいなら全部てめーで話をつけろ、ということだろうと受け取り、朔也はきっかけとなった出来事から話しはじめた。

 証拠としてスマホの画面を見せ、葵もまた自身のスマホを伯父夫婦に提示し、朔也の後押しをしてくれている。

 すべてを話し終えた後、陣内博史は難しい顔をして黙り込み、ずっと下を向いている状態だ。こちらから何も言うことも出来ず、朔也は神妙に沙汰を待つ。隣に座っている葵は、おろおろとした様子で、しかし、何を言っていいのかもわからないのだろう。博史と朔也の顔を行ったり来たりしているだけである。

 長い沈黙の中、口火を切ったのは、京子だった。

「黙ってないで、なんとか言いなさいよ。真っ正直に話してくれたんだから、今度はあなたの番でしょう」

「あの、伯母さん――」

「葵ちゃんは? 氷上くんと同じ気持ちなの?」

「……うん」

「そう。なら、伯母さんは応援するかな」

「ほんと?」

「葵ちゃんの初恋だもんね。女親としては、反対したくないかなー」

 初恋という単語に、朔也が思わず葵に目をやると、小さな背丈をますます縮めて、葵が視線を逸らせる。

 引き結んだ口元、ちらりと覗いた頬は、紅潮している。

 その姿に、離れた場所に座っていた仁が、床に倒れた。身体の大きな成人男性が「葵が、俺の葵が……」とさめざめと泣いている姿は、どうにも情けない。

 京子は、そんな息子を容赦なく罵倒する。

「あんたら男共は。普段、さんっざん氷上くんのこと褒めてるくせに、一体なにが不満なの!」

「不満とかじゃねー。サクはいい奴で、いい人に出会って幸せになればいいって思ってて」

「ならいいじゃない。それとも、あんたは葵ちゃんがいい女じゃないとでも?」

「そんなわけがあるか、葵は世界一可愛い」

 言い切った仁に、葵は小声で――、しかしはっきりと呟いた。

「……ジンくん、気持ち、悪い」

「葵ぃぃ」

 朔也が思っていた以上に、陣内家は愉快な一家だったらしい。

 騒がしい家族を尻目に、家長の博史はようやっと口を開き、朔也を見据えた。

「氷上くん」

「はい」

「……どこまで知っているかはわからんが、葵はね――」

「大体のことは、お聞きしました。私は彼女の言葉や、それを伝えようとする姿勢を、いつも好ましく思っています」

 居住まいを正して答えた朔也に、博史は泣き笑いのような表情を浮かべて、頭を下げた。

「これからも、葵の声を聞いてやってください」





 葵はこのまま陣内の家に残るということなので、朔也は引き止められつつもおいとますることにした。

 ただ何故か、クリスマスにお邪魔することが決定してしまった。

 もともと用事もなく、家で一人シングルベルを鳴らすだけの身分だ。葵と過ごせるのならば、それに越したことはない。

(問題なのは、親御さんが同席ってところなんだが、まあ、仕方ないか……)

 京子の方は、なにかと味方になってくれそうな雰囲気があった。

 仁あたりはデートにまで付いてきそうな気もするが、こちらは仁美がなんとかしてくれるだろう。

 見送りの為、外に出ている葵が、「今日は、曇り空、ですね」と、やや残念そうに呟いた。つられて空を仰ぐと、雲の向こうにうっすらと光る月が、ぼやけて見えている。これで満月でも見えていれば完璧なのだが、そこは現実の哀しさか。

(月が綺麗ですね、とはいかないか……)

 きっかけになったメッセージを思い出して、苦笑する。吐いた息が白く濁り、月日の流れを感じた。

 すると葵が、思い出したように話し始める。

「月が、綺麗ですね、は、後から作られた、創作だって、話も、あるんです」

「へー、随分と詩的だとは思ったけど、あれ作り話だったのか」

「えと、諸説、あるんです、が、もうひとつ、言葉が、あって。そっちでは、綺麗、じゃなくて、青いって、いうんです」

「青い?」

「はい。月が、とっても、青いなあ、って」

 ふんわり笑った葵を見て、朔也は胸を掴まれたような感覚に襲われる。

 満月

 望月

 彼女の名前は――

「……あおい」

「はい、青い、です」

「いや、そうじゃなくて……」

 意を決して口に乗せた言葉に笑って頷かれ、朔也は言葉につまる。

 違う。

 そうではない。

 そうでは、なくて――

「葵」

 尻すぼみにならぬよう、はっきりと言い切るように、少し強めに彼女に告げる。

 ぱちくりと瞳をまたたかせた葵は、やがてその意図することが伝わったのか、みるみるうちに顔が赤く染まっていく。

「あ、あ、の。えと、その……」

 うろうろと目が動き、それでもこちらをチラチラと見やる様子が可愛い、だなんて。まったく自分はどうかしている。

 涙目になり、恥ずかしそうに俯く姿が可愛くて。だけど、それが嬉しくて仕方がない、だなんて。

「葵。そう、名前で呼んで、いいかな」

 こくり、頷く姿に、朔也は笑みを深くする。



 今度は青空の下で語り合い、そして夜になったら同じ月を眺めよう。

 満月から新月。

 新月から満月へ。

 繰り返す空の下で、これからの月日を共に過ごしたい。



  〇



 机に置かれたスマートフォンが震えた。

 手に取ると、画面には、登録したばかりの名前が記されている。

 届いたのはSMS。

 タップして確認すると、名も知れぬ頃に交わした以前のメッセージがまだ残っていた。

 あの時と違うのは、そこに「氷上朔也」と名がついたこと。

 葵は微笑み、小さな手を使って、ゆっくりと返事を打ち込んで、送信した。


 はい、おやすみなさい。  葵


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

名もなき「あなた」に届く声 彩瀬あいり @ayase24

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ