第9話 それは光のような
店を出て向かったのは、フードコートだ。その入口付近にはベンチが並んでおり、家族連れや学生の姿が多く見られる。右端のわかりやすい場所に腰かけて、葵は仁美に問いかけた。
「仁美さん、あの、どういうこと、ですか?」
「その辺含めて、本人から聞いた方がいいと思うんだよねぇ」
「本人って……」
「葵ちゃん曰くの、新月さん?」
「なん、で?」
「なんで知ってるのかって言えば、私が本人から聞いたから、かな」
「本人? 新月さん?」
「あーもう、ほんとややこしい。ごめんね、葵ちゃんは全然まったく悪くないから」
とにかく、待ってて。
そう言われて、なんとなく沈黙したまま時が過ぎる。
数十分経過した頃、遠くを見ていた仁美が立ち上がり、大きく手を振った。
腰を手に、仁王立ちで待つ仁美を座ったまま見上げ、前方に視線をやると、見知った人物が小走りでやって来ており、こちらを認めて立ち止まった。その後、やや強張ったような様子で一歩一歩近づいてきたところで、仁美の喝が飛ぶ。
「遅い!」
「無茶言うな。これでも急いだ方なんだ」
若干息を切らしている男性は、知っている人だけど、いつもと少しだけ雰囲気が違う。私服であるというだけではなく、パーツがひとつ欠けているのだ。具体的にいうと、あるべきはずの位置に、眼鏡がない。
葵は、おそるおそる声をかけた。
「あの、氷上さん?」
「こんばんは」
「はい、こんばんは、です。あの、えっと――」
「なに呑気に挨拶してんの、言うことあるでしょーが」
「――わかってる。えっと、望月さん」
「は、はい」
「私が新月です。打ち明けるタイミングを図っているうちに、こんな風になってしまって、すみませんでした」
そう言って頭を下げた朔也は、葵の知っている「従兄の友達」でも「会社の先輩」でもなく、一人の男の人だった。
●
大きく目を見開いて、零れ落ちそうな瞳をまたたかせて、望月葵は
朔也の言葉が届いているのかいないのか、やがて葵の隣にいた仁美が肩を叩いたことで覚醒し、次に目が泳ぎはじめた。小さな手をぎゅっと握りしめ、何かを言おうとして、小刻みに呼吸を繰り返している様子は、なにやら痛々しい。
(……泣いてない、よな?)
これで涙でも流されたら立ち直れない。なにより、
友人からの鉄拳ぐらいは覚悟したとしても、葵本人に軽蔑されるかと思うと、尋常じゃなく苦しくなった。
呼びかけようと口を開き、ややあって朔也は彼女に声をかけた。
「
「…………はい」
消え入りそうなか細い声で葵が答え、三人はフードコートの角、人のいない席を選び、腰かけた。
二人の方がいいだろうと仁美はその場を離れ、朔也は葵と向かい合う形で座る。
「驚いたでしょう」
小さく頷く葵に、朔也は淡々と告げる。
鞄から落ちたスマホを拾った時、それが自分が教えた商品で驚いたこと。それだけならただの偶然だが、満月が言っていたビーズのマスコットが付いていたことで、同一人物ではないかと疑ったこと。年齢や、従兄の存在、仕事の話を繋ぎ合わせて考えても、偶然にしては出来すぎていることから、ほぼ確信したこと。
「さすがにいきなりジンに言うのは
「……私の、味方、ですか?」
「だって、恐いだろ? 俺よりも、君を大事にしてくれる人が、君の傍にいてくれればいいと思ったんだ」
「氷上さんは、恐い人じゃ、ない、ですっ」
「どうだろうね。関わりたくないって人の方が多そうだけど」
「そんな、のは、違う、です、よ。だって、氷上、さん、は、まちが、って、なく、て、あの――」
「ゆっくりでいいよ。何か飲もうか」
必死に言葉を絞り出す葵をとどめて、朔也は立ち上がる。しかし葵は首を振り、「平気、です」と断った為、再び腰を下ろした。
葵の呼吸が落ち着くのを待つ間、なんとはなしに彼女を眺める。
仕事帰りにそのまま来たのか、前に見た時と同じコートを羽織り、傍らにはウサギのマスコットがついた鞄が置かれていた。
まっすぐで長い髪は艶やかで、店内の照明を受けて光って見える。
こういった光沢を、天使の輪というのだっただろうか。
今までは気にもしなかった単語が頭をよぎり、なるほど天使か、と納得する自分は、かなりの変態だと朔也は自嘲した。もう色々とまずい。
「――あの」
「はいっ」
葵の問いかけに、思わず背を伸ばしたのは仕方ないことだろう。内心で冷汗をかく朔也に、葵は小さな声で呟いた。
「ごめんなさい……」
「……な、何が?」
「私、みたいのが、相手で、がっかり、ですよね」
いきなりの謝罪に冷水をぶっかけられた気分の朔也だったが、続けて出た葵の涙混じりの自嘲に息を止めた。
そうだ、そうだった。
望月葵はとにかく、「自分は駄目人間だから、もっとちゃんと大人にならないといけないのだ」と、己に言い聞かせているタイプの人間なのだ。そんな葵がどう考えるのかなど、明白だろう。
「それは俺の方が言うべき台詞だろ。君の方が、よっぽどがっかりしただろうに」
「氷上さんは、いい人で、新月さんも、いい人で。だから、同じ人って、わかって、そうか、って思って。嫌とかじゃ、なくて、逆、で」
「逆?」
「や、その、あの」
途端、赤くなる葵に、朔也は相貌を崩した。
これはもう都合のいいように取ってもいいのだろうか。
いいことにしておこう。
「望月さん」
「……はい」
「これからは、こんな風に顔を合わせて話がしたいんだけど、君の方はどうだろう?」
「私でも、いいなら」
「君でもいいんじゃなくて、君
「……氷上さん、は、ずるい、です」
「どの辺りが?」
「だって、私が嬉しいこと、ばっかりです。色んなこと、全部。私も、お返しがしたい、のに、なんにもできなくて……」
「――お返しとか別にいらないんだけど、今まさに貰った気がする」
「あげて、ないです、よ?」
「嬉しいって言っただろ。俺も嬉しい。君と話している時はいつも楽しいし、君が嬉しいと思ってくれていることが、俺にとっては嬉しくて幸せなことだよ」
「幸せ、ですか?」
「考えたことなかったけど、たぶん、そういうことなんだと思う」
嬉しかったり、楽しかったり、心がふわふわして、一挙手一投足に一喜一憂する、
「じゃあ、私も、幸せ、です」
やっと朗らかに笑った葵に手を伸ばしたくなり、朔也はなんとか自制した。
翌日、出勤した朔也は、改めて仁美に頭を下げた。
「別に謝られたいわけじゃないし、感謝されるつもりもないんだけどな」
「でも、きっかけをくれた。助かった」
「まあ私としては、葵ちゃんが元気になるなら、それでいいんだけどさ」
「そうだな。俺もその方がいい」
「うわー。正体明かした途端、なにその態度」
「少なくとも、嫌われてないことはわかったからな」
「ってことは、氷上くんの方は覚悟決まったってことなのね」
「そういうこと、かな」
仁美に問われ、朔也は答えた。
たぶん、なんて曖昧な言葉で濁すには難しい気持ち。会って、話して、ようやっと腑に落ちた。
はじまりが後ろめたい出来事だったせいで、罪悪感が消えなかったが、もうそんなことはどうでもいいのだ。
大切なのは、今どう感じているか。
今、大事なのは、朔也が満月嬢を好きで、葵のことも可愛いと思っていること。そして、その二人が同じ人物となれば、迷う必要もない。
「一発や二発じゃ済まないかな」
「ジンのこと言ってる?」
「陣内さんに
「でも、諦めるつもりもないんでしょ?」
「それは勿論」
「なら、いいじゃない」
「手伝ってくれるか?」
「私は葵ちゃんの味方です」
「それでいいよ」
〇
カウンターに立つ仕事じゃなくて、本当に良かった。
葵は心底そう思いながら、食器を洗っている。
先ほど、仁が葵に声をかけてきたのはいつも通りだったけれど、その隣にいる朔也に目が行ってしまったのは、昨日の事があったからだろう。
ずっと話をしていた新月氏が、実は氷上朔也だったこと。
それ自体は驚いたし、ものすごい偶然だと思ったけれど、まず葵が感じたことは「恥ずかしい」であった。
伯父や伯母に言えていないことも、新月には明かしている。知らない人だからこそ話せたのに、実は身近にいた、顔見知りだったなんて――
(……穴があったら入りたいって、こういうことだよね)
ものすごく恥ずかしくて、なかなか顔が上げられなくて。昨日は随分と迷惑をかけてしまったに違いないのに、そんな葵をちっとも責めず、朔也はただ己の非を謝罪していた。
葵を気遣い、励ましてくれる優しい人。
現実の新月は、やっぱり思っていた通りの人で、それが氷上朔也であったことも、すとんと納得できてしまった。それはやはり、朔也自身がいつも優しい人だからなのだと、葵は思う。
人が引けた後、葵は仁美に呼ばれ、食堂の片隅で話をした。
「仁美さん、昨日は、ありがとう、ございました」
「こっちこそ、いきなりでごめんね」
「いえ、色々わかって、よかったです」
「ジンには何も話してないのよね。葵ちゃんもそうでしょ?」
「……はい」
「まー、その辺は氷上くんに任せちゃいなさい」
「でも、ジンくん、怒りそう……」
「そうねぇ。でもさ、葵ちゃん。ジンが駄目だって言って、その通りにする?」
問われ、考える。
あの場所で、新月――朔也と話をすることを禁じられたとして、言われるがままに繋がりを絶つかと言われたら、それは否だろう。
あの文字だけの会話は、声を発することが苦手な葵にとって、それを気にせず自由に話ができる解放の場だった。
決して表には出せない葵の想いを、受け止めてくれる、大切な場所なのだ。それを取り上げられたくはない。
「――嫌、です。ジンくんに、そんな権利、ないです」
「よし。じゃあ、大丈夫か。二人で決めなよ」
「でも、氷上さん、は、どうなの、かな」
「やめないでしょ。引くつもり、さらさらないよ、あの顔は」
「なら、いいんです、けど……」
どこか不安そうに俯く葵に、仁美は首を傾げる。そして、あることに気づいて、おそるおそる問いかけた。
「ねえ、葵ちゃん。こんなとこで訊くのもなんなんだけど」
「はい」
「氷上くんから、なにも言われてないの?」
「なにもって……、なにをですか?」
「――あのヘタレが」
仁美は、舌打ちにとともに毒づいた。
「あの……?」
「葵ちゃんさ、新月さんのことは好きだよね、人として」
「はい」
「相手が氷上くんだってわかっても、それは変わってない?」
「おんなじだって、思ってますよ。すごく、しっくりきたし、それに、なんか……」
「うん」
「あの、うまく、言えないんですけど、嬉しいなって、思って。知らない人だったら、もう話すことも、なくなっちゃうかも、だけど――」
「氷上くんなら、居なくなったりしないから、良かったってこと? でも、居なくなりはしなくても、気軽に話せなくなることだってあると思うよ。例えば、彼女が出来たとか、結婚したとか」
放たれた言葉に、葵の心臓は大きく音を立てた。緊張しているわけでもないのに、息が苦しくなって、頭がぐらぐらして、どうしようもなく泣きたくなってくる。
一人は嫌だ。
せっかく一人に慣れようとしていたのに、葵の毎日にはもう、新月――朔也がいる。
他の誰かでは、きっともう駄目なのだ。
「……わた、私、は」
「キツイこと言ってごめんね。でも、それが葵ちゃんの答えだよ」
「こた、え?」
「誰か一人が特別になるって、嬉しくて楽しくて、時々哀しくて、怒りが湧いて。色々あって、幸せなことなんだよ」
それが、恋だよ。
仁美の言葉が胸に落ち、じんわり熱を持って身体中に広がった。
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