はんぶんこの君へ
浅原ナオト
Spread Your Wings
交差点を渡り切ったところで、足を止めてスマホを取り出す。
自撮りモードのカメラを起動させ、スマホを弄るふりをしながらレンズで自分の背後を捉える。交差点のど真ん中でおろおろと戸惑う、ブラウスとキュロットスカートを身に着けた女の子が液晶に映る。自殺志願者というわけではない。交差点を渡ることが出来ないのだ。渡ると、尾行している僕を追い抜いてしまうから。
――さて、どうしよう。
このままだと信号が変わってしまうので、とりあえずスマホをポケットに入れて歩き出す。背後から軽快な足音が聞こえて「そこは気配を消す場面だと思うよ」と忠告したくなる。間が抜けすぎていて、警戒心が全く湧かない。
僕があの子を見かけたのは、ほんの数分前。
ケイトさんの店を出て少し歩いたところで、通りの反対側から知らない女の子が僕を見つめていることに気づいた。無視して歩き続けたら僕の後をついてきた。行き先が被ったのかもしれないと思い、右、右、右と曲がって同じ道に戻ってきたら、女の子もそのルートを辿ってきた。この時点で女の子が僕を尾行していることと、尾行がド下手くそであることが確定。足を止められない交差点を使って前に行かせてみようとしたけれど、なぜか足を止められてしまい失敗した。追い抜いてどこかでやり過ごしてから尾行を再開すればいいのに。
百貨店のビルが真夏の陽光を反射する。人工物に優しさを削ぎ落された日差しが頭の上から降り注ぐ。右手でシャツの襟もとを開け、汗ばむ身体に空気を送りながら歩いているうちに、目指していた大型書店にたどり着く。
僕は階段を上り、二階から書店に入った。入口近くの平積みにされた本を物色するふりをして女の子を待ち、現れたら奥の背の高い本棚が並ぶエリアへ。本棚と本棚の間をゆっくりと進み、つきあたりを曲がり、曲がってすぐに立ち止まる。
追ってきた女の子が、待ち構えていた僕を見てピタリと動きを止めた。
「なにか用?」
強めに問いかける。女の子は、固まったまま動かない。
「ずっと尾行してたよね。なに?」
「違うんです! 尾行というか……話しかけられなくて」
女の子が肩をすくめた。小さな身体がさらに小さくなる。
「あの、新宿二丁目にはよく行かれるんですか?」
「え?」
「お店から出てきましたよね。見てたんです」
女の子が大きく息を吸った。そしてぶんと勢いよく頭を振り下げる。
「お願いします! 私に、二丁目のことを教えてください!」
◆
女の子が完全にテンパっていたので、まずはどこかに腰を落ち着けることにした。
靖国通りを渡ってドーナツ屋に入り、僕はフレンチクルーラー一個とアイスコーヒーを買って二人がけの席についた。続けて女の子が、僕と同じドーナツと、それにホイップクリームをサンドしてチョコでコーティングしたドーナツと、小さな球体が連なって環になっているドーナツと、それのストロベリー味と、りんごジュースを乗せたトレーを持って席についた。ほとんど無意識に感想がこぼれる。
「すごい食べるね」
女の子がぱちくりとまばたきをした。それから自分のドーナツを見て「あー!」と悲鳴を上げる。集まる視線の中、女の子がぶつぶつとぼやき始めた。
「やっちゃったあ……せっかくこんにゃくで我慢してたのに……」
「どうしたの?」
「ダイエットしてたんです。でも緊張して忘れちゃって……ほんとバカ」
女の子がため息をつき、ドーナツをかじった。――でも普通に食べるのか。まだ返品出来そうな気もするけど。
「じゃあ、落ち着いたところで聞きたいんだけど」真っ直ぐ、本題へ。「さっきの、二丁目のこと教えてくれって、どういうこと?」
ドーナツを頬張る女の子の口が止まった。ストローでりんごジュースを飲み、細い喉をこくりと鳴らしてから語り出す。
「行きたいお店があるんです」
「どこ?」
「身体は男性なのに自分のことを女性だと感じている人がいるお店に……」
「トランスジェンダーがいる店に行きたいってこと?」
「……まあ、そんな感じです」
歯切れが悪い。僕が口にした言葉が、あまりしっくり来ないようだ。
「新宿二丁目にはそういう人が集まるって聞いて、でも来てみたらどこがそういうお店か分からなくて。そんな時、あまり年の変わらなさそうな人がお店から出て来たので、何か聞けないかなーと思って追いかけてしまいました……すいません」
女の子が頭を下げた。僕はどうしたものかと顎に手をやる。そういう人が集まる。それは大きく間違いではない。だけど――
「ごめん、僕も分からない」
取り繕っても意味はない。素直に行こう。
「僕は――ゲイなんだけど、ゲイとして生きて関わるのはやっぱりゲイなんだよね。世間ではLGBTなんて言われてるけど、僕はトランスの人とは交流ない。そもそも二丁目には昼しか行かないから他人との交流自体あまりないけど。あの街、昼間は特に何もやってないし」
「そうなんですか」
「うん。だから今行っても意味もないよ。でも夜に行っても基本は飲み屋だし、中には入りづらいんじゃないかな。君まだ中学生でしょ?」
「……高校生です」
――しまった。アイスコーヒーを一口飲み、話を変える。
「そもそも、君はどうしてそういう店に行きたいの?」
俯く女の子を観察する。膨らんだ胸。平たい喉。人の外見に絶対なんてないけれど、少なくとも僕にはこの子の身体が男性には見えない。
「私の――」言葉を切る。「友達が、そうなんです」
友達。その言葉を絞り出すのにとんでもない力を使ったのが、今にも泣き出しそうな女の子の表情から分かった。
「私はその友達のことを分かりたくて。でも、本屋さんに行ってそういう本を見ても、そこには『いない』気がして。だから話そうと思ったんです。そういう人と会って、ちゃんと話せば、少しは近づけるかなって」
無駄だよ。
――バカ。そうじゃないだろ。みんな何も分かってなくて、だけど自分は何もかも分かっていて、だから自分だけが苦しんでいる。そういう態度とは、距離を置こう。
「個人的な考えだけど」息を吸う。「そこにも、君の友達は『いない』と思う」
丁寧に、慎重に。
「君の友達はたぶん、君の友達の中にしかいない。だから君が友達のことを本当に分かりたいなら、話すべきは二丁目のそういう人じゃない。君の友達、その人だよ」
ここ最近の出来事を思い返す。出向いた場所、交わした言葉、その全てを。
「話せって言われても難しいのは分かる。人によって答えが変わるから、どういう風に話せばいいなんていうアドバイスも出来ない。世界は簡単じゃないんだ。時にはあえて簡単にしなくちゃいけないこともあるぐらい、簡単じゃない。ただ本気で分かりたいなら、その難しさに挑むべきだと思う。それに――」
僕は笑った。晴れた日に鼻歌がこぼれるように、温もりに導かれて。
「君なら、その友達とちゃんと話せると思うよ。なんとなくだけど」
女の子がつぶらな瞳を僕に向ける。僕は自分のドーナツをかじって飲み込み、口に残る甘ったるさをアイスコーヒーで流す。あちこちから聞こえてくる形にならない雑音に交じり、おずおずと口を開く女の子の声が、僕の耳に届いた。
「あの……」
「なに?」
「この辺りで、かんざしを売っているところ、知りませんか?」
人格が入れ替わったような話の変わり方。戸惑う僕に、女の子が語る
「友達にあげたいんです。せっかく新宿まで来たんだからお土産に何か買っていきたいなって考えた時、思いついたのがそれで。先に二丁目に行って、それから行こうと思ってたんですけど、今から行くことにします」
ついさっきの僕と同じように、女の子が穏やかに笑った。
「それで、友達にお土産を渡して、いつもみたいに話をします」
いつもみたいに。
その言葉に安堵する。大丈夫だな。理由もなくそう思う。だけどそれを口にするのも偉そうなので僕は黙り、スマホを取り出し「調べてみるよ」と言って、新宿でかんざしを売っている場所を探した。
「ロフトじゃあまりお土産って感じがないよね。マルイのアネックスにかんざしの専門店があるみたいだけど」
「マルイのアネックス?」
「えっと、まずさっきの本屋まで戻って……」
僕は説明を止めた。新宿はコンクリートジャングルだ。初心者が迷わないように道を教える自信はない。この子、少し抜けたところがあるし。
「いいや。このあと案内するよ」
「いいんですか?」
「うん。どうせ他に用事があるわけでもないし」
「すいません。助かります」
女の子がドーナツに手を伸ばした。リスのようにせわしなく口を動かし、甘さの塊みたいなドーナツを次々と平らげていく。その警戒心のない姿から僕はこれまでのどこかとぼけた様子を思い返し、そしてふと、思いついた疑問を口にした。
「そういえばさ」
「ふぁい?」
「尾行じゃなくて話しかけたかっただけなんだよね。じゃあ僕が足を止めた時、交差点の真ん中でウロウロしてないで、そこで話しかければ良かったんじゃない?」
女の子が目を丸くした。口に含んでいたドーナツをごくんと飲み込み、素っ頓狂な声で呟く。
「それもそうですね」
◆
結局、女の子はドーナツを全て食べ切った。一つぐらい「貰って下さい」とこっちに来るかと思ったけれど、そんなことはなかった。思いつきもしなかったのだろう。提案すれば乗って来たと思う。要らないから黙っていたけれど。
ドーナツ屋を出てマルイのアネックス館へ。かんざし屋に着いて、展示されている商品を眺める。突き立てられて並べられ、色彩豊かな森のようになったかんざしを見つめる女の子の横顔は真剣そのもので、声をかけづらい。
「うーん……」
まあ、悩むだろう。なにせ「友達」の身体は男性なのだ。そう簡単に――
「ちょっと高いなあ……ドーナツ何個分だろ……」
そこか。そしてまだドーナツ換算する気分なのか。あれだけ食べたのに。
「友達の髪は長いの?」
「いえ」
「じゃあ派手なのは避けた方がいいかもね」
「そうですね。あ、これとかどうかな」
女の子が風車をモチーフにしたかんざしを手に取った。かんざしを僕の前に掲げ、弾んだ声で話しかけてくる。
「試しに着けてみてくれません?」
「僕が?」
「はい」
「いや、それはさすがに変――」
口にした瞬間、やらかしたと気づいた。
女の子がかんざしを見つめる。大切な宝物を眺めているようだった目が、賞味期限の切れた食べ物を見るそれに変わっていく。何か言わなくては。そう思うけれど、思い浮かぶどの言葉も嘘くさく感じて、何も言えない。
「……まあ、そうですね」
くすんだ瞳を僕に向け、女の子が意を決したように口を開いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なに?」
「今、私がしてること、どう思います?」
「どういうこと?」
「何も分かってないくせに、みたいに思いません?」
言葉が、ぐさりと胸に刺さった。
「私は友達がこれをつけても変だなんて思いません。でも友達自身はそう思うかもしれない。だとしたら私がやってること、迷惑ですよね。そういう風に、分かっている風なことをやられて腹が立つこと、ゲイの方にもあるのかなって」
声がどんどん小さくなる。「僕の経験は僕の経験だから、君の友達に当てはまるかどうかなんて分からないよ」。そんな正論は――誠実ではない。
「あるよ」
僕は、はっきりと言い切った。
「何も分かってないくせにって思ったこと、何回もある。『同性愛に理解ある』とか言ってる人を見るとよくそう思う。僕はこんな自分が嫌でたまらなくて、死にたいと思ったことだってあるのに、お前が何を理解してるんだよって」
女の子を見つめる。言葉を視線に乗せて、目から心に注ぐ。
「でも、『理解したい』と思ってくれるのは、素直に嬉しい」
分かってないなんて、当たり前だ。他人の気持ちなんて分からない。だからこそ、分かろうとすること、そのものに意味がある。
「君の友達も同じなんじゃないかな。だから、なんていうか……ごめん」
話を繋げるのを諦め、強引に謝罪に着地する。頭を下げて、また上げると、女の子に笑顔が戻っていた。何だか照れくさくて、僕はがらりと話題を変える。
「そういえば名前聞いてなかったね。なんて言うの?」
「あ、そうですね。小春です。小さな春で、小春」
「……それは下の名前、だよね?」
「そうですけど、それがどうかしました?」
「君が名前で呼ばれてもいいなら、別にいいけど」
女の子がハッと目を見開いた。自分の大胆さに気づき、慌ててフォローに入る。
「あの! 私! だいたいみんなから名前の方で呼ばれてて、山本さんって呼ばれることあんまりないんです! だからつい……あ、山本っていうのは私の苗字で、つまり私は山本小春って言うんですけど――」
「うん、分かった。僕は安藤純。純粋の『純』。よろしく」
右手を差し出す。女の子――山本さんが「よろしくお願いします!」と勢いよく差し出された手を握る。小さくて柔らかい手が、僕の手の中にすっぽりと収まった。
◆
かんざしを買ってデパートを出たところで、僕たちは別れることにした。
せっかく東京まで出て来たから色々と見て回りたいけれど、それに付き合わせるのは悪いという山本さんの提案だ。僕としては特に用事もないし、付き合っても良かったのだけれど、素直にその提案を受け入れることにした。山本さんにだって一人で見たいものぐらいあるだろう。
「本当にありがとうございました」
「いいよ。道案内しただけだし」
「そんなことないですよ。大切なこと、いろいろ教わりました」
教わった。その言葉がムズ痒い。まあ、成長したということなのだろう。受け取った大切なものを、他人に与える側に回れる程度には。
「どうしたしまして。それじゃあ――」
「あ、純さん! 待って下さい!」
突然の名前呼び。唖然とする僕の前で、山本さんが恥ずかしそうに肩を竦めた。
「苗字、忘れちゃって……」
なるほど。僕が「いいよ」と言うと、山本さんがほっと胸を撫で下ろした。
「純っていい名前だなあと思ってたら、苗字の方がどこか行っちゃったんですよね。でもせっかく名前聞いたんだし、一回も呼ばないのは勿体ないなって」
「じゃあ、名前呼びたかっただけなの?」
「違います。うーん、なんて言えばいいのか分からないんですけど……」
山本さんが胸の前で手を組んだ。顎を引き、上目づかいに僕を見やる。
「生きていればきっと、いいことありますよ」
「え?」
「さっき『死にたいと思った』って言ってたじゃないですか。それがずっと引っかかってて……余計なお世話だとは思うんですけど」
「それは――」
言いかけた言葉を留める。違う。それも言わなくてはならないけれど、まずはそっちじゃない。
「ありがとう」
山本さんの頬がゆるんだ。反応に安心し、留めた言葉を改めて口にする。
「でも大丈夫だよ。もうそんなこと考えてないから」
「そうなんですか?」
「うん。そりゃ、これからの人生で借金一億かかえて死にたくなるようなことはあるかもしれないけれど、とりあえず今はない」
「なんですかそれ。変なの」
口に手を当てて、山本さんがおかしそうに笑った。無垢な笑顔。世界を信じきっている表情。山本さん。いや――
「小春ちゃん」
名前には名前。驚く山本さんと向き合い、口を開く。
友達のこと、好き?
「――かんざし、喜んでもらえるといいね」
止めよう。その想いは、彼女のものだ。僕のものじゃない。
「はい!」
元気のいい返事に、つい苦笑いがこぼれた。「じゃあね」と踵を返し、行き交う人々に紛れて歩きながら、音楽プレーヤーから伸びるイヤホンを耳に装着。ランダム再生された曲は『スプレッド・ユア・ウイングス』。なかなかいいチョイスじゃないか。そう褒めるように、ポケットの中のプレーヤーを撫でてやる。
名前も知らない、はんぶんこの君へ。
僕に君の苦しみは分からない。世間は君と僕をひとまとめにするけれど、どうしたって僕たちは別の人間だ。だけど、一つだけ言えることがある。あんなにも君を想ってくれる「友達」に出会えた君は幸運だ。その幸運が君を救う光になってくれることを、仲間としてではなく、一人の人間として世界の端から祈る。
さあ、行こう。翼を広げて。自由に向かって。
僕たちは、いつか必ず、その場所に辿り着ける。
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