同題異話SR -March-
桜花は一片の約束
――詩人が見る景色って、どんなの?
六階建てオフィスビルの屋上に出て、夕景を見ながらひとり、煙草を片手に、私は
私――
大学の卒業まで文系一筋で生きてきたはずが、今は数字ばかりを見ている、思わぬ
さて、どうする、レベル1とレベル10ではダメージにどれだけの差が出る? 始めたばかりのユーザーには少し下駄を履かせてやりたい――一定のダメージは出るようにしたい、だが、レベルアップした実感は与えてやりたい――一定のダメージを約束すると、上昇量が相対的に低く感じられる、などと考えるばかりなので、目の前の景色は、詩人の見るそれからはほど遠いのだろう。
私は煙草を携帯灰皿に入れると、五階のオフィスに戻り、エンジニアのチーフに、レベルに応じて攻撃回数を増やすようにできませんか、と申し入れようと腹を決めた。ディレクターを兼任している今は、そうして直談判だけで済むからいい。
仕事を終えて屋上に出ると、街並みはすっかり夜景として目に映った。似たような背丈のビルが並ぶ向こうに、民家の
「このビル、六階だよ。不用意にもたれるの、危ないんじゃない?」
美都はその身をフェンスに寄せることをやめず、私を直視した。夕刻より風が強まっていて、美都の長い髪は揺らされていた。
「ここからでも景色は見られるね。いつになったら教えてくれるの? 私のこと、ちゃんと好きなの?」
景色と好き嫌いが同列に語られるのは、それが交換条件だからだ。
私より四年遅れて引っ越してきた美都は、家賃が安くつく鷺丘市から東京の職場に通うことを選んだ。私はというと、都落ちのように、都内の大手メーカーから、この鷺丘市に居を構えるメーカーに転職していた。私たちは鷺丘市で再び接点を持った。
問題は、旧交を温めるうち、私に美都への恋心が芽生えたことによる。意を決して好きだと伝えてみれば、OKの返事をもらえた。ただし、条件付きだった。
「高校の時からずっと気になってたの。菫子には景色がまるで違って見えてるんじゃないかって。そろそろ知りたいし、私だって、そろそろちゃんと付き合いたいよ」
美都が私に返したのは、ひとつの疑問に答えてくれたら付き合ってもいい、だった。疑問とはすなわち、詩人の見る景色とはいかなるものか、である。私はその問いに、適切な解を見つけられずにいる。まさか美都も、一ヶ月以上も待たされると思って問うたわけではないだろう。
「美都を相手に、ごまかしも嘘も嫌だから。わからないの、まだ、本当に」
「ずるいんだから。そうやって言い繕って、今夜も私を抱くくせに」
近寄れば、美都の瞳が潤って見える。化粧の裏にある肌を知っている。電車で三十分のところにある自宅より、歩いて五分のところある美都の家に帰ることが多くなった。
「それは、ごめん。嫌なら手は出さないけど」
「ばーか。抱いてやるくらい、甲斐性でしょ、しなさい」
そう言われては、私はきっと、今夜も美都に甘える。
美都と向きを違えて、フェンスのそばに立った。景色は見える。この景色から詩を書くことだって不可能じゃないはずだ。けれど、それはどんなふうに見えた景色の結実であろう。自らでわからないのだ。赤は赤と、青は青と見ている、そんなふうに言うこともできなくはないけれど、美都に対して、そう答えるのは不実であるような気がして。
迷子の気持ちでいれば、詩を書くこともわからなくなる。私は今まで何を見て、詩を書いていたのだろう。
目覚めたら、もう美都は私の隣にいなかった。下着姿のまま、ベッドの近く、ローテーブルに置かれたノートパソコンと向きあって床に座っている。私に背を向けていて、その表情はわからない。パソコンの画面にあるのは、ウェブ上で公開している私の詩集だ。最後の更新は美都に告白をした前日――もう一ヶ月以上も更新されていない。
美都が、背を向けたままで私に問うた。
「今の私の表情、わかる?」
「ひどく不満そうにしている」
感じたまま答えたが、美都は黙してしまい、正解とも不正解とも言われなかった。全くの見当違いというのではなかろうと、雰囲気で感じ取った。私はベッドサイドからショーツとブラを手に取り、短い廊下にある洗濯かごに投げ入れてから、衣類ケースからショーツだけを取り出して履いた。何やら
所在なく部屋をうろうろしていると、美都は立ち上がり、まず衣類ケースからブラを取り出して、私に放ってよこした。「ちゃんとつけなさい」と、私をたしなめてから、話を続けた。
「誤解しないでね。不満だけど、自分自身に不満なの。菫子が詩を書くことの邪魔になっちゃってるなんて、恋人として、どうなの」私はおとなしくブラをつける。美都はさらに続けた。「だ、からぁ、菫子にちゃんと答えを見つけてもらえないと、私、堂々と恋人だなんて言えないよ。詩人、赤坂すみれは、私の一番好きな作家先生だよ?」
赤坂すみれとは私が詩を書く時のペンネームだ。何やらそこまで言われると
お互い、少し気分を変えた方がいい、私は美都を誘っていた。
「桜を見に行かない?」
「桜? もう咲いてるの?」
美都の感覚ではわからないだろう。引っ越してくる前の私たちにとって、桜とは、四月の終わり頃か、あるいは五月にずれ込むか、それでやっと咲くものだからだ。それが北の桜だ。秋に引っ越してきた美都は見ていない。三月の桜を。
美都の家からそう遠くない公園を選んだ。案内をしてみれば、都合良く誰もいなくて、園内の遊具は静かだ。ふたりきり、
「本当に咲いてる。何だか関東ってずるい」
桜はもう開花の時を迎えていた。満開とはいかないまでも、その多くはつぼみであることをやめ、
一時、美都は桜に見惚れるのをやめ、微笑みに満ちた表情をこちらへ向けた。
「来年の桜も一緒に見ようね」
美都がいる。微笑んでくれる。
だから、感じられる。
ああ、今の私にとって、その景色には、美都がいなければならないんだ。
景色が変わる。
「今、見えたよ」
桜を見ている美都がいる。だから私は口にしていた。詩人の景色とは何であるか、そのひとかけらを。
「詩人の景色が見える。桜の花に、約束を見ている」
桜の花のひとつひとつが、美都に降り注ぐ約束に見える。私を照らす約束に見える。私たちを祝福する、ささやかな、けれど大切な、
美都は満足したのか、満面の笑みでこちらへ振り返った。
「それじゃあ、私のことは?」
私もまた、笑みをいっぱいにして、美都に向き直る。
「それは美都と同じがいいな。好きな人に見える」
桜花は一片の約束 ―鷺丘交々物語― 香鳴裕人 @ayam4
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