同題異話SR -March-

桜花は一片の約束



 ――詩人が見る景色って、どんなの?

 六階建てオフィスビルの屋上に出て、夕景を見ながらひとり、煙草を片手に、私は絹谷きぬたに美都みとにつきつけられた命題を思考のうちでもてあそんでいる。彼女は詩人と言うが、明らかに大げさだ。高校生の時、たまたま目に留まって、一冊の詩集を小さな出版社から出したに過ぎない。その本に載せた四十五編の詩を除けば、他は全て趣味の領域で書いている。にもかかわらず、同じ高校を出た美都は、私のことを詩人先生と言ってはばからない。

 私――小賀坂こがさか菫子すみれこはひとりの社会人であって、ソーシャルゲームの数値全般をいたずらに取り扱っているだけの女だ。趣味で詩を書くことをやめていないとは言え、からはほど遠い。煙草を飲み、雑多な街並みが暮れるのを眺めている今でさえ、頭を巡るのは数値のこと――ローンチ前のゲームで、ダメージ計算式をどうしてやるか、だ。

 大学の卒業まで文系一筋で生きてきたはずが、今は数字ばかりを見ている、思わぬ道程みちのりに思いを馳せる余裕はなく、さっさと式を決めてエンジニアに伝えねばならない。伝えたらデバッグの手順を決めて、後輩のプランナーに指示をしなければならない。

 さて、どうする、レベル1とレベル10ではダメージにどれだけの差が出る? 始めたばかりのユーザーには少し下駄を履かせてやりたい――一定のダメージは出るようにしたい、だが、レベルアップした実感は与えてやりたい――一定のダメージを約束すると、上昇量が相対的に低く感じられる、などと考えるばかりなので、目の前の景色は、詩人の見るそれからはほど遠いのだろう。

 私は煙草を携帯灰皿に入れると、五階のオフィスに戻り、エンジニアのチーフに、レベルに応じて攻撃回数を増やすようにできませんか、と申し入れようと腹を決めた。ディレクターを兼任している今は、そうして直談判だけで済むからいい。



 仕事を終えて屋上に出ると、街並みはすっかり夜景として目に映った。似たような背丈のビルが並ぶ向こうに、民家のがばらばらと散らばる。オフィス街というほどのものはない。フェンスに背を預けていたのは美都だった。私は心配性を気取った。

「このビル、六階だよ。不用意にもたれるの、危ないんじゃない?」

 美都はその身をフェンスに寄せることをやめず、私を直視した。夕刻より風が強まっていて、美都の長い髪は揺らされていた。

「ここからでも景色は見られるね。いつになったら教えてくれるの? 私のこと、ちゃんと好きなの?」

 景色と好き嫌いが同列に語られるのは、それが交換条件だからだ。

 私より四年遅れて引っ越してきた美都は、家賃が安くつく鷺丘市から東京の職場に通うことを選んだ。私はというと、都落ちのように、都内の大手メーカーから、この鷺丘市に居を構えるメーカーに転職していた。私たちは鷺丘市で再び接点を持った。

 問題は、旧交を温めるうち、私に美都への恋心が芽生えたことによる。意を決して好きだと伝えてみれば、OKの返事をもらえた。ただし、条件付きだった。

「高校の時からずっと気になってたの。菫子には景色がまるで違って見えてるんじゃないかって。そろそろ知りたいし、私だって、そろそろちゃんと付き合いたいよ」

 美都が私に返したのは、ひとつの疑問に答えてくれたら付き合ってもいい、だった。疑問とはすなわち、詩人の見る景色とはいかなるものか、である。私はその問いに、適切な解を見つけられずにいる。まさか美都も、一ヶ月以上も待たされると思って問うたわけではないだろう。

「美都を相手に、ごまかしも嘘も嫌だから。わからないの、まだ、本当に」

「ずるいんだから。そうやって言い繕って、今夜も私を抱くくせに」

 近寄れば、美都の瞳が潤って見える。化粧の裏にある肌を知っている。電車で三十分のところにある自宅より、歩いて五分のところある美都の家に帰ることが多くなった。

「それは、ごめん。嫌なら手は出さないけど」

「ばーか。抱いてやるくらい、甲斐性でしょ、しなさい」

 そう言われては、私はきっと、今夜も美都に甘える。

 美都と向きを違えて、フェンスのそばに立った。景色は見える。この景色から詩を書くことだって不可能じゃないはずだ。けれど、それはどんなふうに見えた景色の結実であろう。自らでわからないのだ。赤は赤と、青は青と見ている、そんなふうに言うこともできなくはないけれど、美都に対して、そう答えるのは不実であるような気がして。



 迷子の気持ちでいれば、詩を書くこともわからなくなる。私は今まで何を見て、詩を書いていたのだろう。

 目覚めたら、もう美都は私の隣にいなかった。下着姿のまま、ベッドの近く、ローテーブルに置かれたノートパソコンと向きあって床に座っている。私に背を向けていて、その表情はわからない。パソコンの画面にあるのは、ウェブ上で公開している私の詩集だ。最後の更新は美都に告白をした前日――もう一ヶ月以上も更新されていない。

 美都が、背を向けたままで私に問うた。

「今の私の表情、わかる?」

「ひどく不満そうにしている」

 感じたまま答えたが、美都は黙してしまい、正解とも不正解とも言われなかった。全くの見当違いというのではなかろうと、雰囲気で感じ取った。私はベッドサイドからショーツとブラを手に取り、短い廊下にある洗濯かごに投げ入れてから、衣類ケースからショーツだけを取り出して履いた。何やら億劫おっくうな思いがした。ちらと見た美都の表情は、やはり不満げだった。ただ、思い違っていたところはあるらしい。

 所在なく部屋をうろうろしていると、美都は立ち上がり、まず衣類ケースからブラを取り出して、私に放ってよこした。「ちゃんとつけなさい」と、私をたしなめてから、話を続けた。

「誤解しないでね。不満だけど、自分自身に不満なの。菫子が詩を書くことの邪魔になっちゃってるなんて、恋人として、どうなの」私はおとなしくブラをつける。美都はさらに続けた。「だ、からぁ、菫子にちゃんと答えを見つけてもらえないと、私、堂々と恋人だなんて言えないよ。詩人、赤坂すみれは、私の一番好きな作家先生だよ?」

 赤坂すみれとは私が詩を書く時のペンネームだ。何やらそこまで言われるとおもはゆい。しかし、美都は随分と自責にかられている。答えられないのは私なのに。

 お互い、少し気分を変えた方がいい、私は美都を誘っていた。

「桜を見に行かない?」

「桜? もう咲いてるの?」

 美都の感覚ではわからないだろう。引っ越してくる前の私たちにとって、桜とは、四月の終わり頃か、あるいは五月にずれ込むか、それでやっと咲くものだからだ。それが北の桜だ。秋に引っ越してきた美都は見ていない。三月の桜を。



 美都の家からそう遠くない公園を選んだ。案内をしてみれば、都合良く誰もいなくて、園内の遊具は静かだ。ふたりきり、閑寂かんじゃくの中で、春日しゅんじつに照らされる桜木を見上げていた。

「本当に咲いてる。何だか関東ってずるい」

 桜はもう開花の時を迎えていた。満開とはいかないまでも、その多くはつぼみであることをやめ、桜花おうかとなって花開き、私たちを迎えてくれた。

 一時、美都は桜に見惚れるのをやめ、微笑みに満ちた表情をこちらへ向けた。

「来年の桜も一緒に見ようね」

 美都がいる。微笑んでくれる。

 だから、感じられる。

 ああ、今の私にとって、その景色には、美都がいなければならないんだ。

 景色が変わる。

 詩人わたしの見ている景色が映る。

「今、見えたよ」

 桜を見ている美都がいる。だから私は口にしていた。詩人の景色とは何であるか、そのひとかけらを。

「詩人の景色が見える。桜の花に、を見ている」

 桜の花のひとつひとつが、美都に降り注ぐ約束に見える。私を照らす約束に見える。私たちを祝福する、ささやかな、けれど大切な、一片ひとひらの約束に見える。

 美都は満足したのか、満面の笑みでこちらへ振り返った。

「それじゃあ、私のことは?」

 私もまた、笑みをいっぱいにして、美都に向き直る。

「それは美都と同じがいいな。好きな人に見える」




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桜花は一片の約束 ―鷺丘交々物語― 香鳴裕人 @ayam4

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