第三章

第十七話 獏



 幼い頃、わたしは眠るのが怖かった。


 毎晩のように怯えるわたしに、朝になれば目覚めるんだよと母は言い聞かせる。弟たちはまだまだ目の離せないくらい小さかったのに、お姉ちゃんなんだから、なんて一言で片付けず根気強く寝かしつけてもらったのを覚えている。


 赤ちゃんは眠くなると、意識の遠のく感覚を死と勘違いして泣くという。


 ただの俗説だと言ってしまえばそれまでなのだけれど、意識がない状態が死ではないと自覚する方法がないというのは事実なのでは、とわたしは思う。


 当時のわたしが怖れていたのは二度と目覚めないことではなく、一時的にでも意識を手放してしまうことだった。母のお陰で朝の訪れを信じられるようになった一方で、ほとんど死と同じ状態になる恐怖だけは抱えたままだった。


 生物である以上、睡眠は周期的に取らなければ死んでしまう。生存のための原始的な欲求に、逆らうことはできない。幼い子どもであるなら尚更だ。受け入れるしかない。


 わたしたちは夜ごとに小さな死を繰り返す。いつか本当にやってくる死の予行練習をして、本番は失敗のないようにと積み重ねている――


 そんなふうに思っていた。


 だから今でも少し、眠るのは怖い。




   ///




 最初に見たのは白い天井。それから周りを囲む水色のカーテン。


 わたしは仰向けでベッドに寝かされていた。胸元まで掛けられていた布団を退かして上体を起こす。少し身体がだるいけれど、気には留めない。


 カーテンを開けると、すぐ目の届く位置に木野先生が座っていた。


「あら、おはようございます。気分はどうですか?」

「先生――」


 言葉が上手く出なかった。頭の中で整理がついていなかったからだ。何もかもが中途半端で、繋がっていない感覚。寒気がして、視界に歪みが生じる。


「まず息を吸ってください。それから吐いて」


 木野先生の指示に従い、ゆっくりと深呼吸をする。だんだんと身体が温まってきたのを感じ、落ち着いていく。


 わたしの肩が上下しなくなったのを見て、木野先生はふっと微笑んだ。


「急に起き上がってはいけませんよ。あなたは朝からずっと眠っていたんですから」

「……はい」

「仲良井さんが真面目なのは認めます。でも体調の悪い日は無理せず欠席するようにしてくださいね」

「……すみません」


 木野先生は頷いてから立ち上がり、保健室の先生を呼びに行った。保健室の先生は幾つかの栄養剤を勧めてくれたけれど、大丈夫ですと言って断った。それを受け取って飲んでしまったら、嘘を本当と思い込んでしまいそうだったから。


 わたしはできるだけ平静を保ちながら、手持ちの情報を繋いでいく。肝心なのは自分だけを信じること――巻き戻しが起きた直後は、特に。


 壁掛け時計で時刻を確かめると、午後五時を過ぎたばかり。わたしたちが理科実験室に居たのも午後五時前後。でも今から現場に向かったところで意味はない。わたしが巻き戻し以前と別の行動をとっていることがその証明になっている。


 わたしは、。言い換えれば、ということだ。


 巻き戻った後、登校するまでは巻き戻し前と同じ行動をなぞったのだろう。それから藍生に過去を改変する旨を聞き、わたしは保健室で眠った。そうやって藍生が自由に動ける環境を作った。


 わたしが昼休みに純先輩に会わないことで盗聴器を仕掛けられずに済むし、それ以前に盗聴の狙いを看破できる。中庭なら少なくとも飛び降りはできないから、落ち着いて話をすることも可能だろう。


 そして今わたしが目覚められたのは、ここからの行動がわたしにとって初めてだからだ。巻き戻しの起点になったタイミングではわたしは理科実験室に居なければならず、そうでなければ眠ることしかできない。裏を返せば、起点さえ過ぎてしまえば眠らなくて済むという話になる。


 タイムリープする前のわたしが到達できなかった時間。そこに特別な感傷はないにしても、後ろめたさは感じてしまう。採点中に間違えた回答を消して正答に書き換えたような疚しさが、胸の内でくすぶっている。


 でも、それはわたしの思い上がりだ。タイムリープをしようがしまいが、その時とった行動が正解かどうかなんてわかりはしない。時間を巻き戻して書き換えた未来は、あくまで藍生にとっての正しさで成り立っている。


 結局、彼は独りぼっちでしか世界を変えられない。


 わたしが感じている疚しさとは、きっとそこに由来していたのだろう。


「木野先生」

「はい」

「藍生は今どこに居ますか」

「西見くんがどこに居るか、ですか?」


 何故か驚いた様子で、木野先生は反復した。


「あいにく放課後になってからは見かけていませんけれど……彼に何か用が?」

「答え合わせをしようと思って」


 いかにも意味がわかっていなさそうな表情をしながら、それでも木野先生は「そうですか」と最低限の理解を示してくれた。


 こういう何気ない肯定に、わたしは救われている。


 保健室を出た後、鞄から携帯を取り出す。先生に藍生の居場所を訊きはしたけれど、知らなかったら知らなかったで直接連絡をとるつもりではいた。ただこれからの行動は、もし再度巻き戻しした際にも同じようにするか、また眠るかしなければならない。それを考慮すれば、藍生に連絡することさえ軽率に感じられた。


 藍生は純先輩を助けた。それは間違いないはずだ。でないと今頃校内は騒ぎになっていないとおかしい。飛び降りは阻止されている。


 なのにどうして、胸騒ぎがするのだろう。


 携帯を手に握ったまま、理科実験室へ向かう。行く意味がないと頭で理解していても何かしていなければ落ち着かなかった。より正確に言うなら、自分の目で確認しなければ安心できない。


 階段を上る足が重い。足だけじゃない、全身が、まぶたが重い。そうか、これは体調が悪いんじゃない。。目が覚めたとき、わたしの記憶はどこか抜け落ちていた。つまり現在はまだ、巻き戻しの起点を越えられていない。


 わたしの覚えていない範囲で何かが起きた。今日――厳密には初回の九月三日――に藍生も言っていた。タイムリープの後に記憶が引き継がれないことがあると。


 ――わたしを、助けてみなよ。


 純先輩がそう言ったのは覚えている。仰向けに飛び降りる直前までは思い出せても、その後わたしや藍生が何をしたのかが思い出せない。考えられるのは目の前で人が投身自殺をしたショックで記憶がなくなった線だけれど、それだけでは二回目の今朝からわたしがとった行動まで記憶が曖昧になっている説明がつかない。


 もっと別の原因があるはず。でも、考えがうまくまとまらない。眠気が強すぎる。他にも辻褄が合わないことがあるのに、もう意識が――


「歌奈!」


 突然腕を掴まれた。階段の上のほうから声がする。ずっと前から聞きなれた声。


 辛うじて目を開けると、そこには慌てた表情でわたしを引っ張るコウ兄さんが居た。


「あぁ、兄さんだ……久しぶり……」

「なに寝ぼけてるんだ! お前階段から落ちそうになってたんだぞ!?」

「ご、ごめんなさい……」


 鬼気迫る形相のコウ兄さんを見て、強烈だった眠気が少し和らぐ。幼馴染にかけてしまった心配を思い、身体が自然に縮こまる。


 自分で立っていられないほどの睡魔。まだ新たに動き回れる状態、状況ではなかったのか。でもそれならどうして、わたしは目覚めることができたのだろう?


 不可解な事ばかりが起きている。早く藍生と合流しないと。


「無理するな、歌奈」


 コウ兄さんがわたしを抱きかかえて階段を下りる。お姫様抱っこだ、とぼんやり思う。信頼する兄さんに身体を預けられることと眠気が相まって、とてつもない安心感を生んでいた。


 気付けば焦燥感は上塗りされていた。今のわたしじゃあどう行動しても藍生のもとへ辿り着けない気がする。純先輩のことは藍生に任せておいたほうが賢明なのかもしれない。


「兄さん……わたし、眠ってもいいんだよね……?」

「いいよ。それでいいんだ、歌奈」


 コウ兄さんの言葉に、抗いがたい安らぎを感じる。


 わたしは意識を手放した。

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死ねないキミの功利主義 吉野諦一 @teiiti

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