第十六話 善きサマリア人の喩

 陽の当たらない位置にある理科実験室は、いつ訪れても薄暗く感じられる。滞留していた空気が、埃の臭いとともにわたしたちを出迎えた。


「待ってたよ、藍生くんに仲良井ちゃん」


 窓際の棚の上に並んだフラスコやビーカー。それらを除けて作ったらしいスペースに純先輩は腰掛けていた。装着していたヘッドホンを下げ、絡まった髪を左右に振ってほどく。


「仲良井ちゃんにはお昼の礼を言いそびれていたね。唐揚げありがとう、おいしかった」

「あれくらいでよければ明日もお分けしますよ」

「うん。そうしてもらえると嬉しい」


 大きなテーブルに載せられた逆さの丸椅子を降ろして、わたしたちは先輩と机ひとつ挟んで座った。


「お昼もそうだったけれど、きみたちは自分を警戒しすぎじゃないかな」

「気のせいです」

「そうかい」


 表情を変えず、じっとわたしを見下ろす純先輩。


 警戒しているのはこちらだけじゃない。彼女もまた、わたしたちに心を許してはいないことくらいは感じ取れる。


 あの冷たい空気の部屋で会ったときからずっと、飯泉純は隙を見せまいと構えている。腹を抱えて笑っていたときでさえ、目はしっかりとわたしたちのほうを向いていた。


「僕たちに何かご用ですか?」


 藍生が訊くと、純先輩はゆっくりと頷いた。


「ああ。だがその前に、訊いておきたいことがある」

「なんでしょう」

「藍生くん。どうしてきみは人助けをする」


 根本的な質問に、藍生はすぐには答えない。


 わたしも当人から直接聞いたことはない。おそらくは自分の持つ巻き戻しの力に、使命感や責任感を覚えているんじゃないか、と推測してはいたけれど。


 実際に彼が何を思い行動しているのかを、わたしは知らない。


「うーん、理由はいっぱいありますけど」


 とぼけた前置きをして、藍生は頬に手を当てる。


「一番はやっぱり、僕が僕自身を許すためなんですよ。みんながみんな何かを守りたくて生きているのに、僕にはそういう当たり前の感情がない。当たり前が理解できないのは、この社会にとっては罪みたいなものじゃないですか」

「だから罰することで自らを許そうってわけかい」


 純先輩の不快そうな眼差しが藍生を刺す。


「がっかりしたよ。偽善だとは思っていたが、ここまで劣等だとは」

「そうですね。僕のやってることは偽善です」


 はっきりと言う藍生に、わたしは横槍を入れたい衝動に駆られた。


 ――きみがそれを言ってしまったら、誰もかも偽善者だよ。


 けれど、何も自覚しない、自分の善意の尊さも知らない、そんな彼だからこそ口にできる言葉もある。


「偽善だから、単なる善より制約がない。誰のけちもつかないような美しい善行を、僕は元から望んでなんていません。目の前にある間違いを正すには、それは無用の長物ですから」


 藍生は前しか見えていない。自分がどう見られているかを気にしない。行いをどう評価されようが構わない。大切なのは、結果だから。


 物事には本来一度しかないはずの過程を、繰り返し経験してきた。到達したい結果が一つしかないから、不要な過程を切り捨てることが癖になった。その取捨選択の蓄積と、過程の間に捨てられながらも残留した人格が、今の藍生を形成している。


 わたしは考えずにはいられない。


 巻き戻しの力がなければ、藍生はもっと自由に生きられたはずなのに、と。


「きみにとっては偽善で充分なんだろう」


 純先輩は棚の上で脚を組みながら言う。


「だが、この世にあるものは大半が善意だよ。ただそのまた大半が、受け取る側にとって善意でないだけで。独善とまでは言わないけれど、偽善は世界の利にならない」

「そんなスケールの大きい話は僕にはわかりません」

「わからなくとも関わりはあるんじゃないのかな。変わった力を持っているきみなら」


 空気が一転して張り詰める。


 この人、いま何て言った?



「時間を巻き戻せるんだろう?」



 思わずわたしは藍生のほうを向いてしまう。藍生は目を見開き、言葉も出ないようだった。


 どうして純先輩がこのことを知っている? というより、どうしてそんな嘘みたいな話を然も確信しているみたいに言えるの?


 押し黙るわたしたちに、純先輩はうっすらと笑みを浮かべた。


「簡単な話だ。仲良井ちゃんから弁当のおかずを貰ったとき、こっそり盗聴器を仕掛けさせてもらった。少し前のきみたちの会話を盗み聞きしただけさ」

「……趣味わるっ」


 つい口からこぼれ出てしまった。でも純先輩はますますご機嫌になる。


「そうだよ、自分はとても趣味が悪いんだ。いい子ちゃんでいるのはつまらない、枠からはみ出た色にこそ惹かれる。変わり者でいたいんだよ。だから――現実的にあり得ないことだって信じてみたくなる」


 納得できる理由かはともかく、その言葉は明快に先輩の意思を示していた。


 周りと異なるもの、枠外にあるものに興味を抱く。純先輩もまた、藍生が他と違うことを察知したのだろう。昼休みに藍生だけを呼び出していたのもそれが理由。


「きみみたいに特別な人間が、特別でいられる所以が知りたかった。自分もそれに倣えば特別になれると思っていた。でも、そうはいかないらしい」


 わざとらしく首をすくめる純先輩。


「誰にも真似できないから、特別なんだ。人助けは誰にでも真似できるけれど、時を巻き戻すなんてことは真似しようがない。始末が悪いのは、そんな特別な力を積極的に使おうともしないってところだ」


 彼女から見れば、藍生の行動は宝の持ち腐れ。出し惜しみをしているように感じるのだろう。そうでないと説明するには、相手の言動は少し冷静さを欠いていた。


 陰になっていて視認しにくいけれど、純先輩は興奮気味に顔を紅潮させている。逆らうような物言いは得策ではないと、わたしは察した――うん、わたしは。


「そんなの、僕が自分の力を何に使おうが使うまいがあなたには関係なくないですか?」


 藍生は、そういう空気を一切読まない。


、全部を助けられるならそうしてます。僕にはせいぜい、死ぬ気でやれば助けられるかもしれない程度の窮地までしか救えない。積極的に使うどころか、僕一人の力で助けられるものなんてほんの僅かなんですよ」

「…………」


 純先輩が無言でこっちを見ている。


 はい、そうなんです。藍生はほんとに掛け値なしでこういうやつなんです。


 周りがどんなに頼っても、羨んでも、哀れんでも、関係ない。


 その感情が及ばないところで、無自覚に普通の枠を飛び越えて人を助けているのが西見藍生なんです。


「歌奈さんは僕に『当たり前の人助けだけをして』と言いました。僕はずっとそうしてきたつもりでしたけれど、歌奈さんにはそう見えなかったらしい。先輩が僕を特別扱いしてくれるのも、きっと同じです。自分と他者との認識の差は、話をするまでわからない」

「……そっか」


 純先輩はもう笑ってはいなかった。顔色も、元の薄い肌色に戻っている。


「つまり、その力は大したものじゃないと言いたいわけだ」

「はい」

「それならもう話す必要はないな」


 先輩の後ろで、かたん、と音がした。


 それは窓の鍵が外される音だった。純先輩が開けた窓から吹き込む、湿気を帯びた風。仄かに香った、雨のにおい。


 ただならない気配に、わたしは気付く。


「危ないですよ、先輩」

「ああ、そうだね。こんなところで座っていたら、何かの拍子で落ちてしまうかもしれない」

「ふざけたこと言わないでください」

「本気だよ」


 据わった目。脱力し、垂れ下がった脚。広げられた両腕。


 希うような表情のまま、純先輩は瞼を閉じる。


「試してあげるよ、西見藍生。死ぬ覚悟までする善行が、人にできる当たり前の範疇だと本当に思っているのなら――」


 仰け反る小さな身体。背後の虚空に吸い込まれる。


 伸ばした手は間に合わない。



を、助けてみせて」



 直後。


 先輩の姿は窓の向こうへ消えた。

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