16
雲ひとつない空。
そんなもの、見たことがなかった。
きっとどこかにあったはずだった。
でも、見ようとはしなかった。
雲ひとつない空。
それがなんだというの。
でも、今はこの手を伸ばしてしまう。
意味などないと、分かっているのに。
あなたの髪はいつも青だった。
あなたの服はいつも青だった。
あなたの魔法はいつも青だった。
あなたの名前はバクだった。
朱音は体を仰向けた。
白い天井が、やけに疑わしく見える。
あなたが消えた。
どこかへ消えた。
最初からいなかった。
私の現実に、最初から、あなたはいなかった。
朱音は体を横へ向けると、しっかりと目を開き、考えた。
ヘンリエとみんみんは私を訴えなかった。
話し合いに同席した二人の関係者————特にみんみんの両親は、この決着に納得していないようだった。
だが、ヘンリエとみんみんが私を訴えないというのも、話し合いの場に同席したのも、それはすべて彼らの強い意向であると、弁護士はあえて代弁した。
間近で見るヘンリエは動画やフィギュアとはまったくちがっていた。
かわいいけれど、ずいぶんと陰気に見えた。長い髪、地味なパーカー、覇気のない瞳。ヘンリエのメイクをしていなければ、そこら辺にいる女の子と大差ないか、それよりも地味なのかもしれない。
ヘンリエッタ45はふわふわのツインテールを揺らしながら、ハイスペックに改造された愛用のアクアバキュームガンで粗大な標的を難なく吸い取り、涼しい顔で、華麗に任務をこなす。この子はいったい、誰なんだろう————。
みんみんはいかにもアイドルらしい猫顔の美少女だった。
ヘンリエ同様、すっぴんに近いメイクでやって来たが、この子が小型アイトラバキュームガンを片手に、標的を派手に、俊敏に吸引しまくる様も、はつらつとした笑顔をファンに振りまく様も、容易に想像がついた。
みんみんは華奢な体型にしてはぶかぶか過ぎるジャケットを羽織っていた。
普段なら、そんなのはオーバーサイズファッションくらいにしか思わない。だがみんみんのそれは、多分、腕の包帯を隠すためだ。
話し合いが済んだあと、ヘンリエとみんみんは私と三人だけで話がしたいと言った。
弁護士や関係者はみな、私がまた二人に危害を加えるのではないかと不安がったが、それでも最後には渋々部屋を出ていった。
私は一瞬、これまでの話し合いや温情は全部茶番で、これから二人に陰湿な脅迫をされるのではないかという考えがよぎった。
部屋のドアが閉まり、外が静かになったのを確認すると、二人は私に向き直った。
ゲームの中のイメージとはちがう、陰りのあるヘンリエと、冷静なみんみん。
でも、ゲームの中と同様に、二人の呼吸が合っているのが分かった。
「あなたの気持ち、分かるの」
そう、ヘンリエが言った。
何が?
私は思った。
場が許すなら、鼻で笑ってやりたい気分だった。私の誤解で怖い思いをさせ、怪我をさせ、仕事に穴まで開けさせたにもかかわらず、いろいろと配慮をしてくれた。それには感謝している。でももう、この人の話は聞いていられないと思った。この手の話は、導入を聞くだけで興ざめしてしまう。
「私も、自分が一人だって、気づくのが怖いの」
ヘンリエは話し続けた。
「支えがあるから、引っ張ってくれる人がいたから、ここまでやってこれたの。それを奪われたら、私、自分がどこへ行けばいいのか、どんな考えを持てばいいのかも、よく分からなくなるの。〝合っているよ〟って、〝だから一緒に行こう〟って言ってくれる人がいないと、自分が、誰にも知られないうちに消えてしまうみたいなの。でも、きっとずっとそうなの。何かに支えられていても、引っ張ってくれる人がいても、私は自動的に何かになれるわけでも、どこかへ運んでいってもらえるわけでもない。何かにすがったり、頼ったりしながら、それでも一人で、選んで、歩いていかなくちゃならないんだって。それくらい、現実が恐ろしいものだってことに気づくの」
ヘンリエは、ずっとうつむきながら話していた。表情は、責め立てられたようにおどおどしている。でも、話すほどに、言葉は力強いものになっていた。
みんみんは一言も喋らなかった。何かを訴えるように私を見る風もなく、ただ目を伏せて黙っていた。みんみんは私に何かを伝えたいんじゃなく、私と同じ立場で、ヘンリエの話を聞いているような気がした。
「あなたの大切な人はね、私に言ったの。いつも赤い髪、赤い服、赤い魔法を使う子。そんな大切な友だちが、ゲームの中にいるんだって。クールだけど自己主張が強くて、時々控えめな冗談を言うんだって。いいことも、悪いことも、なんでもよく話してくれるから、リアルでの会話が苦手だなんて信じられないけど、よく考えれば自分もそうだから、お互い様だなって。その子は自分の悩みを話すときすら、『でもしょうがない』『なんとかやる』『がんばろーぜ』って、クールに振る舞うんだって。目の前で、『もうだめだ』『辛い』『逃げたい』って、泣いてくれたらいいのにって。そしたら、『逃げていい』『やめていい』『ここにいて』って、背中をさすってあげられるのにって。昔は、画面を通して会話をするから、遠くに感じてほっとしたのに、今は手が届かないことを突きつけられてる気がして、もどかしいんだって。『たかがゲームの中の友だちにここまで思うのはおかしいか』って、聞かれたこともあるの。『そんなわけない』って、私答えた。正直な気持ちよ。あなたもそうでしょ?」
そうだった。でも、言葉が出なかった。
長い間、いろんな話をしてきたのに、バクがそんな風に思っていたなんて、ちっとも気づかなかった。
『しょうがないね』『なんとかやっていこう』『がんばろーぜ』
そうやって、互いに言い聞かせて、一緒に乗り越えているつもりでいたんだ————。
「たかがこんなもの、なんの助けにもならないって、思わないでいてほしいの。あなたを支えてくれるのは、引っ張ってくれるのは、周りがくだらないって思うものかもしれない、当たり前にある何かかもしれない、大切な人のデータかもしれない。そういうものに、身をゆだねながら、手をひかれながら、赤を選んで、歩いてみてほしいの」
ヘンリエはもう、しっかりと私を見ていた。
ああ、ほんとに、この人は————。
下ろしっぱなしの長い髪、水色じゃない服、瑞々しく、光りはじめた瞳。
見かけは、私の知っているヘンリエとはちがっている。けれど。
〝大丈夫。私が守ってみせるわ〟
そんな風に、誰かを受けとめようと、手を取ろうとしてくれている。ゲームの中の、彼女のように————。
みんみんは最後まで何も言わなかった。ヘンリエが私に話をするために、ただ、そばにいてくれていたんだろう。
二人はいつか離ればなれになるんだろう。ヘンリエは、自分にとっての大きな支えを、パートナーを失うだろう。
それでも彼女は歩いていくんだろう。
悩みながら、恐怖しながら。
支えられて、引っ張られて。
すがったり、頼ったりして、自分を選んでいくんだろう。
朱音は仰向けになると、スマホを胸に抱いた。
バク————。
今はもう、何もする気になれないの。
画面を見るのが怖いの。
眠ることすらできないの。
それでもいいと、言ってくれる?
バク。
私は、雲ひとつない空を求めていたんじゃないの。
私の上には、青い空さえ必要ないと思っていたの。
降った。晴れた。虹が出た。
そんな風に、空を見上げて一喜一憂するなんて、自分には価値のないアクションだと思っていたの。
バク。
あれだけ泣いたのに、まだ涙が出そうなの。
でも、それでいいのよね?
泣きやんだら。そしたら、また。
空を見てみようと思う————。
「いいね」
本村は言った。「味噌バターラーメン。野菜多め」
「今朝ね、親に今日は学食がいいっつったの」
浦和は言った。「だったらなんで昨日のうちに言わないのもうお弁当作っちゃったでしょ持っていきなさいよとか言われたから一応弁当もあったんだけどさ。二限のあとに食べちゃった。でもまだ余裕で入る。こんなに食ってんのになんで背え伸びないんだろ。DNAの限界かな。いただきます」
池脇は箸を手にしたまま、険しい目つきで、味噌バターラーメンをすする浦和を見ていた。
「何?」
浦和は言った。
「いや、メニューにミートスパあるけど?」
「だから?」
「いや、好きなんじゃねえの?」
「いや、別に。好きだけど。好物ってほどでは」
「じゃあなんで————いや、やっぱいい」
池脇はカツ丼を食べ始めた。
「あれ? 今日シュウマイついてないんだ?」
浦和は、本村のA定食を見て言った。以前シュウマイがのっていたはずの小皿に、今日はミートボールが二つのっている。
「それ僕も聞いたの。そしたらね、付け合わせは大体週ごとに変わるんだって」
「ほー。あなどれんな冷食棚卸し定食」
「浦和君、呼び方」
「そういやスマホ見つかったのか?」
池脇は言った。
「それがさ! 三組の女子に拾われてたんだよ」
「それがさ。すごくかわいい子だったらしいよ」
鮭のムニエルを食べながら、平然と本村は言った。
「そーなの! なんか、みんみんをおっとりふんわりさせたような子だったの! すっげーいい匂いがしたの!」
「味噌バターラーメンの?」
本村は言った。
「ちげーよ。女の子の匂いだよ。わざわざ俺のこと探して届けてくれてさ。なんか入学早々運命感じちゃった。いやあ。スマホ落としてみるもんだね」
「夢見がちなやつだな、お前」
冷水を飲んで一息つきながら、池脇は言った。
「夢見がちといえばずっと気になってたんだけどさ」
ぼんやりと、浦和は言った。「池脇も、着せ替え人形が好きなの?」
「は?」
「だってなんか二人って接点なさそうだし。クラスもちがうし中学もちがうんでしょ? 俺、こないだここで二人が一緒に昼飯食ってんの見たとき、本村がパシられてるのかと思ったよ」
何も分かっちゃいないなと、池脇は思った。本村というのは、紙切れ一枚のために一警察官を夜の宮の城公園に放ち、駆けずり回らせる男だぞ。
「なりゆきだよ。なりゆき」
池脇は言った。「RPGじゃあるまいし。いつ誰と知り合うかなんて、そうそう読めねえもんだろ」
「まあね」
「接点、あるよ」
ミートボールを頰張り、本村は言った。「ギター・ギャン」
「ああ、そういえばたまに履いてくるよね、ギター・ギャン」
浦和は言った。「いいなあ。俺も欲しいんだよ。バブルガムボーイシリーズのピンクのやつ」
「いや、いい。あれはもう」
急に疲れた表情になり、池脇は言った。
「なんで? かわいくない?」
「うざってえ。二匹も見たくねえ」
「は?」
「いや、全力でこっちの話だから気にしないで。メンマ噛み締めて」
本村は言った。
「あとは————殺人だな。接点といったら」
少し考えて、池脇は言った。
「何? サスペンス好き? 俺も好きだよ。
浦和は言った。
「そうじゃねえ。出くわすんだよ。殺人事件に」
「いや無理でしょ。ないよ。健全な高校生が健全に生きてたら事件に出くわすことなんて」
「それがあるんだよ、浦和君」
本村は言った。「浦和君だってさ、こう、ひょんなことから巻き込まれ系主人公になることもあるかもよ」
「たとえばあ?」
割り箸を噛み、眉根を寄せて、浦和はたずねた。
「たとえば————」
「えー! うそー!」
食事の受け取りカウンターで、女子生徒が叫んだ。
「シュウマイさん、なくなっちゃったのー?」
シウマイさん失踪事件 @pkls
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