最終話

 日野が釜ヶ崎に来て一年になろうとしていた。コーナーの仕事にも通じて、署長の理不尽な苛めにあうこともなくなった。釜ヶ崎はどちらを向いても落ちこぼれで見栄を張ることも、競争であくせくすることもない。日野は”釜ヶ崎天国”の意味がやっと分かってきた。

 そんな矢先、春の人事異動が発表された。意外にも移動名簿の中に日野の名前もあった。天満署防犯課への転勤である。西成にやっと居着いたと思ったのに。

 広岡にも辞令がきた。正式に警視庁採用の辞令である。

 赴任の二日前に、広岡がコーナーに挨拶に来た。得意の絶頂にある広岡は機嫌よく、皆に愛想を振っていた。

 こいつは、これから新幹線コースを突っ走り、出世してゆく。こいつと俺を隔てたものは何であったのか、才能か、運か、運命か、畜生。俺はこいつに負けたくない。

 敗北感がひしひしと日野を打ちのめした。


 日野は釜ヶ崎の端にある正眼寺に参った。この寺には、釜ヶ崎の無縁仏が祀られていて、頑鉄が眠っていた。日野は今でも暇を見つけて、ここに参っていた。

 境内の隅に小高い土饅頭があり、小さな石碑が建っていた。

「釜ヶ崎無縁仏の碑」と書かれている。

 日野はしばらく碑の前で合掌し、頑鉄に呼び掛けた。

「頑鉄よ、俺は転勤になった。もう、今までのようにお前のところへ来てやれん。俺は釜ヶ崎が好きだ。俺はお前と同じケタオチだ。俺はここにずっといたい」

 けれども、墓の中の頑鉄は何も言ってはくれなかった。


 数日後、西野室長が日野のために送別会を開いてくれた。管内の寿司屋の二階に十名のコーナー全員が集まった。飲んだくれの労務者の相談相手を辛抱強く努め、西成の治安を陰で支える心優しい集団だった。

 宴が始まると、室長は日野に一枚のレコード盤を差し出した。

「日野くん、ご栄転、おめでとう。君にこのレコードを送る。『釜ヶ崎心情』だ。西成署では転勤してゆく全員にこれを贈るんだ。いつまでも、釜ヶ崎を忘れず、思い出にしてくれ」

 日野はレコードを受け取った。ラベルには”釜ヶ崎人情、唄、三音英次”と書かれていた。西成署を出てゆく者は皆、このレコードを抱いてゆくのだ。

 日野は言った。

「お世話になりました。皆さんのご好意と釜ヶ崎を、俺は決して忘れません」

 宴は和やかに進んだ。


”命があったら死にはせぬ、人はスラムというけれど、ここは天国、釜ヶ崎”


 皆が手拍子をとり”釜ヶ崎人情”を歌った。哀愁を帯びたリズムに皆が酔いしれ、歌は何度も繰り返された。

 大阪の治安は、これら下級警察官の廉潔と勤勉によって支えられているのだ。


* *


 赴任の日が来た。

「日野さん、もうご一緒することは、百パーセントないと思いますが、お互いに頑張って大阪府警を支えてゆきましょう」

 うす笑いを浮かべながら、広岡が日野に握手を求めてきた。こいつ、最後の最後まで俺を馬鹿にしやがって。日野は握手を拒むと、皮肉をこめた口調で広岡に言った。

「ああ、俺とお前は、もう会うこともないだろうが、お前はキャリアになって、あのシナリオライターとも上手くやるがいいさ」

 だが、広岡は、

「嫌だなぁ。稲田さんとはお別れしましたよ。僕は欲の深い人間は好きじゃないんでね。その点、この釜ヶ崎の人間は面白かったな。日野さん、あなたも含めてね。この場を借りてお礼を言っておきますよ。あの剣道場でのシゴキも含めて……大変良い経験をさせてもらったと」

 おどけるような笑みを浮かべて広岡はぺこりとお辞儀をすると、唖然とする日野の前から去っていった。


 しばらくして、管内放送が、転勤者の名を次々に放送し始めた。日野は広岡の次だった。広岡の名が放送されると、玄関に黒山の見送り人が集まった。その先頭に署長がいた。署長が音頭をとって唱和が始まった。


「広岡上級職万歳」


 嵐のような拍手を受けた広岡は、鷹揚に頭を下げ、手を振った。

 日野の名が放送された。すると、玄関にいた黒山の人だかりは潮を引くように消え、残ったのは、十名のコーナー職員だけだった。


 西野室長が、固く日野の手を握った。温かい手だった。

 車が出た。コーナーの仲間たちがちぎれるように手を振った。車がしょんべんガードをくぐった時、日野は赴任の時の友人の言葉を思い出した。


「西成というところは、来る時に泣き、出てゆく時、また泣くところだ」


 日野の脳裏にふと、人懐こい頑鉄の笑顔が浮かんだ。


        

           ― 完 ―


 


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ケタオチ 宗像弘之 @hiroyukiM

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