第十三話

 火事だ。

 日野は眠気を振り払い飛び起きた。

 西成の火事は要注意だ。すぐ、数十、数百の群衆が蝟集いしゅうする。蝟集は騒動の種となる。火事の原因は色々ある。あくどいドヤ主に対する労働者の復讐放火。反対に、ドヤ主の保険金目当ての放火など様々だ。

 火は釜ヶ崎を狂気にかりたてる。絶対に、火が原因の騒動を起こさせてはならぬ。それが、西成署員の金科玉条だ。


 日野は現場に飛んだ。火元は萩ノ茶屋のドヤ街らしい。大きな火柱がたち、赤い炎がめらめらと闇を焦がす。右往左往する群衆……野次馬が続々と集まりだした。現場が動く。防火は消防、犯罪捜査は刑事課。日野らは刻々に増えてくる雑踏をさばく。

 誰かが叫んだ。

「日の元は”千成せんなり”やぞ……」

 日野は、はっとした。ドヤ街の宿の千成には、頑鉄が泊っているはずだ。だが、今の日野には、頑鉄の安否を確かめる余裕はない。日野は頑鉄の無事を念じながら、声ををからした。

 火事は千成ほか、三軒の宿を全焼させ、明け方の午前六時にやっと鎮火した。

 火事の原因究明は、捜査の仕事である。日野は署に帰り、泥のように眠った。肩を揺さぶって起こされた時、佐藤巡査が寝不足の目を血走らして立っていた。


「主任……大変だ。頑鉄が死んだ」

「何、本当か……」

「千成が火元で、焼け跡から焼死者が一人出た。宿泊名簿を当たり、生存者を確認したが、頑鉄だけが残った。焼死者は頑鉄に違いない」

「ホトケは……」

「署の霊安室に置いてある」

 日野は暗然とした。昨晩、嬉しそうに、はしゃいで帰った頑鉄の顔が浮かんだ。

 佐藤が青ざめて言った。

「どうも不審火らしい。頑鉄を狙った勝本組の放火の疑いがある。警察へのタレコミで頑鉄は狙われていた。ドヤもろとも、焼き殺したんだ。可哀そうなことをした」


 霊安室は、署の隅の倉庫を改造した粗末な部屋である。簡単にベッドに遺体が横たわり、毛布がかけられていた。隅にろうそくと花があった。

 日野は毛布を取り、息を飲んだ。

 黒く焼け焦げ、ヤモリのように縮んだ男。顔も、体も、腕も生前の面影はない。

「頑鉄……」

 ベッドに近寄り、亡骸を凝視した。涙がとめどなく流れた。

「すまん、必ず守ると言ったのに、お前を守ってやれなかった。俺に協力したばっかりに、こんな姿になって。勘弁してくれ」

 頑鉄が憐れだった。ふと、日野は、頑鉄は家族の写真を抱いたまま、死んだのだろうかと思った。

 頑鉄は何も語らなかった。また、釜ヶ崎のケタオチが一人死んだ。誰にも看取られることなく、ひっそりと。だが、日野は思う。人間は死ぬときは、皆平等になる。エリートであろうと、ケタオチであろうと。

 釜ヶ崎を天国と言っていた頑鉄。

「安らかに眠ってくれ」

 日野は合掌して霊安室を出た。


 警察署の廊下を歩いてゆく途中、頑鉄の無邪気な言葉が思い出され、日野は目頭を押さえた。


『わしは、先生が好きなんや」


 頑鉄……俺もお前が好きだったよ。


*  *


 署員五百名のマンモス警察署は、何事のなかったかのように、朝の活動を開始した。

 秋が深まった。釜ヶ崎は冬に向かって走り出した。夜は気温がぐんと下がる。釜ヶ崎名物の焚火が、あっちの辻、こっちの街角で火の手をあげる。

 西成署は宿直と宿直の間に予備軍を設け、夜の警戒にあたった。

 防犯コーナーは、警備と組んで、あいりん地区内をパトロールする。私服六名である。運悪く、広岡と一緒になった。日野はできるだけ広岡と離れて歩いた。 


 公園、会館、路地。騒動の起こりそうなところを、くまなく回る。あいりん労働公共職業安定所の軒下には、野宿する労働者が、破れた布団をずらりと並べ、口をあけ、よだれをたらし、垢まみれの顔で眠りこけている。

 銀座通りに出た。焚火の火が不気味に点々と連なっている。不思議と人影はない。

「おかしいな、宵の口だというのに」

 日野が側の佐竹巡査に囁いた。佐竹は、西成勤務三年になる。

 佐竹が言った。

「主任、今日は日本シリーズ第六戦でっせ。みんな店に入り、テレビを見てまんのや。阪神勝つか、西武が勝つか。野球中継がある間、釜は平穏ですわ」

 その時、先頭を歩いていた広岡が、速度を緩め日野と並んだ。にやにや笑いながら話しかけてくる。

「日野さん、しばらく。そういえば、昨日、稲田さんと会いましたよ。日野さんは彼女といつ会いました?」

 日野は広岡と話すのは厭だったが、振り切るわけにもゆかない。

「一週間前に会ったよ」

 ぶっきらぼうに日野が言うと、広岡は得意顔になって、

「僕はもう三回も会った。彼女、僕がキャリアなのを知って、会うのがまんざらでもなさそうだ」

 日野は黙り込んだ。

「そういえば、稲田さんが釜ヶ崎を舞台にして書いた”はみだし警部”のドラマ、見ましたか」

「仕事で見ていない」

「つれないなぁ、僕が見応えがあって良かったって言ってあげたら、彼女、すごく喜んでましたよ。こんなことも言ってたなぁ。もし、私がこのまま、広岡さんとお付き合いしたら、将来はキャリアの妻になって、贅沢三昧ができるのかしらって」

 日野は不快感を隠すことができず、ぷいとそっぽを向いて、広岡の前を歩き出した。広岡はその様子を面白そうに眺めながら、日野の後を付いて行った。


 やがて、街頭にどっと人があふれ出した。ナイターが終わったらしい。ダミ声の六甲颪ろっこうおろしが、闇の中から聞こえてきた。

 阪神優勝でこの晩の釜ヶ崎は平穏だった。



 




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