第十二話

「先生、見てや。これ俺の女房と子供や。もっとも十五年前の写真やけどな」

「……別れたんか」

 頑鉄は自嘲するように言った

「逃げたんや、女房が。わしが、競馬競輪で、すってんてんになってな。しょうがないわ。それまで、堺のかたぎの職人で、あんじょうやっていたのにな」

 頑鉄は涙をぽろぽろこぼした。

「今頃、どうしてるやろ。会いたいな」

 日野は黙って聞いた。

「わしは落ちこぼれや、ケタオチや。わしみたいな者が、釜ヶ崎には仰山いる。毎日、飲んだくれて道に寝てる。みんな、淋しいんや。家族に会いたいんや」


 突然、日野の脳裏に、”はみだし警部”のドラマの話が閃いた。そうだ、これを恭子に伝えてやれば……けれども、日野はすぐに首を横に振った。数時間、見学しただけで……しかも、面白さだけを求めている脚本家に、釜ヶ崎の何が書けると言うのだ。


 日野は頑鉄に言った。

「頑鉄、お前、自立して釜から抜け出す気はないのか」

 頑鉄はとろんとした目で日野を見上げた。

「先生、それは無理や。酒も競馬も止められん。わしは、ケタオチでいいんや。釜はケタオチの天国や」

 酔った頑鉄は、威勢がよかった。

「やくざが、わしのタマ取る手か……。くれてやるわ。先生に役立って殺されるなら、本望や。せやけど、先生、あんたは、ほんまにええ人やな。これからも、わしたちの味方になってや、頼むで」

 日野には、酔ってくだ巻く頑鉄の悲しみ、淋しさがよく分かった。


*  *


 数日後、恭子から電話があった。

「ドラマの脚本の件、何かいいネタが見つかったかしら。締切りが近くて、私、焦ってるの」

「いや……特には」

「困った人ね。いいわ、土曜は暇? テレビ局の近くのグランドホテルのロビーに午後三時。待ってるから、来て。詳しい話はその時にするから」

 恭子は日野が彼女へ抱いているほのかな憧れを見抜いているのか、やけに強引に誘いをかけてきた。それに逆らえない自分が日野はもどかしかった。


 グランドホテルの玄関に入ると、左の喫茶室から恭子が手を揚げた。久方ぶりに見る恭子は、やはり華やかで婀娜あだめいて見えた。

「日野さんくらい、現場に出てる人なら、きっと沢山貴重な経験をしているはずだわ。私が”はみだし警部”に求めているのは、そんなドラマチックで力強い警官の姿。日野さんはそれにぴったりのイメージなの」

 そう言われると悪い気がしないが、日野は恭子に応えることはできないと思った。

「もうっ、じらすのね。広岡さんは言ってたわ。西成の警備のポイントは、強力な警備力で騒動を徹底的に封じ込めることだって」

「えっ、広岡にも会ったんですか」

 日野はつい恭子を非難するような口調になってしまった。

「何度も誘われて、根負けしたの」

 恭子は悪戯っぽく笑った。


「確かに、広岡の言うことは間違いではない。だが、彼は労務者の隠された悲哀、涙、淋しさを見過ごしている」

「だって、それは彼ら自身の責任でもあるんでしょ。行政は彼らの対応に疲れ果てているというじゃないの」

「それも、広岡の受け売りですか」

 少しの沈黙、それから恭子は、

「広岡さん、言ってたわ。日野氏は、署長に苛められて、反警察的になっている、彼の弱者への視点はセンチメンタルだって」

「あいつ、キャリアだからな」

 日野は憮然と呟いた。

「そうですってね、キャリアって、何だかいい響きね」

「キャリア制度には批判もある」

 日野はつっかかるように言った。恭子は含み笑いをした。

「それは、キャリアになれない者たちのヤキモチよ。キャリアがいるのは、何も警察だけじゃない」

「広岡の肩を持つんですか」

 つっかかるような日野を恭子は軽くいなす。

「そう怒らないでよ。日野さんだって、いいところがあるわ。剣道が強いんですってね、逞しい体、不屈の精神。広岡さんも日野氏には剣道では敵わないって認めてたわよ」

「それは……褒め言葉ですか」

「もちろんよ。広岡さんにはあなたの逞しさはないし、叙情の欠片もないもの。その点、日野さんにはロマンがある」

「俺は警察では落ちこぼれだ。でも、出世して人を見下すのは厭だ」

「でも、きれいごとだけじゃ、人は上を目指すことはできないわ」

「落ちこぼれは宿命に甘んじろというのか」

「仕方がないわ。そんなに警察が厭なら、警察を辞めて夢を追えばいいじゃないの。でも、今のあなたにそれができるの」

 恭子とこれ以上話しても、自分がみじめになるだけだった。日野は、信念を決して曲げず、年上の日野にまで臆さずに辛辣な言葉を叩きつけてくる恭子が、眩しくてたまらなかった。

「俺はもう帰るよ。お役に立てなくて悪かった」

 立ち上がった日野を見て、恭子はさすがに言い過ぎたかと、

「今日はありがとう。でも、私にとっては広岡さんもあなたも、大切なお友達よ。また、会いましょう。また、電話させてもらっていいでしょう?」


 日野は黙って席を離れた。恭子の申し出を断れない自分がもどかしかった。








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