この話を読んだとき、社会人経験も浅い僕は、定年退職した人生の先輩である宗像さんに、一つの物事の見え方をご教示頂いた気がした(人生観と言いたいが、少し大げさかもしれないと思ったので、こちらにした)。
作中で、宗像さんの世代は仕事が人生ということが書かれていた。僕たちの世代は、ワークライフバランスという言葉があるように、会社に人生を捧げるのは何か違うという空気の中で育った。そのため僕たちの仕事とプライベートの間には、きっちり線が引かれ、仕事終わりや休日は仕事仲間と何をするでもなく、ただ、自分の趣味に没頭し、自分の世界を楽しんでいる。
宗像さんが定年退職をし、奥様から淀川の散歩を提案されるまでの空白期間、文中には深く掘り下げられてはいないが、筆舌に尽くしがたいものがあったのではないかと推測する。僕は宗像さんではないので完璧に理解できるとは口が裂けても言えないが、僕も空白期間を経験し、何者でもない時期を味わったことがある。この模索の時期というのは、空虚でもあり、大変苦しい。
話は脱線してしまったが、宗像さんが淀川の散歩を始めてから、今まで傍にあったはずの淀川の顔が、段々と見えてくる。
季節が変わるごとに彩りも変わる、多種多様な花々。どこからか聞こえてくる鳥の声。そして、人や生活様式は時代とともに変わりつつも、それでも変わることなくそこにあった淀川沿いの生活。
かぎろひなどの素敵なイベントも淀川では見るが、一番大事だと思ったのは、淀川が中心の生活でありながら、仕事や趣味だけに没頭しているだけでは見えてこないものが、自分の最も身近にあるということだ。
陽の光を活力とし、すれ違うたびに挨拶する仲の淀川沿いの住人や、淀川の主、季節が変わるごとにこちらに見せる顔を変える自然。そして十二月の心の中がしんと静まり返る冷たさの中で見るかぎろひの美しい描写。これがあったから、まだ若い僕にも身近にある美しさに目を向けようという気になった。
満員電車で揺られて自宅と会社を往復するだけの道。休日に趣味のものを買いに行くだけの道。その、いつも通っている道にも、なにか大きなものを中心に、変わらずあり続ける生活があるのだと思える。総評して、この話は人生の回り道をしたくなる作品だった。