第36話 令和元年5月6日(月)「ぬいぐるみ」

 夢を見た。


 子どもの頃の夢。


 だいじにしているぬいぐるみがあった。クマだかイヌだかよく分からない茶色い動物のぬいぐるみ。それがないと眠れないくらいいつも一緒だった。


 私が成長するにつれ、ぬいぐるみはベッドの端に置かれ、ベッドサイドの棚に移り、部屋の片隅の目立たない場所に位置するようになっていった。


 そのぬいぐるみを祖母が捨ててしまった。当時同居していた祖母は粗忽なところがあり、よく母の仕事の資料を捨ててケンカを繰り返していた。母も整理整頓が苦手だったので、どっちもどっちではあったのだが。


 私は祖母に癇癪をおこした。泣き叫び、怒り、近くにあったものを手当たり次第に投げつけた。私の人生の中でこれほど感情をコントロールできなかったことは他にない。「大嫌い」なんて人に言ったことも、それから数日何も食べようとしなかったことも、この時だけだ。


 この、ぬいぐるみを捨てられた夢はこれまでも何度か見た。


 私の幼い頃の記憶の大半はベッドの上の出来事だった。入退院を繰り返し、病いに苛まれ苦しかったことばかりが思い出として残っている。少しずつ体力がつき、動けるようになり、病気以外の記憶も増えていくが、楽しい思い出なんてほんのわずかだ。


 あのぬいぐるみが自分にとってどういう存在だったか、今も言葉で説明できない。当時のぬいぐるみに向けた想いももうはっきりとは分からない。怒ったってぬいぐるみが戻って来る訳でもないのにと今なら思うが、この夢を見ると今もズキズキと心が痛む。




 長かったゴールデンウィークがやっと終わる。学校があろうとなかろうとマイペースの生活を続けているので、特に感慨はない。それでも明日から学校と思うと、ひとりのクラスメイトの顔が浮かぶ。彼女との再会は楽しみだ。


 連休中も仕事仕事だった母が今日は一日家にいる。午前中は執筆の仕事なので自室に籠もり切りだが、午後は買い物に付き合ってくれると言った。急な仕事の連絡が入らないことを祈りながら、私はいつもより少し早く昼食の準備を始めた。買い物の後はそのまま外食になることが多いので、母のために腕を振るえるのは今だけだ。


「良い匂いね」


 デミグラスソースの匂いにつられるように母がキッチンに来た。


「もう仕事済んだの?」


「一区切りってところかな」


 母が冷蔵庫から冷えた牛乳を取り出しグラスに注ぐ。「可恋も飲む」と聞かれたが「私はいい」と断った。


「もうすぐできるから」


 母は料理が得意ではない。大雑把な祖母と比べてもかなり劣る。母も自覚しているので料理は任せきりだ。


 いつもならすぐに食卓へ向かうのに、母は冷蔵庫の前に立ったまま私を見ている。


「可恋は寂しくない?」


「……別に」


 連休中、母の仕事に付き添って旅行に行く案は私が却下した。祖母に大阪から来てもらうという案は、祖母が友だちと韓国旅行に行ってしまい実現しなかった。代わりという訳ではないが母の教え子の大学生がしばらく家に滞在した。挨拶程度で碌に会話をしなかったものの寂しさを紛らわす効果はあったと思う。


「……まったく寂しくないって訳じゃないけど、慣れてるから」


 正直、母や祖母と長時間一緒にいるのも精神的に疲れる。たまに半日一緒くらいで丁度いい。


 母が複雑な思いを窺わせる表情でこちらを見ている。それを誤魔化すように私はニコリと笑った。

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令和な日々・プレストーリー編 ひろ津 @hirotsu_hibi

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