第35話 令和元年5月5日(日)「助け」
「申し訳ありませんでした」
「頭を上げて、村中さん」
一昨日、私が帰宅すると、村中さんが深刻な顔で話がありますと言った。娘の可恋はもう寝ている。私は二人分のコーヒーを淹れると、ダイニングで向き合って座った。彼女の話は、ケガの原因が同棲している彼からの暴力ではなく自分の不注意に依るものだという告白だった。彼は旅行中だと言っていたし、彼のことを語る彼女の態度から疑わしく思っていた。
「あと……風俗で働こうと思っています」
彼女は頭を上げず、私に告げた。声が震えている。私は目の前のコーヒーカップの縁を指でなぞる。
「今、心当たりにルームシェアや割の良いアルバイトの情報を聞いてるの。ギリギリの生活になるでしょうけど、卒業できると思うわ」
「家も大変みたいで。私が稼いで、少しでも助けたいと……」
「あなたのご両親は働けない年齢って訳でもないでしょう?」
私は自分の鞄からクリップで留めた紙の資料を取り出す。
「風俗の件は、私から紹介する訳にはいかないので、詳しい人を教えるわ。NPOで活動している知り合いが何人かいるから。風俗と一口で言っても多種多様なので、よく調べること。欲をかくとその分リスクが大きくて、家にまで迷惑を掛けるかもしれないわ。それはあなたの本意ではないでしょ?」
村中さんが顔を少し上げて「はい」と神妙に頷く。
「あなたが考える以上にリスクはあるわ。止めることはしないけど、とにかく情報収集をしっかりしなさい」
私は手持ちの資料から何枚かを村中さんに差し出す。
「厳しいかもしれないけど、親のことは親に任せなさい。良い歳した大人なのだから。あなたが考えるのは弟さんのことね」
村中さんが顔を上げて、資料を手に取った。
「学業優秀なんでしょう。簡単に諦めず、手を尽くしなさい。進学支援のNPOや弁護士、行政関連の資料です」
「ありがとうございます」
「弟さんのことで私が動くのは筋違いなので、あなたが自分で動きなさい。そうね、まずは彼の高校で支援してくださる先生がいれば協力を仰ぐといいでしょう」
彼女の蒼白だった顔に少し赤みが差す。私は冷めたコーヒーを口に含んだ。
「あの……ひとつお伺いしていいですか?」
「どうぞ」
「もし、もし先生が私の立場だったら、どんな選択をしますか?」
「大学を辞めて、働きます」
村中さんは私が即答したことに驚いていた。
「でも、今までに掛かったお金や努力が無駄になりませんか?」
「無駄になりますね。しかし、状況が変われば仕方ありません。人は過去の投資が無駄になることを恐れ、不利益になると分かっていても更に投資をしてしまうことがあります。状況の変化に応じて最善の選択をするということは難しいものです」
村中さんは真剣な表情で私の言葉に聞き入っている。
「私があなたの立場なら、働きながらなんらかの技術を身に付けます。資格、ですね。理想を言えば、人気はそれほどなく、時代の変化に左右されにくいものが良いと思います。その技術に関して日本で一番を目指します。これまでの人生で身に付けた勉強のノウハウがあれば不可能ではないでしょう。少なくとも日本でトップレベルであれば、生活に困ることはなくなると思います」
もちろん、そんなに容易いことではない。それでも、そういう知人は何人かいる。私は知人の例を挙げ、具体的に説明した。日本は学歴社会ではあるが、学歴がないと生きていけない訳ではない。必要かどうかはどんな人生を目指すか次第だろう。
「家族のためにというあなたの気持ちは立派だと思います。しかし、自己犠牲は時として周囲を不幸にします。弟さんのことも、あなたの意見を押しつけず、ふたりでよく話し合うことが大切でしょう。そして、あなた自身が幸せになることが親への恩返しであり、家族への贈り物だと思いますよ」
今日、村中さんが彼の家に戻る。わずかな手荷物を持ち、「お世話になりました」と玄関で私に頭を下げた。私はお金に追われる前の彼女を知らないが、きっと愛嬌のある良い子だったのだろう。
「私はたいしてお世話してないから、この子に言ってあげて」と横に立つ娘に目をやる。
村中さんはわずかに微笑んで「ありがとう」と可恋に頭を下げた。それを見る可恋は少し照れている。
「何かあったら相談して。ひとりで抱え込まずにね」
「はい」
深くお辞儀して、左手をかばいながら扉を開け出て行った。少しは役に立てたかなと思う。人は窮地に陥ると目の前のことしか見えなくなる。将来のことを考えるなんて贅沢はできない。何かに追い掛けられるように日々を過ごし、その先に何が待ち受けているかなんて考えられなくなる。たとえ大きな崖が口を開けて待っていても、そこに向かってただ走り続けてしまう。
端から見れば、助かる方法はいくらでもありそうなのに見えなくなってしまう。普段優秀な人でもその罠から逃れられない。これまでフィールドワークを通して様々な人からそれを聞いた。助けを求める声を上げられるかどうかが大きな分岐点となる。私自身、娘が生まれてからの数年は絶望の闇の中を彷徨っていたようなものだ。母の助けがなければ、私も娘も生きていなかったかもしれない。
私より背の高くなった可恋は、無言でリビングに戻っていく。
「可恋」
立ち止まり、スッと振り向いた。
「ご苦労様でした」と私は少しふざけた感じで労った。可恋は「別に」と素っ気なく言って歩き出す。ゴールデンウィーク中も母親らしいことは何一つしてあげられなかった。
「頭撫でてあげるから、待って~」
私は娘の背中を追い掛けた。
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