第6話

襖をへだてたむこうに真木が寝ている、そう考えるだけで郁の頬は熱くなった。


 祭りが終わり、名残惜しそうに神社を後にする真木と郁を待ち受けていたのは、真木の車のトラブルだった。


 朝から調子の悪かったという真木の車は、とうとうエンジンがかからなくなってしまった。


 真木は困り果てていたが、祭りの時間が過ぎても一緒に過ごしていたいと願っていた郁は、秘かに喜んだ。郁の願いを桜井神社の神様が叶えてくれたのかもしれない。


 帰る足を失った真木に、祖母は泊まっていけと勧めた。真木と郁は知り合ってそれなりの月日がたっているが、特に親しい友人というわけでもない。まして異性の知り合いの田舎に泊まるとはあつかましすぎるとでもおもったのか、真木ははじめのうちは祖母の誘いを断っていた。だが、結局は祖母の押しに負けた。そして今、耳をそばだてれば寝息が聞こえるほどの近さの場所で、真木は眠っている。


 夜になって風が出てきたのか、時折すきま風が襖をかたりと揺らした。そのたびに、郁は真木がこちら側へやってくるのかと体をかたくした。


 真木の寝ている方に瀬を向けながら、真木が来てくれたらと想像する自分が、郁は滑稽だった。そしてあまりに紳士的すぎる真木にも腹が立った。夜這いをかけろとはいわないが、少しはドキリとすることがあってもいいのではないだろうか。


 毎晩のようにかける電話、たまに会って食事をしてきた。普通なら、付き合っているか、恋愛感情があるような態度があってもいいはずなのに、真木は一向に距離を縮めようとはしない。せいぜい、呼び名が苗字から下の名前に変わったくらいである。


(私に対して恋愛感情がないのかしら……)


 人の気持ちばかりは、考えても仕方ない。


 風は次第に強くなり、雨戸を強く打ちつける音がたった。真木は起きてしまっただろうか。寝息は風の音にかき消されてしまって聞き取れない。


 ふと、人の声が聞こえたような気がして、郁は耳をすませた。聞こえるのは、風の音と雨戸がガタガタと鳴る音だけだと思った次の瞬間、郁の耳にはっきりとした人の声が聞こえた。声は郁を呼んでいた。


郁は今やすっかり目を覚ましていた。


 雨戸は風で鳴っているのではなかった。誰かが雨戸を叩き、郁を呼んでいる。男の声は、郁のもうひとつの名前 ― 桜の精の青年からもらった名前を叫んでいた。いつか迎えにいくから、その名を呼ばれたら返事をしろと言われた名前だ。


 郁は15年前の春を思い出していた。楽しかったあの時間、あの場所に戻れるのだ。だが、あれは一体何処なのか。桜井神社だとばかりおもっていた場所だが、1時間が1年になるなど、違う時間が流れている。現実世界ではないのだ。


 行ってはいけない。郁の本能がそう警告し、布団にくるまって郁は体をかたく小さく丸めた。


 雨戸を叩く音は次第に激しくなっていった。郁たちのいる部屋のすぐ外に何かの気配がある。雨戸をへだてた外に大勢の人の気配がたち、数人の話し声がかすかに聞こえてくる。


 あの青年は、郁のもうひとつの名前を呼び続けた。返事をしてはいけない ― 郁は声をたてまいと両手で口を覆っていた。


 明け方近くになってようやく男たちは諦め、どこかへと姿を消してしまった。


 「おはよう。夕べは風がひどかったけど、よく眠れたかい?」


 祖母には、男たちが雨戸を叩く音は強風が打ちつける音と聞こえたらしい。真木もまたそうおもったらしく


「あの風では、桜は散ってしまったかもしれませんね」


 と言った。桜が散ってしまえば、あの青年たちもどこかへ行ってしまう気がして、郁は散っていればいいと願った。


「あとで神社へ行ってみませんか?」


「え、ええ……」


 気乗りはしなかったが、郁は承知した。







 「ああ、あまり散っていませんね」


 真木の心配を、郁のひそかな願いをよそに、桜は散るどころか今が満開の盛りだった。真木はきれいだなあと花見を楽しむ様子だったが、郁は恐ろしくて桜の花を見上げられなかった。幼い頃、山の満開の桜たちに見とれているうちに郁は、異界へと足を踏み入れてしまった。今も、桜の花の間から青年がこちらを見、あの名前を呼んでいるような気がする。


 郁は真木の横顔を見上げた。柔和な真木の顔が、今日に限って険しい。険しい顔つきの真木は、名前を呼んだら返事をしろと迫った青年にますます似ていた。青年はそれまで優しかったというのに、名前をくれたとたん、急に背筋が寒くなるような冷たい光をその目に湛え始めた。怖いとおもいつつ、郁は青年に惹かれないではいられなかった。ちょうど、その美しさにのみこまれるような息苦しさを感じながらも、見上げないではいられない桜のように……。


(あの人は本当に桜の精だったのかもしれない……)


 その青年に似た真木とは一体何者か、郁は桜のむせかえる香りに、目がくらみそうになった。


「真木さん」


「郁さん」


 口を開いたのはふたり同時だった。


 いつもなら、郁が苛立つほど、主導権をゆずってしまう真木が、今日に限って郁をさえぎって言葉を続けた。


「郁さん、僕はあなたに話さないといけないことがある。僕の家に……というか、正確には僕の母方の家に伝わっている話ですが――」


 一息に言い切ってしまってから、真木は言葉を切った。言おうかどうかの迷いというより、言葉を慎重に選ぼうとする沈黙だった。すうっと深呼吸のあと、真木はゆっくりと口を開いた。


「僕の家には、ある“名前”が伝わっていますその名前を口にしてはいけないし、人に教えてもいけない。一番大事なことは、その名前を呼ぶものがあっても決して返事をしてはいけない、というものです。


 そう言われていたのに、ある日、僕は返事をしてしまった……。


 あれほど母や祖母は名前を呼ばれるのを恐れていたのに、返事をしてしまった。何が起こるんだろうとおもいました。でも、何も起こりませんでした。いや、正確には、まだ起こっていないということかな……。


 僕をその名で呼んだ声は、返事をしたのが男だと知って、こう言いました。『お前は男だから連れていかない。だが、娘ができたらもらう。お前の母とその母とそのまた母とは我らに負う所のあるものだから』と」


 真木は、男たちから昔話を聞かされた。男たちは、真木の遠い祖先にあたる娘のせいで命を落としたと恨み言を言った。


「昨日、僕はあくまでも僕の勝手な推論だと言いましたが、酵母が盗まれたことと、酒造りを教えた一団が皆殺しにあったのは、現実にあったことなんです」


 幼い頃、頭の中で鳴る男の声に悩まされたと真木は告白した。男は、とある名前を呼び続ける。そういう声が聞こえても決して返事をするのではないと祖母や母からきつく言われていたので、真木少年は無視を決め込んでいたが、ある日とうとう返事をしてしまった。


「酒造りを教えてくれた一団のうちのひとりの若者は、村の娘に恋をした。村人たちは、彼の娘への恋心を利用し、娘を若者に近づけて酵母菌に関する秘密を手に入れました。酵母菌の秘密を独占しようと、村人たちは若者たちを殺害し、この地に埋めました。この神社は彼らの怨念封じに建てられたものです」


 郁はおもわず後ずさった。この足の下に、はるか昔に殺された人々が眠っている……。


「僕は、村の娘とその若者との間にできた子の子孫です…」


 風が途絶えると、桜の香りが濃厚になる。郁は立っていられないほどの酩酊を覚えた。


「子孫だと知ったのはつい最近、母から聞きました。遠い祖先が若者を裏切って以来、僕の家に生まれる女は、彼らに連れていかれる運命にありました。だから、村の娘が若者に名乗った偽名を呼ばれても返事をしてはいけないと言われてきたのです。


 僕は、あなたに出会って桜井と僕の里に残る話が似ていることを知って、幼い頃名前を呼ばれて返事をしてしまったことを母に打ち明けました。母は仕方ないと、女にしか伝わっていない話を教えてくれました」


 真木は、郁に顔を近づけた。


 真木が郁の耳に囁いた名前は、郁がかつて与えられたもうひとつの名前だった。


「夕べ、彼らはあなたをむかえにきましたね―」


 もう隠すことはない。どの道、郁は真木には神隠しにあったことがあると打ち明けるつもりでいた。郁はすべてを話した。


「初めて真木さんに会った時、あまりにも彼に似ていたので驚いたんです。神隠しは夢だったのかとおもった時もあったけれど、でも真木さんがあの人にそっくりで、いろいろわからなくなってしまって……。真木さんは殺された若者の子孫だったからなんですね」


 そこにひょっとしたらあの青年がいるのではないかと、郁は空を見上げた。桜の花が覆い尽くす隙間から、真っ青な空がのぞいている。


「娘ができたらもらうといわれて、僕はできるものならやってみろと言ってしまった。結婚なんてしないと思っていたし、そのつもりもなかったから……」


 真木の顔が郁の正面にあった。困ったような、笑っているような妙な表情をしていた。


「でも、郁さん、あなたに出会ってしまった ―」


 似ている。でも違う人だ。真木の目は内側から生命力にあふれて光り輝いているが、あの青年の目はガラス玉のように外の光を反射しているだけだった。


「女の子が生まれるだろうけど、一緒に守っていってくれませんか」


 真木に似た少女はさぞ美しいだろう。郁は遠い未来を思い描いた。ふと少女の笑い声が聞こえたかと思ったのは、桜の花をわたるそよ風だった。


「あの、その、プロポーズのつもりなんだけど……」


 郁はそっと真木の手を握った。握り返してきた真木の手は大きく、郁の手をしっかりと包み込んでいた。


「きれい……」


 郁は桜を見上げた。そら恐ろしく、それでいて美しい桜にすいこまれそうになりながらも、郁の目は、重なりあう花びらの隙間にのぞく青空を見つめていた。


 青く澄んだ春の空がそこにあった ―

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花の散るらむ あじろ けい @ajiro_kei

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