第5話

 真木との待ち合わせ場所、桜井神社への道を、郁はゆっくりと歩いた。途中で何度も時計を確認し、待ち合わせの時間を少し過ぎたころに着くように歩調を整えた。早すぎれば、心待ちしていたのかと真木に思われるだろうし、それは女心として何だか悔しかった。かといって、遅れて時間にルーズな女だと思われるのも避けたかった。


 靴は歩きやすいスニーカーを選んだ。本当はヒールのあるかわいい靴を履きたいところだが、山道には不向きだ。せめてもとスニーカーに、スカートは動きづらいのでデニムのパンツに、それでもトップスはフェミニンなものを選んだ。


 祭りはすでに始まっていた。待っているはずの真木の姿は、人々の中に見当たらない。桜井神社には来たことがないと言っていたから道にでも迷っているのだろう。


 神社のシンボルともいえる大木の桜のすぐ下には、高床の舞台が設置されていた。舞台上には緋毛氈が敷かれ、鎮座する5人の男性の間を、ひとりの若い女性が徳利を手にめぐっている。5人の男性は桜の精らしい淡い桃色の仮衣姿だ。20代、30代、40代、50代、60代とそれぞれの年代を代表する男性たちは、村の娘役の女性に、さかんに酒をすすめられている。酒の虫が入った壷を手にした男性は女性の酒を断ってはならないので、彼らは互いに壷を押し付けあう。その様子がおかしいのと、次第に酔っていくさまが滑稽なのとで、周囲からは時々笑い声があがった。


酒を受ける杯は顔ほどの大きさがある。朱漆しゅうるしの杯に、女性はなみなみと酒をそそぎ、壷をかたわらにして酒を断れない男性はごくごくと飲み干していく。飲みっぷりがいいと周囲は感嘆の声をあげ、飲みきれないでいると「しっかりしろ」と野次が飛んだ。桜の精役の男性には、酒豪や酒好きな人間が名乗りをあげるが、飲めや飲めやの女性の勧めと、杯の尋常でない大きさに、すでにひとりの男性が酔いつぶれてしまっていた。


「ああ、もう始まっているんですね」


 息を切らした真木が、郁の背後に立っていた。


 真木が上京してレストランで食事をした時以来、顔をみるのは久しぶりだった。毎日のように電話で声を聞いてきた真木の顔を見て、郁の心臓は飛び跳ねた。


「すいません、車の調子が何だかよくなくて。たいぶお待たせしましたか?」


「いいえ」


 郁は首を横にふった。神社というのは不思議な場所で、時間がゆっくり流れているような気がする。神隠しにあった時も、1時間ほどだとおもった時間は、実は1年という月日だった。


「驚いたなあ。桜の木があって、井戸があって、本当に僕の家の庭にそっくりだ」


 お社のある場所に真木の古民家を置けば、桜井神社はそっくりそのまま真木の家の庭になる。郁から聞かされていたとはいえ、実際自分の目で確かめてみて、真木は息をのんで神社を見渡していた。


「郁さんが初めてうちに来た時、驚いていたのも無理ないですね」


「ええ。私も今日あらためて神社をみて、本当にそっくりだと思いました」


「地理的に近いという以上の何かがあるんでしょうね。僕の村の話と、桜井のこの祭りに共通する桜の精と村の娘……」


 舞台ではとうとう三人目の男性が酔いつぶれて寝転んでしまった。まだまだと酒を飲み続けているのは比較的若い男性たちで、その二人の間には、村の娘が狙う酒の虫が入った壷が置かれてある。


「あれが酒の虫、つまり酵母菌の入った壷というわけですね」


 真木の目は、赤茶色の信楽焼の壷に注がれていた。


「酒を造るものにとって、酵母菌は命にも等しい大事なものなんです」


 舞台上では、村の娘役の女性が、酔っ払った男性たちの隙をついて壷を奪おうとしていた。あと少しで、というところで、酔っ払って寝ていたはずの男が目を覚まし、壷を着物の袂へ引き寄せてしまうと、観客からは落胆のため息と、壷をかかえて寝てしまった男性への笑いが沸き起こった。


「郁さん、僕、思うんです。これはおとぎ話のようなつくり話ではなくて、本当にあったことなんじゃないかって」


「本当にあったこと?」


 酒の精が実在したとでも言いたいのだろうかと、郁は聞き返した。


「酒の虫、桜の花の虫は、酵母菌のことで間違いないとおもいます。昔の人には、酵母菌は虫におもえたでしょうから。


 酒の味を決めるのは酵母菌です。だから、酒造りに関わる人間にとって酵母は大事なものです。桜の精が恋人に漏らした秘密とは、花酵母を用いての酒造りでしょう。酒の虫、つまり酵母菌を盗もうとする村の娘とは、酒造りの秘密を盗もうとした態度を示しているのではないでしょうか。


 ―僕は、酵母は盗まれたんだと考えています」


 真木はあくまでも自分の勝手な推論だと断り、先を続けた。


「酒の精とは、酒造りのプロ、いまでいう杜氏のような人たちでしょう。彼らは特殊な酵母を用いて酒を造った。この酵母に関する知識は外には決して漏らさない。酒の味を決める酵母だから、いわば企業秘密のようなものです。そうして彼らは自分たちの地位を守った。


 酒造りは昔から盛んに行われてきましたが、麹を用いた現代に近い形での製造方法は専門家によって受け継がれていました。昔の日本は貧しかった。米作りだけの村に酒造りを教え、潤いをもたらしたのは、そういった酒造りの専門知識や技術をもった一団の人々だったでしょう。


 ここも、僕の里の奈良井も、そういった人々がいて、村人に酒造りを教えたんだとおもいます」


 この手の話なら、日本中に散らばっていると真木は付け加えた。


「ここからが問題です。彼らは酒造りは教えるが、味の決め手となる酵母の秘密までは教えない。貧しい村人たちは酒造りに頼らないと生きていけないが、酒造りの要となる酵母の秘密は杜氏ににぎられて思うように酒が造れない―」


 桜の精が恋人に打ち明けた秘密、村の娘が必死に奪おうとする壷 ― 郁は真木の視線の先にある壷を見た。壷を抱えているのは、いまやひとりきり、一番若い男性だった。男性がまたぐらに抱えている壷をどうにか奪おうとする村娘役の女性の仕草は、笑い声を誘った。だが、郁は笑えなかった。


「村人たちは、酵母を奪った ― 僕はそう考えています」


「酒造りを教えた人たちは……」


「殺された……僕はそう思うのですが、考えすぎでしょうか」


 祭りでは、娘が壷を奪えば豊穣の年になると考えられているため、男たちは最後には娘役の女性に壷を取られる芝居をする。豊作祈願の祭りなのだが、祭りの由縁ともいえる民間伝承には続きの話があった。


 娘が壷を奪うところまでは同じである。その後、壷を奪って逃げた娘を桜の精たちは追うが、酔っ払って足取りつかず、木に戻ってしまったという結末だ。真木の里、奈良井では、桜の精は天に帰ったと言われている。


 “木に戻る”“天に帰る”、どちらも人の姿を失い、この世を離れていったことを暗示している。それはつまり、“死んだ”ということを意味してはいないか。


 郁は真木の横顔を見上げた。整った目鼻立ちは、神隠しのときの青年にそっくりだ。郁はずっと青年を桜の精だと思ってきたが、真木の推測があたっているとすれば、彼は殺された酒造りの一団たちの霊だったのだろうか。そうだとすれば、青年にそっくりな真木は一体何者なのか。


 郁は神隠しにあったことを真木にすっかり打ち明けてしまおうかと思った。真木なら郁の言うがままを信じてくれるような気がする。だが、喉まで出かけた言葉を郁はそっと飲み込んでしまった。

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