第4話

 桜の香りのする日本酒、“桜香”で知り合ってから、郁と真木は、ケータイの番号やメルアドを交換し、ひんぱんに連絡をとりあうようになった。


 真木は、自分が偶然にも復活させた“桜花”を造っていた郁の母方の田舎について知りたいと言い、自分でもいろいろ調べては逐一郁に報告した。


 真木によれば、桜井では、戦前まで酒造りが行われていた。幻の銘酒といわれる“桜花”は、桜井でだけ造られる酒で、桜の芳しい香りと、甘さと辛さの絶妙なバランスとは他には真似できないものであったらしい。ゆえに、“桜花”といえば、桜井、桜井といえば“桜花”と言われ、銘酒として尊重されてきた。


 桜井のあたりは、いい水がでる。水がよければいい米がとれる。自然といい酒ができるというわけで、昔から醸造業が盛んだった。


 米を主原料とする日本酒造りは、稲作の伝播とともに国内に浸透していった。酒造りに欠かせないうまい米と良質の水が出る地域を中心に、醸造業は広まった。醸造業が隆盛をみせたのは、鎌倉時代から室町にかけてで、おりからの経済発展の追い風を受け、経済価値の高い日本酒造りが盛んになった。桜井での酒造りも、起源をその時代までさかのぼる。以来、伝統として続けられてきた酒造りだが、第二次世界大戦直前になって、ふつりと絶えた。


 原因はひとつに絞れるものではなく、酒造り以外でも生活の糧を得られる機会が増えたことなどがあげられるが、決定的だったのは、主原料である米の不作だろう。ある時期、雨が少ない年が続き、米がとれなくなった。水と米を失い、酒造りの村は転換を迫られてしまった。生活のため、酒造りをやめるものが続出し、人は仕事を求め、都市部へと流出してしまった。人がいなくなり、技術が伝えられず、桜井での酒造りは途絶えてしまった。


 神隠しにあって以来、桜井の土地を忌まわしいもののようにして避けてきたとはいえ、郁は自分の祖先へとつながる人たちの生きた場所をあまりに知らなさすぎたことに驚き、真木によってもたらされる情報を心待ちにした。


 たまに真木が上京すると、報告を兼ねてふたりで会った。話題はもっぱら桜井の話が中心で色っぽいところはないのだが、真木が上京すると連絡してきた時には郁は、いつもより念入りに化粧をし、着ていく服も慎重に選んだ。


 電話かメールですむようなことを、わざわざ上京して報告してくれると、自分に会いたかったのではないかとつい郁は期待してしまうのだが、真木は初対面のときからの礼儀正しい態度を崩さず、好意をほのめかすような言葉もなかった。


 真木のあまりに紳士的な態度をさびしいとおもいつつ、郁は毎月のように繰り返される“報告会”という名のデートを楽しんだ。


  ある日、郁は、祖母から興味深い話を知らされた。


 真木に付き合って桜井について調べ始めた郁は、両親には内緒で祖母に連絡をとり、桜井に関する話、特に民間伝承のようなものを教えてくれないかと頼んだ。本音は桜井神社について知りたかったのだが、郁が神隠しにあって以来、両親はもちろん、祖母も桜井神社については語りたがらない。地域の昔話などからなら、桜の精とおぼしき青年につながる何かがわかるかもしれない、郁はそう考えていた。


 祖母は、地域版の新聞記事の切り抜きを送ってきた。記事には、戦前にとりやめられていた酒虫祭がこの春、復活することになったとあった。


 桜の神に扮した5人の男たちに、若い娘がしきりと酒を勧める。男たちは酒の虫の入った壷を守っており、娘は男たちを酔わせてその壷を奪い取ろうとする。娘は壷をもっている男にだけしきりと酒をすすめるので、男たちは壷を互いにおしつけあう。男たちが全員酔いつぶれたところで娘は壷を奪う。娘役の女性が壷を奪いとることができれば、その年は豊作となるという、豊穣を祈る祭りだった。


 記事を読んだ郁は、すぐさま真木に電話をかけた。メールですませてもいい内容だったが、口で説明したほうがわかりやすいしと言い訳をし、ケータイを鳴らした。


「郁さん」


 ケータイごしに聞きなれた声が郁の耳をくすぐった。耳障りのいい真木の声を耳のすぐそばで聞くとドキリとする。この頃には、真木は郁をはじめのような佐倉さんという他人行儀な呼び方ではなく、親しげに名前で呼ぶようになっていた。


「今、話してもいいですか?」


「ええ」


 向こう側で、書類を片付けるような乾いた音がした。


 この時間なら、夕食を終え、自室で調べものをしていると、この数か月、電話をかけ続けてきた郁は知っている。夕食の邪魔をせず、寝る前の時間を狙って郁は電話をし、真木からの電話がかかってくるのも同じ時間帯だった。


 週末でも同じ時間に電話に出ることから、郁は真木には恋人のような存在の女性はいないと確信していた。電話する方の郁も、週末はひとりで過ごしているとアピールしているようなもので、それとなく真木に、恋人がいないことが伝わっていれば、と郁は願っていた。


「田舎の祖母が新聞の切り抜きを送ってきてくれたんですけど」


 郁は切り抜き記事の内容をかいつまんで話した。


「桜井の酒虫祭ですね。僕も新聞で読みました」


 真木にそう言われて郁ははっとした。祖母の田舎と真木の里はそう離れていない。同じ地域版の新聞だろうから、祭りについて真木が知っていて当然だった。


「ちょうど、僕の方から郁さんに電話しようと思っていたところだったんです」


 行動が一致するのは気持ちが重なっているからだと、郁の気持ちが躍った。


「酒の精と若い娘、似たような話が僕の里にも伝わっているんです」


 真木は、桜井とともに自分の里についてもいろいろと調べてまわっていた。そして、N県の郷土資料館で、たまたま同じ出身地だという老人から、村での酒造りの起源にまつわる興味深い話を聞かされた。


 まだ酒造りを始める前の奈良井は、貧しい村だった。あるとき、そんな貧しい村を救おうと、山の桜の精は村人たちに酒造りを教える。桜の香りのするうまい酒だと、村の酒は評判になり、たちまち村は潤った。隆盛を極める酒造りだったが、桜の香りを出す方法は桜の精しか知らない秘密だった。村人たちはどうにかその秘密を知ろうとする。


 桜の精は、村の美しい娘に恋をしていた。ある日、桜の精はこの娘に、こっそり桜の酒の秘密を打ち明ける。桜の精は、桜の花の虫を使っていたのだ。


「桜の花の“虫”というのはおそらく酵母のことではないかと。虫、つまり酵母菌をつかって、桜の香りのする酒を造りだしていた―。


 誰にも言ってはいけないといわれたのに、村の娘は、虫の秘密をうっかり村人に話してしまう。怒った桜の精は天へと帰ってしまう…」


「桜の精と若い娘…そして、酒の虫と、桜の花の虫…。確かに似ていますね」


「ええ。桜井も僕の村も、どちらも酒造りが盛んだった場所だけれど、似すぎていると思うんです」


 距離的に近いというだけで片付けられる類似性だろうかと、郁も不思議に思った。現代なら車で数時間という距離だが、交通手段の乏しかった昔ではその何倍もの距離感であったはずだ。村同士の交流が盛んだったともおもえず、ひとつの里に伝わる話が、たやすく別の場所にも伝わるとは思えない。だが、誰かが伝えたのだとすれば話は別だ。


「…私、田舎へ帰ってみようかしら」


 祭りは二週間後に行われる予定だった。神隠しの一件以来、避けてきた母の田舎に、郁は足をむけてみようという気になった。桜井神社で行われる桜の精の祭りには、神隠しにあったときに出会ったあの青年の正体を知る手がかりがあるかもしれない。そして、青年と面差しの似ている真木の謎を解く鍵もあるいは……。


「それなら、僕もご一緒していいですか」


 何と返事したものかと、郁は言葉に詰まった。


 郁は祖母の家に泊めてもらうつもりでいる。真木を連れていったら何を勘ぐられるかわかったものではない。田舎の人間の目はするどく、耳はさといのだ。


「あ、あの、そのお祭りに僕も行ってみますので、よかったらそこで……」


 郁の沈黙に、真木は自分が何を言ってしまったのか気付いたようで、口調が慌てていた。


 真木は、郁の祖母の田舎から車で数時間の場所に住んでいる。よく考えれば、一緒に郁の田舎へ行こうという意味ではなく、祭りに行きましょうと言っているだけだとわかるのだが、気持ちがうわずっている郁は自分勝手に誤解しただけだった。その誤解を解いてしまった真木を、郁は少し残念におもった。


(でも、デートには違いないわね)


 何を着ていこう ― 郁の意識は二週間後に飛んでいた。

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