第3話

 銘酒、“桜花”を復活させ、“桜香”を造った青年の名は、真木馨といった。郁は真木青年の住む里を訪ねてみることにした。


 驚いたことに、真木馨の住んでいる村里、奈良井は、郁の母方の田舎からそう離れてはいなかった。


 村は、うろおぼえの祖父母の田舎に似ていた。車なら2時間ほどという距離の近さと、山里はみな同じようなものだからどこか似通うのだろう。周囲を緑の山々に囲まれ、セミの鳴き声だけがかしましかった。


 教えられた住所の民家の前で、郁は足をとめた。来る途中の民家にも井戸はあったが、真木が住んでいるという民家にも井戸があった。そのかたわらには、桜の木とおぼしき木が植えられている。夏とあって、緑の葉を風にそよがせ、目にも涼やかだ。


 桜の木とかたわらの井戸。桜井神社と同じ光景が、あの酒を造った真木馨の住むという民家にある。


 郁は、恐る恐る、井戸で水を汲んでいる青年のもとに近寄っていった。


「あの…」


「はい?」


 顔をあげて汗をぬぐった青年と、まともに目をあわせる格好になった郁は、それきり何も言えなくなってしまった。


 真木馨は、郁にもうひとつの名前をくれた桜の精の青年にそっくりだった。


「あのう、何か?」


 初対面だというのに穴のあくほど自分の顔をみている郁を、真木は不愉快におもっただろう。


「いえ、あの、ええっと」


 郁は慌てて名刺を取り出し、“桜香”のことで訪ねてきたと言った。


「日本酒、お好きなんですか?」


 見れば見るほど、真木は桜の精にうりふたつだった。一重瞼のおおきな瞳、涼しげな目元。肌理細やかな肌は、桜の花びらを思わせるほどに透きとおっている。


「たしなむほどですけど」


 大酒飲みと思われたくなくて郁は、罪のない嘘をついた。


「“桜香”のこと、どちらで知ったんですか?」


「行きつけの酒屋のご主人が教えてくれて」


 言ってしまってから、郁はしまったと後悔した。行きつけの酒屋があるとは、真木には相当酒好きな女だと思われてしまっただろう。


「名前のとおり、桜の香りがするおいしいお酒ですよね」


「桜の花だってよくわかりましたね。たいていの人は、甘いフローラルな香りとまではわかりますけど、桜の花と特定できる人は少ないんですよ」


 日本酒は米を発酵させて造る酒である。菌が米を“食べて”エネルギーを得る過程で生成されるアルコールが日本酒というわけなのだが、主原料となる米の主な成分はでんぷんであり、そのままでは菌、つまり酵母が米を“食べる”ことができない。酵母はブドウ糖でなければ“食べる”ことができないのだ。酵母菌が“食べやすい”ように、でんぷんをブドウ糖に変えてあげなければならないのだが、米のでんぷんをブドウ糖に変える役割を果たしているのが、麹こうじである。


 麹は蒸した米にこうじ菌とよばれる菌をまいて作られる。乱暴な言い方をすれば、カビの生えた米なのだが、この麹の働きによって“食べやすく”なった米をうまい、うまいと酵母が“食べ”て、おいしい酒ができる。酵母には多くの種類があり、その多様性が酒の味や香りを決めると言ってもいい。花酵母と呼ばれる、花から採取した菌を酵母として用いることもあり、“桜香”は、桜の花酵母をつかっているのだと真木は説明した。


「こんな話、おもしろくないですよね」


「いえ、とても興味深いです」


 あの不思議な甘い飲み物が日本酒だったと知ってから、自分でも日本酒についていろいろと調べてきた郁は、真木の話に引き込まれていった。


「花は、この桜の花ですか?」


 郁は生い茂る井戸端の木を見上げた。


「そうです。ずいぶんと古い木ですが、毎年きれいに咲いてくれます。他の桜でも試してみたんですが、この桜でないとあの味が出せなくて……」


 大木の桜のかたわらに井戸のある景色は、郁が神隠しにあった桜井神社を思い起こさせる。神隠しにあっている間、飲んだものと同じ味の酒を造る青年、その面差しは桜の精だとおもってきたあの青年に似通っている。


 ふと、郁は何もかもを打ち明けてみたくなった。


 親にも誰にも、神隠しにあっていた間の出来事は話していない。神とおぼしき桜の精たちとの楽しい一時を話したとしても、誰も信じないだろう。だが、あの青年に似た真木なら信じてくれるかもしれない。それどころか、ひょっとしたら「むかえにいく」と言った青年と真木とは何か関係があるかもしれない。


「私の母方の田舎に、こことよく似た景色があるんです」


「田舎はどこも似たようなものですよ」


「そうですが、似ているというより、まったく同じと言っていいかもしれません」


「そうなんですか。田舎はどちらですか?」


「桜井というところです。ここから車で2時間ほどいったところで、桜井神社という神社があって、名前のとおり、大きな桜の木と井戸があるんです」


 真木があのときの青年なら、桜井神社という名前に何か反応を示すだろうかと郁は真木の様子をうかがった。


「桜井…もしかして、幻の銘酒といわれた“桜花”を造っていた?」


「ええ、その桜井です。桜井でお酒を造っていたことは、私は知らなかったんですが」


「僕の“桜香”は、桜井の“桜花”と同じ味がするそうですね」


「“桜花”を復活させようとしたのではないんですか?」


「実を言うと、僕は“桜花”を復活させようとしたわけではなくて、たまたま“桜花”と同じ味の酒ができてしまっただけなんです」


 真木の村では、昔から醸造が盛んだった。真木の家も例外ではなく、昔から酒造りに関わっている。ある日、蔵の整理をしていて真木は、古い資料をみつけた。そこには、桜の花酵母をつかった酒造りの工程が記されてあった。興味をもった真木が試してみたところ、たまたま“桜花”と同じ味の酒が出来てしまい、巷では真木は往年の銘酒を復活させたことになってしまった。


「“桜花”のことは後になって知りました。僕の“桜香”と桜井の“桜花”が同じ味で、その“桜花”を造っていた桜井の神社とうちの庭が似ているなんて、おもしろい偶然ですね」


 真木はしきりとおもしろいと口の中で繰り返していた。偶然にしてはパズルのピースがそろいすぎている。郁はそっと真木の横顔をうかがった。もうひとつの偶然を、郁は話していない。真木は桜の精の青年にそっくりなのだが、郁はそのことには触れないでおいた。

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