第7話 名前のないもの(下)

 残されたのが女同士で、良かったと思う。父や、直哉とミチコちゃんには、申し訳ない考え方だけど。


 女同士なら、仲間になれる。

 親子の枠とは別に、仲間という枠で向き合える。



 私は、直哉の髪を切っていた。


 私が美容師になろうと思ったのは、みなみ屋の屋上で直哉の髪を切るようになってからだ。私は、中学生の頃から、友達に頼まれて髪を切ったり、染めたりするようになった。

 それを聞いた直哉が散髪を依頼してきてから、私は時々こうして直哉の髪を切る。他の友達は自然とこの習慣から離れていったが、直哉だけは未だに、私の実験台兼お客だ。


 みなみ屋の屋上は、昼間のある時間帯、みなみ屋自身の看板で程よい日影が出来る。風通しがよく、夏でも比較的涼しい。そこからは、近くを流れる川や電車、「旅館 名残雪」の看板が見える。


 そんな特等席に、私は従業員室から借りてきた全身鏡と椅子を持ってくる。直哉は、散髪中に流すCDと、小さいが充分聞こえるCDプレイヤーを持ってくる。そうして、即席の美容院を作る。


「俺、母親に泣かれた。」


 襟足の長さを考えていると、直哉がいきなり言った。

 私はてっきり、私達のことを泣かれたのかと狼狽した。それを鏡越しに見た直哉は、そうじゃないよ、と落ち着かせてくれた。むしろ、俺達がヤったことは、何故か喜んでた。そう付け加えて、直哉は話し始めた。


「一昨日ぐらいかな。家帰ったら、ハツエさんとうちの母親が、居間で話してたのよ。旅館会議だと思って通り過ぎようとしたら、母親、突然ハツエさんに抱きついて、泣き出して。俺、動けなかった。酷いんだもん、泣き方が。」


 直哉の髪を切りながら、私はその姿を想像した。私の母に抱きついて泣くミチコちゃん。そして、それを見ている直哉。


「ハツエさんに、見るなって目で睨まれたんだけど、そんなの見たら、何で泣いてるのか聞いてもいいだろって思って、そこにいたのね、俺。」


 直哉を見る、母の顔。


「そしたら、母親が言うんだ。男に振られたって。連れ込み旅館経営のバツイチなんかとは付き合えない、って。」


 その言葉に、私の腹の底がかぁっと熱くなった。嫌な熱さだ。


「それ聞いて、俺、キレちゃって。」


 蝉の鳴き声と直哉の好きなロックが、重なって喚く。


「で、その男殴りに行こうとしたのね。」


 私は、鏡越しに直哉を見た。直哉は私ではなく、そこに映る空を眺めているように思えた。


「そしたら、泣き声がぴたっと止んで、母親がハツエさんの肩越しにこっち見てさ。まぁ、ハツエさんはいつも通り、キレてる俺をなだめてくれた。」


 なだめる母の様子も見える。直ちゃん、これは直ちゃんじゃなく、ミチコの問題なのよ。許せないって理由で彼を殴っていいのは、直ちゃんじゃないよ、わかるでしょ。多分、私の母は、そんな言葉で直哉を引き止めたんだろう。


「俺の母親、ハツエさんを乗り越えて、出て行こうとする俺の足にしがみついてきたんだよ。びっくりした。で、また大泣きし始めて。」

「ミチコちゃん、何て言ってたの?」


 私が聞くと、直哉は目を伏せ、口を少し緩めた。


「“これ以上嫌われたくないから、もう止めて。”」


 私は、ハサミを持ったまま考え込んだ。それで浮かんだ結論が、直哉はミチコちゃんの事を思いすぎてしまうんだ、っていうことだ。


 だけど、次に直哉が言った気持ちは、よくわかる。


「でもさ、何より、俺まで否定された感じがして。すげぇムカついた。」

 よくわかる。私は、深くうなずいた。

「そりゃ、バツイチとか未亡人が連れ込み経営って、設定だけで言ったら、AVみたいだよ?」


 一瞬、直哉の声が止まった。音楽と、車の音と、蝉の声だけが耳から頭に潜り込んでいく。


「でも、俺達はその設定の中で生まれてきて、生きてるんだから。」


 ──軽蔑してんじゃねえよ。

 心の中で私は続けた。風が吹いて、足元に落ちた直哉の髪が、散っていく。


 私の母が同じ目に合ったら、私はハラワタを煮えくり返すだろう。それでも、直哉みたいに、顔も名前も住所も知らない男を殴りに行きはしない。

 殴りに行けば?と促しはしそうだけど。


「でも、今はもう、立ち直っててさ。旅館会議も前よりはかどるらしいよ。」

「女は立ち直れば早いからね。」


 私は笑った。


「早いよなー、本当。」


 直哉は、不思議そうだった。


 だから、女同士は、仲間になれる。



 裏を返して言えば、男女は、仲間になれないのだろうか。男女で同じようにいるためには、性欲で繋ぎとめるしかないんだろうか。

 男女がそれ以外でずっと繋がっているのは、不可能なんだろうか。


 私は直哉と、直哉は私と、どんなふうに繋がっていたいんだろう。

 私の母とミチコちゃんは、何で繋がっているんだろう。

 私の母とみなみ屋は、ミチコちゃんと名残雪は、何で。


 私と直哉は、どうしたらこのままでいられるのだろう。


 ふと目を上げると、夏の風と、太陽の眩しさに囲まれた。驚いて、私は直哉の肩に少し強く手を置いた。


「なに、酔った?」


 笑って、直哉が私を見上げている。


「酔ってない。」

「あぁ、そう。」

「とりあえず、ここまで。」


 いつもの流れで、前髪以外を切り終えると、私達は屋上の掃除をした。髪を集め、袋に詰め、全身鏡と椅子を従業員室に返した。従業員室にいたパートのおばさんに礼を言うと、彼女はタバコの煙と共に手を差し出して、言った。


「ごゆっくり。」


 私の手のひらで黙るルームキーは、当然のようにジーンズのポケットに潜り込んだ。

 戻ると、直哉はCDプレイヤーの近くで音楽を聴いていた。横に座って向かい合い、直哉の前髪を切っていく。コンクリートが、ひんやりとしている。


「上手いことして。」


 それっきり目を閉じて黙っている直哉を眺めると、ラブホテルのベッドが脳裏を過ぎった。隣り合って寝転んだ時の、直哉の横顔だ。ふいに、ポケットの中でルームキーが存在感を増す。


「できたよ」

 声をかけると、直哉が目を開けた。

「どうなった?」


 それから、視線を上にやりながら前髪を触る。見たい?と聞くと、直哉は鈍く、そりゃあ、と答えた。


「見てくれば?」

 そう言ってルームキーを見せると、直哉は笑った。

「なんだそりゃ。」

「さっきもらった。」


 返事をしながらCDを止めると、直哉は立ち上がった。


「これ、どこの部屋?」

「すぐ下。」



 洗面所で直哉の髪を洗い、ブローした。指先に当たる髪は、昔と何も変わらない。変わるのは、髪形ぐらいだ。


「この部屋さぁ。」


 ドライヤーの音の向こうから、椅子に座った直哉は声を大きくして言う。


「何組ぐらい来たんだろうなぁ。」


 知るわけが無いので、適当に答えた。

「相当じゃん?」


 答えてから、ふと思う。


 その相当な数の人達は、何で繋がっていたんだろうか。

 私と直哉の間には、そんなものあるんだろうか。

 あるとしたら、その名前は何と言うのだろう。


 直哉はそれを、知っているんだろうか。


「ねえ。」

「ん?」


 そういうんじゃないって言うんだろうか。それとも、強く抱きしめてくるんだろうか。

 私はドライヤーを切った。


「どうしたよ?」


 直哉の答えを当てられるほど、私は直哉を知らない。


「なんでもない」


 知ってると思って、油断したくない。一瞬丸くなった直哉の目が、私を柔らかく見上げた。


「ヤろっか。」

 直哉の顔を覗き込んで、私は笑った。

「なにそれ。」


 直哉も笑って、私を引き寄せた。私は直哉の膝に乗り、直哉の顔に付いた髪の毛を掃って、キスをする。顔が離れて、直哉が見える。


「何それって、単純に俺は。」


 直哉はいつも通りに答えた。


「離したくねぇなって、思っただけだよ。」


 もう一回キスをする。笑いが漏れて、二人で笑う。

 何笑ってんの、と私が笑う。ここじゃやりにくいな、と直哉も笑う。

 そうして段々、縺れ合っていく。


 混ざり合うことのない境界線が、それでもいいと叫びながら揺れ動く。


 多分、この感情に名前がつくことはない。私と直哉の関係に、華やかな名前がつくこともない。

 だけど、私にはわかる。多分、直哉もそう思っている。



 私たちには、きっと、これが必要なんだろう。


(終)

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旅館みなみ屋 矢向 亜紀 @Aki_Yamukai

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