クマザワベーカリーとニット帽の僕

時任西瓜

三周年

 ドアに掛かったオープンの看板を、ひっくり返してクローズにする。店先のチェーンを閉めたことを確認してから、木製の可愛らしいドアを引けば、鼻腔をくすぐるのは香ばしいパンの香りだ。

「クマ店長、表閉めてきました」

 ここは『クマザワベーカリー』、店長のクマさん(名字が熊澤くまざわさんだからだ、店名も同様である)が奥さんと営む、地域密着、街の小さなパン屋さんだ。

クマ店長がその全体的に大柄な体をくるりと、狭い店内でやや窮屈そうにしながらも、僕の方に向けて、ぷくぷくした頬っぺたを口角と一緒に上げた笑顔を向けてくる。

「お疲れ様、今日はもう上がっていいよ」

「えっ、いいんですか」

「忙しかったもの、もちろんよ」

 厨房から顔を覗かせ、悪戯っ子のような笑顔で言うのはマキさん。本名は熊澤真紀まきさんといい、クマ店長の奥さん、クマザワベーカリーのもう一人の経営者である。

 それじゃあ、お言葉に甘えて、と二人に会釈をしつつ、厨房を通り抜けた先の休憩室で着替えを済ませる。制服を脱ぐと、ひやりとした空気が肌を撫でた、春は近づいてきたが、まだ寒さは残っている、ましてや僕の通勤手段は自転車だ。厚手のセーターの上にダウンを着込み、ニット帽を被る。制服やら何やらを詰め込んだいつものリュックサックを背負って、僕はもう一度挨拶をしようと厨房を覗いた。

「マキさん」

「お、今日もニット帽かあ」

 僕の呼びかけで振り向いたマキさんは、明日の仕込みなのだろう、パンを捏ねる手を止め、その細腕で僕の頭を指差す。僕は、まだ寒いですから、と返した。

大柄なクマ店長と、細身のマキさん、一見、それぞれが厨房担当と接客担当のように思えるが、実際に厨房を取り仕切るのは海外で修行もしてきた実力者のマキさんで、クマ店長はその穏やかな物腰で、接客や僕のようなバイトの管理をしている。

「でも、いつもとなんか違うよね」

「今日は赤なんですよ」

 流石マキさん、その観察眼は伊達じゃない。そう、いつもは黒やグレーなど、大人しい色ばかりの僕が、今日ばかりは季節外れのサンタクロースのような真っ赤なニット帽をチョイスしたのだ、通勤中はちょっと照れ臭かったが。

「珍しいね、何で?」

「そりゃ、おめでたい日ですから」

 ちょっとの含みを持たせて言うと、一瞬ぽかんとしてから、気がついたのか、そっかそっか、と嬉しそうにけらけら笑うマキさん、相変わらず笑いのツボが浅い人だ、その様子がおかしくて、僕もつられて笑ってしまう。

 今日はクマザワベーカリー開店からちょうど三年、三周年のおめでたい日なのだ。営業中はお祝いをしにきた常連さんや、前から気になっていたの、と話しかけてくれる新規のお客さんまで、沢山の人々で店内は一日中大賑わいだった。

クマ店長とマキさんはもちろん、僕も休む暇もなく働き続け、閉店時間を迎えたので、早上がりを勧めてくれたのだ。

 とどまることを知らないマキさんの笑い声を聞きつけて、パンを陳列していたプレートを抱えたクマ店長がやってくる。

「マキ、どうかした?」

「ね、田中くんのニット帽みてよ」

「あれっ、今日は随分派手だね」

「ふふ、おめでたい日だから、赤にしたんだって」

 夫婦らしい掛け合いの後、再びツボに入ったのだろう、笑いをこらえきれないという様子のマキさん、クマ店長も大笑いしてくれるかな、とちょっと期待していたのだが、いつもと違い、反応は薄かった。

「流石に今日は余らなかったね、田中くんのお持ち帰り分」

 空っぽのトレーを重ね置き、クマ店長は寂しげに言った。いつもは帰り際、余ったパンを譲ってもらっている、朝から閉店まで働く僕だけの特権だ、まさか、僕に渡すパンがないから、さっきも反応が薄かったのだろうか。

「そんな、売れ残らないのが一番ですから」

「はは、それもそうか」

 快活に笑う店長。そうだ、クマザワベーカリーはこうでなくちゃいけない、焼きたてのパンの香りと笑顔が満ちた、素敵なパン屋さんなのだ。

「じゃあ、お先に失礼します」

「うん、また明日、よろしくね」

「気をつけて帰ってね!」

 二人の声に見送られ、裏口から店を後にする。店先の駐輪場にとめておいた自転車の鍵を解き、サドルにまたがった。ペダルを踏み込む前に、顔を上げる。

クマ店長直筆の可愛らしいクマのイラストと共に、クマザワベーカリー、と名前を掲げた店先の看板は僕が面接を受けにきた三年とちょっと前より、何だか成長している気がする。

これからも、クマ店長とマキさんを見守ってくれよ、と笑いかけ、僕は重いペダル踏み込んだ。体が前に進んでいく、冷たい風が頰を切るが、今日はそんなに寒くない、だって、おめでたいニット帽を被っているから。

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クマザワベーカリーとニット帽の僕 時任西瓜 @Tokitosuika

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