4年目の春

風城国子智

4年目の春

佐藤さとう

「……里中さとなか

 三月にしては肌寒い夜。玄関の向こうにいたのは、三年ぶりに顔を合わせた友人、里中洋平ようへい

「何の用だ?」

 Tシャツにジャージのズボン。春に出歩くには寒い服をまとう里中に、素っ気なく尋ねる。

「家、追い出された」

 予想通りの里中の言葉に、溜息しか出ない。

 むしろこれまで、あの実家に見捨てられなかった方が不思議だ。大学に流れていた悪い噂が、脳裏を過る。しかし震える友人を冷たく放っておくのも、健一けんいち自身の信条に反する。溜息を飲み込むと、健一は里中を自分の下宿に招き入れた。

「引っ越してたらどうしようかと思ってた」

 シャワーを浴び、健一の寝間着を羽織った里中が、一人用の炬燵に足を入れてふっと笑う。

「四月から、公務員になるんだって?」

 一生、安泰で良いねぇ。狭い空間に、嘲笑うような声が響く。

 「出て行け」という罵声を、健一はどうにか飲み込んだ。

「引っ越しは、研修が終わって、正式な配属先が決まってからで良いって言われた」

 怒りを隠し、熱湯で溶かしたインスタントコーヒー入りのカップを、里中に手渡す。

「そうか」

 お礼も謝罪も無く、砂糖もミルクも入れていないコーヒーを啜る里中を、健一はキッチンの流しに身を預けた格好で見るともなしに見つめた。

 こいつなら。無理な仮定が、脳裏を過る。こいつなら、公務員でも、大企業への就職でも、何でもできた、はずなのに。




 『佐藤』と『里中』。

 大学の学籍番号が隣同士だった所為で、里中と健一は一年の頃から、同じ授業を受けることが多かった。

 外見には目立った印象がない里中は、講義途中で教授に鋭い質問を投げたり、演習で難解な問題をいとも簡単に解いたり、グループワークではリーダーシップを発揮した上で分かりやすい発表資料を作ったり、と、授業の中では「かなり目立った」存在だった。……勉学では誰にも負けないと自負していた健一が、嫉妬を覚えるほどに。それでも、1年生が終わる頃には、健一と里中は、二人での自動車旅行を企画するくらいには近しい仲になっていた。

 だが。

 免許を取ったばかりの二人が運転する車は、三月なのに雪がちらついていた人気の無い道で自損事故を起こしてしまう。その時、どちらが運転していたのかは、今となっては忘れてしまった。健一が覚えているのは、病院で目覚めた時に見た、父と母の涙。

 あの涙は、もう、見たくない。その想いだけを胸に、健一はこれまで以上に勉学に励んだ。公務員を志望したのも、安定した職に就けば父も母も胸を撫で下ろすだろうと思ったから。もちろん、安定に座しているわけではない。公務員試験に受かった後も、世界中の最新情報を取り入れるための語学の勉強と、より充実した人生を送るための教養の勉強は続けている。数学は苦手だが、プログラミングやデータサイエンスの勉強も、手を付け始めたところだ。

 一方、里中の方は。飲み干した後のカップを一人用炬燵の上に置いてふわっと欠伸をする、健一と同じ大きさの影を、睨むように見つめる。二年前期が始まるギリギリのタイミングで退院した健一が大学に顔を出した時には、先に病院から去っていた里中の姿は大学のどこにもなかった。パチンコ、麻雀、ギャンブルにうつつを抜かすのみならず、他人の恋人を寝取ることまでやっている。そんな噂を聞いたのは、前期の試験が終わる頃。そして。三年生になる頃には、健一の周りの人達は皆、里中のことは、存在すらしていなかったかのように記憶から消し去っていた。健一の携帯端末に残っていた里中の連絡先を全て消去したのも、その頃。

「これから、どうするんだ?」

 空になったカップを片付けながら、問う。

「そんなこと、考える方が野暮」

 明日、いや、次の瞬間に死んでいるかもしれないんだから。里中を大学で見かけなくなった頃、心配するメッセージを送った健一に返ってきた文章と同じ言葉を呟く里中に、頷きを返すことができない。

「大学は、除籍になっているっぽいけどな」

 投げやりな里中に、共感する部分も確かに、健一の心の中にある。だが、自分は、死の淵から戻ってきたことを思い返しても、……そこまで人生を達観できない。

 だから。

「もう、寝る」

 一人用炬燵の横に敷きっぱなしにしている布団に、潜り込む。

「おやすみ」

 一人用炬燵に足を入れたまま、冷たい床にごろんと横たわった里中の声に、健一は小さく微笑んだ。




 次の朝。

 健一が目覚めた時には、里中は消えていた。

 ……伝言一つ、残さずに。

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