君に一言を贈りたい
くろまりも
君に一言を贈りたい
「鳴川くん、もうとっくに下校時間過ぎてるよ」
物語を組み上げることに没入していた少年は、秋風のような澄んだ声により現実に連れ戻される。
夕暮れの食堂。風紀委員の腕章をつけた、気の強そうな女子生徒と目が合った。夕日を受けて紅玉のように瞳を輝かせている彼女のことには見覚えがある。確か、同じクラスの三波夢子と言ったか。言葉を交わしたのは初めてだ。
鳴川は文芸同好会の部員だ。この学校は同好会に対して部室を与えないため、部員は集まることなく個別に活動する。彼の場合は、放課後の誰もいない食堂の片隅に陣取って、黙々と執筆作業を行うのが常だった。
食堂には自分以外誰もいない。そして、ミナミの手には鍵が握られていた。施錠するから早く出ろということだろう。
「あぁ、ごめん。今片づけるから、ちょっと待って」
「早くしてね」
帰宅が遅くなって苛立っているのだろうか?ミナミの声が少し上ずっている。申し訳なく思いつつ、荷物を片づけてミナミと一緒に食堂から出る。
「(な、鳴川くんと話しちゃった)」
緊張で鍵を持つ手と声を震わせながら、この時間を少しでも長引かせようとミナミはゆっくり鍵を差し込む。
ミナミは彼の隠れファンだった。去年の文化祭で文芸同好会の会誌を読んでから、すっかり虜になっていた。その日は来訪者帳に一言感想を書いただけだったが、いつかこの気持ちを伝えたいと思っていた。
これはチャンスなのではないだろうか?いや、でも、いきなりファンですと伝えても、変な女だと思われて敬遠されるだけではないだろうか?そんな考えが頭の中でぐるぐるメリーゴーランドのように回り、脳が目を回しそうだ。
「どうしたの、三波さん。体調でも悪いの?」
「ん、最近ちょっと不眠症気味でね」
鍵を回したところで固まっていたミナミを心配そうに見つめる。あぁ、鳴川くんはなんて優しいんだろう。押し倒したい。
適当なことを言ってごまかしただけだが、ミナミの言葉を素直に信じたようだ。彼は少し考え込むと、鞄の中から円形の何かを取り出して夢子に差し出す。
「不眠症ならこれあげるよ」
「……なにこれ?」
鳴川くんからのプレゼント!夢子は心の中で喝采を挙げながらも、平静を装って手渡された物を見る。
蜘蛛の巣を思わせる形状に羽があしらわれたエキゾチックな装飾品。雰囲気はペンダントに近いが、それにしてはやや大きい。
「ドリームキャッチャーっていうインディアンのお守りだよ。先日、叔父に貰ったんだ。ベッドに飾っておくと、悪い夢を防いで、いい夢を見せてくれるんだって」
「……ありがとう。いただいておくわ」
断る選択肢などあろうはずがない。ミナミの中では家宝にすることが確定していた。内心の高揚を隠したまま、丁重に受け取る。
「……まぁ、三波さんなら問題ないでしょ」
そんなふうに舞い上がっていたせいだろう。ぽつりと呟かれた言葉を、ミナミは聞き逃してしまった。
◆◆◆
「……なにこれ」
夢だ。夢を見ている。それだけは確実だ。これは明晰夢に違いない。
ぶよぶよとした肉の塊でできた壁に囲まれた部屋。天井には際限がなく、大小さまざまな顔が出現しては消えて、こちらを見下ろしてくる。部屋は縮小拡大を繰り返しており、広いようにも狭いようにも感じられて距離感が掴めない。
「そのとおり。ここはあなたの夢の中ですよ、お嬢さん」
ぷかぁりと泡が浮かぶように、緑色の獏が出現する。
「はじめまして。私の名はモルペ。ドリームキャッチャーの精霊とでもお思いください。今夜はあなたの安眠の為に助力させていただきます」
「……アメリカのお守りなのに、なんで獏なの?」
「最近は多国籍化が進んでますから。それにこれはあなたの夢ですよ?私の姿が獏に見えるなら、それはあなたのイメージでしょう」
なるほど。さすがは夢。まるで意味不明の理屈だが、納得せざるを得ない。
「だから……ぷぷっ……あなたの……くくくっ……姿もイメージ……ぷはっ!」
「我慢されると余計に腹が立つから、いっそ思い切り笑えええええ!!」
涙目になりながら、
『
……悪夢だ。この夢は間違いなく悪夢だ。自分の無意識な欲求をつきつけられているようで、恥ずかしくて死にそうだ。
「……それで、どうすればこの悪夢から解放されるの?」
「簡単な話です。悪夢の元凶『サンドマン』を倒してください」
一刻も早く目を覚ましたい一心で、ミナミは獏を掴み上げて問いただす。モルペは特に慌てる様子もなく、静かに応えた。
「サンドマンは、あなたが抱く潜在的不安。それこそがあなたの悪夢の要因。打ち倒さない限り、あなたに真の安眠は訪れません」
「……倒す?」
「あぁ、夢の中なので、身体能力は関係ないのでご心配なく。要は、あなたが潜在的不安を克服できるかどうかが問題なのです」
よくわからないが、とりあえず魔法の杖で殴ればいいのだろうか?というか、これ自体が悪夢みたいなものなので、このムカつく獏を殴ればいいのだろうか?
迷うミナミに獏は鼻を向けた。鼻先から虹色のシャボン玉が1つ出てきて、少女の目の前でパチンと弾ける。
シャボン玉に驚いて目を閉じると、次に開けた時に獏は消えていた。肉色の部屋も消失し、そこは見慣れた学校の教室に変わっていた。ただ、窓の外は夜になっており、教室は端が見えないほど広く、床は読めない字で書かれた紙で埋め尽くされている。
そして、こちらに背を向けるようにして、黒い影が立っている。
「あれが……サンドマン?」
声に反応するように影は振り返る。人の形をしていて、どこか見覚えがあるような気がするのに、不思議と顔の判別がつかない。
サンドマンが襲ってくる気配はない。恐る恐るといった感じで近づき、ミナミは杖を振りかぶった。
『あははははは!』
突然、黒い影に三日月のような口が浮かび、バカにしたような嘲笑を響かせる。それを聞いた途端、ミナミの手が止まり、杖を落としてしまう。
「あ……あぁ……」
気づいた。気づいてしまった。ここがどこで、この影の正体が何かを。
その笑い声一つで、ミナミの心は折れてしまった。足から力が抜け、その場にへたり込んで目を閉じ、耳を塞ぐ。
だが、ここは夢の世界。目を閉じても、耳を塞いでも
「やめて……お願いだから……」
ボロボロ泣きながら散乱する紙を集めようとするが、心が生み出したそれらを掴むことはできず、手をすり抜けてしまう。
「これがあなたのサンドマンなのですね」
いつの間にか傍らに立っていたモルペが、興味深そうに黒い影たちを見回す。子どものように怯えるミナミは、彼に救いを求めるように手を伸ばした。
「た、助けて……」
「私はあなたを助けたりしませんよ。私はただのドリームキャッチャー。私にできることは、誰かの夢を捕まえて届けることだけです」
獏の鼻が床の紙を払うと、そこから一冊の来訪者帳が現れる。ほとんど白紙の来訪帳が後ろのページからパラパラとめくれていき、唯一文字が書かれている最初のページで止まった。
「あ……」
『面白かったです。次回作、楽しみにしてます』
来訪者帳に書かれた短い言葉。
「……そうだった。大勢に笑われたけど、一人だけいたはずだったんだ。この一言のおかげで、僕はまだ物書きを続けられたんだ」
ミナミの手が床に落ちていたものを拾う。それは魔法の杖ではない。勇者の剣でもない。だが、彼にとって、これ以上ふさしいもののない最強の
「好きなだけ笑えよ。僕はもう迷わない。読んでくれる人が一人しかいなくても、僕はその一人のために書く」
鳴川南は決意に満ちた顔で、自分を笑う影たちに原稿用紙を突き付けた。
◆◆◆
去年の文化祭のことだ。部員三名の文芸同好会は、会誌を無料配布した。と言っても、熱心なのは鳴川だけだったので、書いたのはほとんど彼一人だったが。
結果、無料配布だったにもかかわらず、たった四冊しかもらってもらえなかった。
『おい、根暗。邪魔だから場所取ってんじゃねえよ』
鳴川が店番をしていたとき、隣でたこ焼き屋台をやっていた男子生徒たちが文芸同好会に文句をつけてきた。もちろん、この場所は事前申請で獲得したもので、文句を言われる筋合いなんて欠片もない。
『あははははは!だっせえ!誰も読んでねえじゃん。つまんねえもん作ってんじゃねえよ』
しかし、彼らは余った会誌を地面に叩き落とし、会誌を踏みながら鳴川のことを笑った。鳴川は怒って掴みかかったが、体格も人数も上の相手には手も足も出なかった。
負けたことに対しては大して腹を立てていない。鳴川にとって一番ショックだったのは、『誰も読んでない』と言われたことに対して何も言い返せなかったことだ。
正直、文芸同好会を抜けることを本気で考えた。だが、会誌と一緒に床に落ちていた来訪者帳を見て、もう少し頑張ってみようと思えた。
来訪者帳に書かれていたのはたった一ページ、たった一言。誰かが書いた記憶は鳴川にはないので、自分が店番をしていない時に書かれたものだろう。ただ、彼の心を救うにはそれだけで十分過ぎた。
だから、僕はまだこうして書き続けることができる。
「鳴川くん、もうとっくに下校時間過ぎてるよ」
物語を組み上げることに没入していた鳴川は、秋風のような澄んだ声により現実に連れ戻される。
今日はここまでのようだ。
叔父がくれたドリームウォッチャーと見知らぬ誰かがくれた大切な思い出は、僕に最高の目覚めをくれた。僕を救ってくれた君は、また僕の作品を読んでくれるだろうか?いつか君と会いたい。
君に一言を贈りたい くろまりも @kuromarimo459
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