夢に、彼はいない

PURIN

夢に、彼はいない

 今日も、夢を見た。

 

 その夢は、目覚まし時計のアラームで目を覚ますところから始まる。

 布団の中、目をこすり、上半身を起こす。そこで、いつも隣の布団で寝ている彼の姿がないのに気付く。


 名前を呼びながら立ち上がる。

 寝室にしている和室を出て、リビングに入る。いない。

 リビングとつながっているキッチンも確認する。いない。

 廊下に出て、トイレ、洗面所、浴室も調べる。いずれにもいない。


 少し不安になってきた。胸騒ぎがする。何だろう。 


 大丈夫だ。一階にいないなら二階にいるはず……

 もう何年も彼との暮らしを見守ってきてくれた我が家の階段を一段一段上がっていく。じゅうたん張りのそれが、妙にぎしぎしと音を立てた。


 二階に着いた。

 左端の彼の部屋を確認する。いない。

 真ん中の俺の部屋を確認する。いない。

 最後に、右端の半ば物置と化している部屋。……いない。


 こんな朝早くにどこへ。朝のシャワーも浴びず、身だしなみも整えず、朝食も食べずに出て行くはずがない。今日は仕事もあるのに。


 そもそも、彼が俺に何も告げずにどこかに行ってしまうわけがないのだ。

 優しい声で「おはよう」とも囁かず、冗談を言い合いながら朝食を作って食べもせず、職場は違うけれど途中まで一緒に通勤して、別れ際に「じゃあ、頑張ってね」と言ってくれることもないなんて、ありえないのだ。


 どうしよう。

 とりあえず寝室に戻ったはいいけれど、どうすべきか分からない。


 彼を探しに行かなきゃ。外に出なきゃ。

 でもどうしてだろう。布団に座り込んだまま、体が動かない。


 行かなきゃ、今すぐ行かなきゃ。助けなきゃ。

 痛切に思うのに、指一本動かせない。


 どこかで道に迷っているのかもしれない。何か困ったことに巻き込まれているのかもしれない。あるいは、もっと取り返しのつかない何かに……

 まるで別人のものになってしまったかのように、石のように、動けない。




 大学の授業開始前、彼が「ここ空いてますか?」と隣の席に座ってきたのが出会いだったこと。

 話してみたら優しくて面白い人だなあと思ったこと。

 偶然にも同じサークルに入ったこと。

 誘われて観た映画が契機で、映画鑑賞の趣味ができたこと。

 深夜まで二人で愚痴を言いながら飲んだこと。

 図書館や、どちらかの家でアドバイスし合いながら勉強したり、レポートを書いたりしたこと。


 具体的なきっかけは思い出せないけれど、いつの間にか、彼に恋をしていたこと。

 夏休みの終わり頃、散々遊んだ帰り道に突然告白されたこと。彼が俺と同じ気持ちだったのに安堵したこと。どぎまぎしつつも了承したこと。

 プレゼントした指輪を、いつも付けてくれていたこと。

 観光スポットから穴場まで、色々な場所にデートに行ったこと。くだらないことで喧嘩したこと。泣きながら仲直りしたこと。卒業できないかもと大騒ぎする彼を励まし、なんとか卒業の目処が立って抱き合って喜んだこと。ようやく俺の就職が決まった時、お祝いにご馳走してくれたこと……


 何にも変えられない、変えられるはずのない彼との思い出が、一気に去来した。




 どうして、どうして、いないの。

 

 枕から引き剥がせない視界が、徐々に歪んでくる。鼻の奥から潮のような匂いがしてくる。

 泣いてたって仕方ないのに、事態は何も好転しないのに。

 気ばかりが焦っていく。必死で目の淵でせきとめようと試みた涙はけれど、満々とコップに張られた水のように抑えきれなくなり、溢れ出す。

 一粒こぼれたら、タガが外れたように次から次へと、もう止まらなかった。


 やめろ、泣いてる場合じゃないんだよ。

 早く、一刻も早く、すぐに彼のところに行かなきゃいけないんだ。迎えに行かなきゃ。俺達は離れ離れじゃダメなんだ。

 動いてくれ、頼む、動いてくれよ。こんなところにいちゃいけないんだ。

 なんでいきなり泣いてるんだよ俺。これじゃあまるで……


 よれよれのパジャマが、べとついた体が、濡れていく。擦りガラスを通したようにぼやけた目の前の景色が、徐に明度を落としていく。


 これじゃあまるで…… まるで……



 

「おはよう」

 唐突な優しい囁き。

 短く悲鳴を上げて布団から飛び起きた。


「何びっくりしてんだよ」

 カーテンの隙間から漏れ出る微かな陽光。それを背に隣の布団から体を起こし、破顔しているのは、彼だった。


 手を伸ばす。彼の顔にれる。ああ、さわれる。

 両のほっぺをつまみ、引っ張ってみる。分厚い肉がお餅のように引き伸ばされる感触。


「ちょっと、何やってんだよ」

 苦笑しつつ、俺の手を払いのけた彼は、少し真剣な表情になった。

「また、変な夢見たのか」

「うん、見た…… 朝起きたら、お前がいなくて、怖くて、それで……」

 続きの言葉を編み出そうとした唇に何かが押し付けられた。長い人差し指。

「いいんだ。言わなくていい。辛い夢だったんだろ?」

「うん……」

「それはただの夢だ。忘れろ。こっちの幸せな現実のことだけ考えてればいーんじゃん?」

 ぎゅ。

 大きくて頑丈な腕が、俺の全てを包み込んだ。彼の暖かな体温が伝わってくる。

 ここにいるよ。どこにも行かないから、安心して。

 そう言ってくれているみたいに。


 そっと、彼の背中に腕を回した。

 俺の両腕を這わせても、なおスペースの有り余る広い背中。

 そうだ、間違いなく彼だ。心に詰まっていた不安が、融解していく。

 たかが夢にあんなに心乱されるなんて、俺は何を馬鹿なことを……


 いや、やめておこう。何も心配する必要はないのだから。

 今はただ、こうして彼とともにいられる幸福に、浸っていたい……


 ああ、なんて最高の目覚めだろう……




 彼がいなくなる夢を、毎日見る。


 けれど毎日彼が起こしてくれる。愛おしくてたまらない声で、悪夢から現実の世界へと連れ戻してくれる。

 目が覚めている間は、二人でずっと抱き合っている。互いの体が一つに溶け合うのではないかと思うくらい、ずーっと抱き合っている。




 夢の中では、相変わらず酷いことが起こり続けている。

 彼がどこにもいないことは言わずもがな。


 たとえば、メッセージアプリにメール、電話。スマホに絶えず何かしら連絡が来るようになった。それぞれのアプリのアイコンに表示される赤いバナーの中の数字は、あっという間に三桁になった。

 何かあったのだろうか。首をかしげつつアプリに指を伸ばしかける、が、何故だか急に恐怖心に襲われて思わず指を引っ込めてしまう。

 見なければいけないのかもしれないけど、見たくない。

 電源を切り、画面を伏せて枕元に置きっぱなしにすることにした。


 たとえば、家に客が来るようになった。

 インターホンを何度も鳴らしたり、ドアを乱暴にノックしまくったり。性別も年齢も様々だと思われる大声もする。

 変な人達なんだろうから、無視することにしている。こちらに何か呼びかけているようにも聞こえるけれど、内容が聞き取れない。まあ変人の戯言など聞いてもしょうがない。そもそも体がどうしても玄関に行けない。


 たとえば、自分が少しずつ痩せてきている気がする。夢の中では何も口にしていないから、当然か。

 終始空腹感に苛まれるようになったが、家には食料がない。外に買いにも行けない。まあ、目が覚めたら彼が抱きしめてくれて、食事なんてどうでも良くなるからかまわないんだが。




 何度悪夢を見ても彼が必ず起こしてくれる。救い出してくれる。だから、大丈夫。




 夢はどんどん酷くなっていく。

 でも、所詮は夢だ。全部夢だ。

 あの日、外出した彼が、約束どおりの時間に帰って来なかったことも。

 警察から電話がかかってきたことも。

 大規模な交通事故があったと聞かされたことも。

 病院に駆けつけて、信じられない光景を見せられたことも。

 銀色の指輪が真っ赤になっていたことも。


 夢だ。全部。夢だ。


 彼のいない世界ゆめに、一体何の価値があるというんだ。




 今日も彼の甘い声で、彼のいない悪夢から、目覚める。


 彼の背中に、腕を回す。

 彼の暖かな体温が、全身に染み渡った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢に、彼はいない PURIN @PURIN1125

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ