最悪の目覚めだ!

桑原賢五郎丸

最悪の目覚めだ!

 勝利を収めたチャンピオンが、笑顔でリングサイドをねり歩く。奴はこれから時間をかけてゆっくりと一周するのだ。メインイベント勝利の喜びを、満員の観客と分かち合うために。


 かたや3カウントを取られたおれは、リング中央で仰向けに倒れている。慣れっこではあるが覆面で視界が狭い。若手レスラーがおれの首に氷を当て、回復を促している。

 だがまだだ。立つのはまだ早い。

 ここで悪役ヒールレスラーのおれが何気なしに立ち上がり、軽やかにリングを後にしようものならば、観客の熱狂に冷水をぶっかけてしまうことになる。


 仰向けのまま強烈なスポットライトを浴び続けていると、目が見えなくなることがある。太陽を直接見てはいけませんと子供の頃に言われたと思うが、まさにそれだ。

 こういう時の対処法は、団体内でも横を見る派と目を閉じる派で分かれる。おれは後者だった。なぜならば、より深い悲壮感を観客に与えることができそうな気がしないわけでもないからである。覆面の奥の目を確認する観客もいないとは思うが。

 なんにせよ、一仕事終えた充足感があった。ゆっくりと息を吐きつつ目を閉じる。


 メインイベントを任された者の責任として、歓声から会場の雰囲気を推し量る。85点といったところか。

 実は、ダメージがけっこう深い。首を固めて脳天から落とすチャンピオンの必殺技は、掛ける側のタイミングが下手だととてつもなく危険な、文字通りの必殺技となる。ベルトを持ったレスラーとしてはありえないほどの技量の低さだが、あいつは顔がいい上に会場人気も高い。さらに会長の息子だから、まあ仕方ない。


 チャンピオンを讃える声が小さくなってきた。ということは、そろそろ周回が終わって、控室に戻る頃か。おれもそろそろ、こっそり引き上げるとしよう。で、控室で必殺技の角度についてネチネチと文句言ってやろう。殺す気かと。人間相手にしていること忘れるなよと。

 目を開ける。




 視界は白一色だった。




 普段ならチャンピオン撤収とともに消される強烈なスポットライトがまだ点いているのか。

 会場が、あまり聞いたことのないざわめきに包まれている。何かあったのだろうか。地震でも起きたか。会場でなにか事件でもあったのか。

 誰かがおれの頬を軽く叩き、肩を揺さぶる。声と雰囲気から察するに、チャンピオンがシャワーも浴びずに戻ってきたようだ。緊迫した声で、覆面に隠したおれの本名を叫んでいる。やめろこの。バカ野郎。覆面被ってる意味がなくなるだろうが。


 なにかが胸に当てられた。この重みは、一度研修を受けたあれだ、AEDだ。いや、やらなくて大丈夫だから。状況は把握しているから。大丈夫ちょっと身体が動か。


 ものすごい衝撃が全身を駆け抜けやがった。


 よしわかった。もう起きるから。もうそれはいら。


 外国人選手のタックルなんて比じゃねえわ、これ。


 誰かがおれの目を開き、何かを言っている。おそらくリングドクターが瞳孔の動きを確認しているのだろう。

 目が光に慣れてきたのかどうかはわからないが、少しだけ景色が見えてきた。白いもやのなかで、所属選手全員がおれの顔を覗き込み、口々におれの本名を叫んでいる。だからそれはやめろ。この情報化社会でも、おれの本名はまだバレていないはずなんだ。

 視界の隅で、なにか長細いものが映った。担架だ。本音を言うと乗って帰りたい。だがそれは、それは使えないのだ。


 何があっても控室までは自分の足で歩いて帰るのが、おれの誇りなんだ。

 観客に笑顔で帰ってもらい、もう一度見に来てもらうまでが、おれの仕事だ。

 観戦後の居酒屋で、ファン同士が夜更けまで語り合うために必要なのは、熱い試合だ。

 見せるものが絶望であっては、決してならない。

 悲しみに暮れて会場を後にするファンを、おれは絶対に見逃せない。


 四肢にも少しずつ感覚が戻ってきた。かすれてはいるが、声も出る。両脇を若手に抱えてもらい、立ちあがる。


 会場中にシュプレヒコールが響き渡る。皆がおれの本名を、本気で叫んでいる。

 ふざけんな。悪役が歓声を贈られるなんて、恥以外の何物でもない。

 しかも覆面被ってるのに本名を呼ばれる屈辱たるや!


 ゆっくりとチャンピオンの元へ歩を進めるおれを支えるのは、いまだ静まる気配のない観客からの大コールだ。

 最悪の目覚めをありがとう、会場の皆さん。

 この悔しさは生涯忘れらんねえわ。


 チャンピオンが手を差し出す。

 おれの無事を祈ってくれる大コールが降り注ぐ。

 こうなったら、その手を握り返す感動の場面を、会場の皆さんに見届けてもらいたい。




 わけがない。おれは悪役ヒールだ。

 チャンピオンの手を引き寄せ、肩口に抱きつき、額に噛み付いた。これなら足がふらついても問題ないだろう。


 大きな大きな観客の悲鳴のあとには、チャンピオンへの応援と、おれに対する怒号が飛び交った。先程まで厳粛な祈りで埋め尽くされた会場とは思えない。

 意図を組んだ選手たちが、おれとチャンピオンにしがみつく。乱闘を引き離すように囲みつつ、ゆっくりとリングから下ろしてくれた。

 団子状態のまま花道を引き上げ、なんとか控室まで戻ったおれは皆に礼を言い、覆面を脱いだ。

 ここから先は救急車に乗せられたこと以外の記憶がないのだが、若手の話によると、満足そうに笑っていたらしい。

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最悪の目覚めだ! 桑原賢五郎丸 @coffee_oic

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