第21話 夢から覚めて

 一番好きな時間。午後三時。


 金色の午後の光が射していて、彼女の頬を伝っている涙を光らせていた。すぐそばには川がある、草むらの上。さらさらと流れる水の音と、さわさわと風に揺れる草の音、キラキラと弾けるように水面を反射する光。そんな中で、苗は眠っていたのだ。

 隣には、彼がいる。それにとても安心した。そして、自分は自分だし、何も捨ててはいないということにも。

 本を読んでいた彼は、ふと、こちらに視線を向けた。

「目が覚めた?」

「うん」

「素敵な夢だった?」

 苗は弱々しく首を横に振った。

「わからないの、泣いているのに」

「そうだね、ごめん。どんな夢を見ていたの?」

 そっと降ってくるような優しい声が、余計に苗の心を締め付けた。ただの夢だったのに、どうしてこんなにも切ない気持ちになるのだろう。

 苗は、彼の方へと無意識に手を伸ばし、本を持っていたその腕にそっと触れた。

「私が自分を大嫌いで、そんな嫌いな自分を捨てた夢」

「それって、いいことじゃないの?」

「良くない。夢で良かった」

「何で?」

 まだ、彼は不可解そうな顔をしている。

「何か理由があるならともかく、自分が理由もなく自分を憎むなんて、それ以上の地獄ってあるかしら。結果、私は私を好きでいようと思ったわ」

 じっと、彼女は彼を見つめていた。彼は不思議そうに首をかしげる。

「なんだよ」

「あなたに失礼だろうと思ったのよ」

「自分にじゃなくて、僕に?」

「そう。あなたが私にそう言ってくれたんじゃないの」

「うん……そうだ……そうだったね」

「それに、あなたは私を好きでいてくれているから」

 そんなことを、自分からわざわざ口に出して言うのも憚られたが、彼は少し驚いたように目を見張ってから、興味深そうに笑って見せた。

「ふーん……。でも、それで現実に安心できるなら、悪夢も悪くはないのかも。夢は夢だし、いくら幸せだって意味がない」

 お腹の底がくすぐったくなって、苗は思わず笑い出してしまった。

「慰めてくれているのね。ありがとう」

「どういたしまして」

「私ね、いつだったか、あなたとこの川に蛍を見に来たこと、とても幸せなこととして、記憶に閉じ込めているみたい。どんなに厳重に鍵をかけたって、閉じ込めきれなくて溢れてきそうになるくらい」

「ふーん……」

 彼は短くそうつぶやいただけだった。でも、それで充分だ。

 瞼を閉じても、金色の光は透けてくる。この世界は、自分を歓迎してくれているように。それが単なる勘違いであっても、幸せな勘違いならいいと思える。

 悪夢もまた、そういう勘違いを教えてくれるのなら、彼の言うこともちゃんと素直に頷ける。

 私は、私として生きている。それが、苗にとって今は嬉しかった。

「帰ろうか」

 苗はそう言ったのに、彼は読んでいた本を閉じて、ごろりとその場に寝そべった。

「いや、もう少しゆっくりしていこう。陽がもっと傾くまで。一日で、この時間が一番美しいんだから」

「うん」

 ゆっくりと、感じよう。太陽の光が変わっていくのを。そうして、毎日を繰り返していくのを。

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お伽噺をいただきましょう 胡桃ゆず @yuzu_kurumi

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