最後の三分間
λμ
三分百円
「三分百円。三分百円だよー」
会社の飲み会の帰り道、路上に響く謎めいた言葉が気になり、
閉じたシャッターの前に、みすぼらしい格好の中年男が座っていた。
「毎度、旦那。三分百円ですよ。三分、百円」
近藤は辺りを見回した。すでに終電は出た後で、人影は自分の他に見あたらない。つまり旦那というのは自分のことだ。
えらく古めかしい言い方をするもんだな、と思いつつ近藤は中年男に近づいた。
「三分で百円だって?」
「へえ。三分で百円ですよ」
近ごろ流行っているという何でも屋の類だろうか。掃除、洗濯、買い物、そういった雑事だけでなく話し相手だったり、パソコンの設定だったり、とにかく分給で躰を貸す仕事があるという。
三分百円という惹句だけを聞けば安く思えるが、言い換えれば時給で二千円になるということだ。決して安くはない。もちろん、高くもないが。
「じゃあ十分……じゃなくて九分買うから、愚痴を聞いてくれないか?」
「はぁ? 何を言ってるんです? 旦那。三分百円ですよ」
「……なんだ? 便利屋じゃないのか?」
「違いますよ旦那。三分を百円で売ってるんです。私ぁ」
「……三分ってのは時間のことだよな?」
「そうですよ。三分間で百円です」
まるでホームレスのような格好の男に嘲笑われているような気がして、近藤は思わず語気を強めた。
「おい。はっきり言え。分かるように。三分間ってのは何のことだ?」
「三分間は三分間でさぁ。一分は六十秒で、三分は百八十秒でございやす」
「お前、ナメてんのか? 喧嘩売ってんのか?」
「ちげぇますよ!」
中年男は両肩を抱いた。
「私ぁ、三分を百円で売ってるんでさぁ」
いよいよバカにされてるようで、近藤は舌打ちしながら財布から百円玉を取り出し、男の足元に投げ捨てた。
「ほら。百円だ。三分間とやらを売ってくれ」
「おお……毎度ありがとうございやす」
男は怒る様子もなく百円玉を拾い、大事そうに懐にしまった。
……で?
近藤は目眩をするような怒りをおぼえ、中年男を怒鳴りつけた。
「おい! で!? 三分間ってのはなんだ!?」
中年男は懐に手をしまった状態でぴくりともしなかった。
ふざけんじゃねぇぞ?
近藤は男の胸ぐらを掴み、揺さぶった。
「おいこら! てめぇ! 三分で百円ってのはなんのこと――」
力任せに引き起こした男の顔は、穏やかな笑顔のまま固まっていた。
「――なん、だ……?」
途端、怒りはどこかへ消え失せ、酔も冷めた。
おい……おい……勘弁してくれよ……。
まさか、死にやがったのか?
近藤は、男の垢の筋がのこる首筋に指をあてた。脈拍は感じられなかった。
「おい……マジかよ……」
死なれるなんて冗談じゃない。なんだって俺がこんな目に。
言いたいことは山ほどあったが、とるものもとりあえず近藤はスマートフォンを出した。近くには監視カメラのひとつくらいはあるだろうし、何もせずに帰って後で殺人容疑をかけられたりしたら面白くない。
とん、
と、近藤は電源ボタンに指を置いたが、しかし、
「……あれ?」
スマートフォンのスリープが解除されない。まさかバッテリー? いや、電車を降りる間際に同僚から『おつかれさまです』とのメッセージがあった。多少は減っていたと思うが、さっきの今で電池がなくなるはずがない。
近藤は電源ボタンを長押しし、再起動しようとした。
しかし、やはり、なんの反応もなかった。
「……っだよ! くそ!」
悪態をつき、ぶるぶると怒りに震える手でスマートフォンを高く振り上げ、やがてゆっくりと下ろした。いくら腹立たしくとも、こんなことで数万円を失いたくはない。
公衆電話とかねぇのかよ。
と、首を振った近藤は、これでもかとばかりに眉を寄せた。
「なんだ、これ……」
一匹の蝿が、空中で静止していた。
羽を広げ、今まさに飛んでいました、という風に。
「……は?」
近藤は蝿をつまみあげた。見事なまでに飛行姿勢を維持したまま静止している。冷静に観察していると、酷く不潔なことをしているように思え、慌てて指を離した。すると、
「……え?」
蝿は、指を離したところで浮遊した。つまり、重力に逆らい空中に留まっていた。
指を離した直後の、飛ぶには不自然な角度のまま、止まっているのだ。
近藤は慌てて腕時計に目をやった。
秒針が止まっていた。
「おい、おい……マジかよ……?」
時間が止まってる?
いやばかな。非科学的な。酒のせいだ。幻覚か、夢だ。
ばちん!
と、近藤は自らの頬を叩いた。目の前で火花が散るような痛みを覚えた。慌てすぎて力加減を間違ったのだ。
「くっそ……何だよ、いてぇじゃねぇかよ!」
言いつつ先の蝿に目を向ける。
蝿は空中で静止していた。
……三分百円とは、静止した三分間を百円で売るということか。
「マジかよ……すげぇじゃねぇか! おっさん!」
近藤はみすぼらしい中年男に目をやった。男は穏やかな笑顔のまま、つまり百円を懐にしまい、無理やり起こされたまま、固まっていた。
「あ……そうか」
時間が止まっているなら反応があるはずもない。とにかく停止が解けたらすぐに買おう。もっと買おう。一時間でも、二時間でも。いくら買ってもおつりがくる。正確には、儲けがでる。
銀行から金を奪ってもいいだろうし、気に入った女がいれば手当たり次第ってのもいい。
やりたい放題だ。
近藤は胸を高鳴らせながら時間停止が解けるのを待った。
そして、中年男がはっと目を瞬いた瞬間、近藤は両肩を掴んだ。
「おい! すげぇじゃねぇか! い、い、一万やる! 五時間売ってくれ」
「あー……旦那、そいつは無理ですよ」
「なんだ!? 一万じゃ不満か? じゃあ十万。百万。いくらでも出すぞ!?」
「いえ、違うんです」
「なんだ!? もっとか!? いやしい奴だな! ……あ、いや、今のは忘れてくれ。なんでも好きなだけ言っていい。必ず払うから、とにかくたくさん売って欲しいんだ」
近藤は懇願した。
人生を変えるチャンスだと思った。
しかし、中年男は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと首を左右に振った。
「旦那にお売りしたのが、最後の三分間だったんです」
最後の三分間 λμ @ramdomyu
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