太陽が堕ちるとき

千住

警官になってまだ二ヶ月だった

「あのう、すみません」


 初老の女性が、小さな女の子の手を引いて交番に入ってきた。先輩警官が、うわ、という顔をしたのを見て、光田は代わりに窓口に出た。


「どうしましたか?」


「迷子みたいなんです。ごめんなさい、わたしは急いでるので……」


「はい、大丈夫ですよ」


 女性はそそくさと交番を去っていった。

 置いていかれた女の子は5歳くらいだろうか。なぜかヘアピンで料理に使うローリエの葉を留めているが、子供はどんぐりやらタンポポやらを集めるものだと聞いていたので、光田は気にもしなかった。女の子の目の高さまで屈んで問う。


「どうしたの? 家族のひととはぐれちゃった?」


 女の子は頷いた。


「みちはわかるけど……」


 なんだ。なら話は簡単だ。そう思った光田は振り向いて先輩に言う。


「送ってきます」


 先輩の表情が硬いのを見て、光田はやや戸惑った。先輩警官は神妙に言った。


「光田。ぜったいに、帰ってこいよ」


「え、あ、はい」


 すると女の子が光田の手をつかみ、引いた。予想外の力強さに光田は戸惑う。そのまま交番の外へ連れ出された。



 少女の足取りは確かだった。都会の雑踏を縫い右へ、左へ、光田がよく知らない裏道を通り、迷うことなく進んでゆく。


 この子、本当に迷子だったのか?


 そう光田が訝しみ始めた頃、女の子は不意に道端の門扉を開けた。そのまま光田の手を引いてずいずいと敷地に入っていく。


 おうちついたの? じゃあこれで。


 そう言おうかと思った瞬間、背後で門扉が閉まった。振り向くと三十代くらいの女性が門扉の鍵を閉めていた。


「我が子をお送りくださってありがとうございます、親切な警察官さん」


 振り向いた女性の前髪には、ローリエの葉がヘアピンで留めてあった。女の子が玄関を開く。一見ふつうの一軒家だったその中は、赤や金の布、彫刻などでびっしりと飾られていた。


「は、はあ、お母様ですか。ではこれで……」


「ピュティアさまがお呼びです。どうぞ中へ」


「いえ、そういうわけには」


 女の子が力一杯光田の腕を引いた。ここで振り払って暴力とでも言われたらたまったもんじゃない。力加減がわからず、光田はよろけて玄関の中に入ってしまった。




 連れられた最奥の部屋は、薄暗く異臭に満ちていた。硫黄のようなにおいだ。

裂け目の入った床板をまたぐように三本脚の椅子が置かれ、その上に女性が脚を組んで座っている。深紅の布で顔を隠しており、表情はうかがえない。

 床板の裂け目からは薄く煙があがっている。硫黄のにおいはそこから発されているようだった。


「正義のものよ」


 椅子の女性は言った。つぶやくような声なのに、妙に腹の底まで響く。光田は息を飲んだ。


「ピュティアさまの御前です。正座なさってください」


 ぐいと両肩を押され、光田はくずおれるように正座となった。


 椅子の女性、ピュティアと呼ばれた者は、片手に水盆、片手に月桂樹ローリエの枝を携えている。


 ああ、そういうことか。ローリエを頭に飾るのが、この宗教の信者の印で、それを知っていたから先輩は。


 光田の思考を遮るように、ピュティアは再び言った。


「正義のものよ。神託を授ける」


 光田は黙っていた。部屋に充満するガスのせいか、めまいがし始めていた。


「本来なれば、人の寿命は神のみ知りえ、人の子に伝うことはない。だが、迷える子羊を導き、正義の道にそむかずあるおまえの生き様への褒美として、特別に授けよう」


 ピュティアは月桂樹の枝をかたむけ、光田をさした。


「おまえの命は今宵の六時三分までだ。残された時間を、有意義に使いたまえ」




 門扉が閉まる音で我に返った。気づけば光田は道路に放り出されていた。


 記憶に空白があった。軽い頭痛がする。


 思わず腕時計を見た。初任給で買った、まだ新しいロレックス。針は夕方の四時二十三分を示している。


「交代の時間すぎてる……」


 光田はつぶやき、ふらふらと歩き出した。足がもつれてうまく歩けない。




 交番に帰り着いたときには、五時を回っていた。交代が済んでしまっており、先輩はもういなかった。同期に顔色が悪いから急いで帰れと言われ、急げるだけ急いで警察署に戻り、もろもろの事務処理を終えて帰路に着いた。五時四十一分だった。


 いつもの最寄駅についた。五時五十二分だった。いつものホームに立った。五時五十六分だった。


 ホームで喧嘩が始まった。五時五十八分だった。肩がぶつかったとかぶつからないとか。


『おまえの命は今宵の六時三分までだ』


 警官になってまだ二ヶ月だった。正義らしい正義も、善行らしい善行も、まだほとんどしていない。真面目な学生だった。先輩が横暴だとか、思ったより警察内部のシステムがずさんだとか、そういうことに少しの幻滅を覚えながらも、警察官らしい人間になろうとたゆまず努力してきた。ろくに遊びもせず。恋人も作らず。なにひとつこの世に残さず。長時間勤務に、寝て起きて、寝て起きて、寝て起きて、寝て起きて。


 六時になった。喧嘩は殴りあいになっていた。いつもの光田なら、止めに入っていただろう。でも光田はただ見ていた。堕ちかけの太陽がホーム全体を赤橙色に照らしていた。空気がぬるい。


「3番線快速の電車が通過いたします」


 光田は腕時計を外し、ホームに落とした。六時二分だった。神託ならしかたない。まだきれいな革靴が、黄色い線を踏み越えてゆく。

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太陽が堕ちるとき 千住 @Senju

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