春の宵には夫婦星

兵藤晴佳

第1話

 嵯峨野さがのみさおは僕の幼馴染で、とても頭がよかった。

 学校でのクラスは違うけど、漢字の書き取りでも算数のドリルでも、分からないことがあったら聞けばいい。

 すぐに答えてくれる。

「神様の神の字のネはころも偏じゃなくてしめす偏なの!」

「5×(3-2)と5×3-2は違うんだからね!」

「聞いてる? 羽村はむらようクン?」

 ちょっと言葉はきついけど、気にもならなかった。

 そのくせ風邪なんかひくと、人が変わったみたいに大人しくなる。そんなときのほうが大変だった。

 学校の行き帰りなんかだと、こうだ。

「ねえ、操?」

「……大丈夫」

「そんな風に見えないんだから、聞いてるんだけど」

 そんなとき、他の男の子たちからは「夫婦」とか言って結構からかわれた。そのときだけは2人とも、さっと離れて別の道を行くんだけど、あっちこっちの路地を遠回りしたあとは、どっちかの家の近くでばったり出くわしたものだった。

 一度、操は僕に言ったことがある。

「陽くんは、私の騎士だね」

「キシ?」

 知らない言葉だったので聞き返してみると、笑ったような、そうでないような、不思議な顔で答えてくれた。

「お姫様を守るのが、騎士なんだよ」

学校から帰ってからは、日が暮れるまで一緒に遊んでいた。

公園で空に星が見えるようになると、聞かないことまで話してくれた。

「見て、あの空に大きく輝くのが牛飼い座。あのオレンジ色の一等星はアークトゥルスっていうんだけど、日本では麦星っていってね、麦を刈り入れる季節になると、日が沈んだあとに空高く輝くんだ。その隣が乙女座。一等星は、あのオレンジ色のスピカ。この2つを、夫婦星っていうんだって……」

 それなのに。

 小学5年生になった春から、操は急にひとりで帰るようになった。一緒にも遊ばなくなった。


 大きな桜の樹が植えられた、学校の門の傍で待ち構えて、操に尋ねてみた。

「ねえ、何があったの?」

「何でもない」

 さっさと足を速めて先へ行こうとするのに追いすがった。

「待ってよ」

「ついてこないで」

 操は足を速めていたつもりだったんだろうけど、同じスピードで歩くのは何でもない。

「ねえ、家に帰ったらさ……」

「どこにも行かない」

 走りだしたのを追いかける。小さい頃から確かに足は速かったけど、僕だって負けてはいなかった。

 あっという間に追いつくと、操は逃げるのを諦めたようだった。

 身体を折って膝に手をついて、はあはあと荒い息をつく。僕も、心臓がバクバクいっていた。

 逃げられないように前に回り込んで聞いてみる。

「じゃあ、遊びに行っていい?」

 操のお母さんは愉快な人で、いつも笑顔で迎えてくれた。いつもジュースやお菓子を出してくれるせいか、僕の母さんは「あまり遊びに行っては迷惑だ」と言っていた。

 必ず暗くなる前には家に帰るようにしていたけど、ちょうどその頃、僕のお父さんも帰ってくる。でも、操のお父さんを見たことはなかった。小さい頃は気にしなかったけど、もともといないんだってことは何となく分かるようになっていた。

 それでも、操もお母さんも、僕が家に上がるのを嫌がっているようには見えなかった。

 だけど。

 この時ばかりは、操はハッキリ言った。

「ダメ」

「何で?」

「何ででも!」

 苦しそうな息の中で言い切った操は、背中を屈めた僕の顔を見るなり、シャツの襟のあたりを押さえて背中を向けた。

 僕が正面に回ろうとすると、身体をすくめたまま、また背中を見せて言った。

「知ってる? 騎士はね、むやみにものを尋ねてはいけないんだよ」

「どうして?」

 それでも聞くのをやめない僕に振り向きもしないで、操は駆け出した。

「だって、陽くんは私の騎士じゃない! お姫様の言うこと聞いてよ!」

 泣き出しそうな声に、僕はもう追いかけることもできずに、遠ざかっていく操の姿を見つめていた。

 目の前を、桜の花びらが流れていった。


 それっきり、操は僕と口を利くことはなくなった。学校でも会うことはなくなった。たまに見かけても、僕とは目も合わせない。

 声をかけようとすると、女の子たちの群れの中に紛れ込んでしまう。

「もしかすると……」

 僕は心配になった。

「操に嫌われちゃった?」

 でも、心当たりがない。

「春になったら、急にこうなったんだよな」

 そこで、最近のことをいろいろ思い出してみた。

 まず、クラスが変わった。

「でも、今までだって4年間、同じクラスになったことなんかなかったぞ」

 だから、そのせいじゃない気がする。

 すると、僕とは関係ないってことだ。

「じゃあ……」

 そこで、ふと考え付いたことがあった。

「誰と関係があるんだろ?」

 いったん頭に浮かんだら、それはどんどん膨らんでいった。

「どんなヤツだ? そいつは」

 そいつのせいで僕が操に避けられるようになったってことは……。

「あ……」

 答えは出たけど、頭の中で言葉にならなかった。言葉にしたくなかった。

 一緒に帰っていたとき、悪ガキどもにはやし立てられたのを思い出したからだ。

 やーい、夫婦みたいだ、と。 

 でも、今はその時よりもずっとイヤな気分だった。ほかのことは許せても、このことだけは、絶対に。

「操に……好きなコができた?」


 それからというもの、僕は学校帰りに、こっそり操の家の周りをうろつくようになった。

 マンションの向かいだったから、その建物の陰や、花が散った緑の桜の樹の陰に隠れることもできた。

 帰ってくるのが見えるときもあったし、気が付いたら家の中から「ただいま」という声が聞こえるときもあった。

 そのどっちの場合も、一目散に逃げ出すことにしていた。

 自分のしていることが、何だかとても怖かったのだ。

 家に駆け込むと、いつも母さんに叱られた。

「静かにしなさい! こんな時間まで道草食って!」

 いつの間にか、夕暮れ時になっているのだった。

 そんなことをどのくらい繰り返しただろうか。ある日のこと、僕は操のそばを歩く人影を見た。

「あれは……」

 ドキッとした。胸がギュッと締まって痛くなったけど、僕は息を殺して、それが誰なのか確かめようとした。

 確かに、男だった。

「でも……」

 背が高かった。でも、小学生にしては高すぎる。

 どう見ても大人だった。

 操とその男は、一緒に家の中へ入っていった。

「誰だろ……」

 操にお父さんはいなかったはずだ、と考え考え帰ると、もう夕方だった。

 玄関で待ち構えていた母さんに、僕は問い詰められた。

「操ちゃんのところに行ってたんじゃないでしょうね?」

 ギクッとした。

「ち……違うよ」

「じゃあ、どこほっつき歩いてるの?」

 適当なウソを準備していなかったので、答えに詰まった。こういうときは、完全に僕の負けだ。

 黙っていると余計に、母さんは一方的に言いたいことをまくしたてる。

「あのね、操ちゃんのところは、今、大変なの、引っ越しの準備で」

「どうして?」

 今度は、母さんが答えに詰まった。

「あ……ええとね、母さんも、知らないんだけど……」

 いくらまだ小学生だといったって、それがウソだってことは僕にも分かった。

 何か考える前に足が勝手に動いて、外へ飛び出していた。

「どこ行くの、陽!」

 決まっている。操の家だ。


 家のチャイムを鳴らすと、操が出てきた。

「何?」

「僕……僕……」

 気持ちは胸いっぱいになのに、言葉が出てこない。

 イライラと顔をしかめていた操は、急に僕を押しのけて、家の外へ駆け出して行った。

「ついてきて!」

 そう言うのが聞こえて振り向いたとき、その姿はもうなかった。道へ出てみると、かなり遠くを走っているのが見えた。

 でも、僕の足なら追いつける。すぐ隣に駆け寄って聞いた。

「何でさ……何で、引っ越すって言ってくれなかったんだよ!」

 答えはなかった。僕たちは、そのまま黙って歩きつづけた。

 気が付くと、よく遊んでいた公園に着いた。操がそこへ入って行ったので、僕もついていった。

 もう、薄暗くなっていた。操は立ち止まって、空を眺めた。僕がすぐ後ろに立ったところで、ぼそりと言った。

「知ってる? 騎士はね、むやみにものを尋ねてはいけないんだよ」

 でも、僕は聞かないではいられなかった。

「知りたいんだよ、操の気持ち。行っちゃう前に……」

「私の……気持ち?」

 聞き返されて、困った。どんな風に言えばいいのか、分からなかった。

 今の僕みたいな気持ちだったんじゃないかと思った。息が締めつけられるみたいで、何だか眼の奥がキュンとして……。

 いろんな言葉を探して、やっと答えられた。

「どんなふうに……苦しかったの? ……じゃなくて、つらかった、でもなくて……」

 ダメだ。言葉が出てこない。

 代わりに操が答えてくれた。

「切なかった……でしょ?」

 こっくりとうなずくと、背中をぴったり寄せてきた。

 真ん中辺に、何か、コツンと固いものがある。

 母さんの背中にも、確かこんなのがあった。

「これ……」

 やっとの思いで声が出たところで、操はまた一歩離れた。

「……何も聞かないで。恥ずかしいんだから」

「あ……」

 その意味が分かって、頬が熱くなった。

 だから、操は襟元を隠したんだろう、あのとき。

 僕は慌てて話をそらした。

「で、どこ行くの? 引っ越し」

 聞くのは切なかったけど、ほかに話すこともなかった。

 操はさらっと答えた。

「向かいのマンション」

「え……?」

 ぽかんとしている僕に、空を見上げながら操は答えた。

「お母さん、そこに住んでる人と結婚するんだ」

 僕たちが見つめる先にある星座は、確か牛飼い座と乙女座だ。

 青白いアークトゥルスと、オレンジ色のスピカが輝いている。

 夫婦星とか言ったっけ、と僕は思い出していた。


 それから、5年。

 高校1年生になった僕たちはまだ、幼馴染のままだった。

 僕のほうが背が高くなって、同じ夕暮れの道を歩きながらすぐ傍らを見ると、上から眺め下ろす形になる。

「どこ見てるのよ」

「別に」

 正直に答えても、ちょっと自意識過剰になった操は信じてくれない。

「ウソ。胸見てたでしょ」

「見てない」 

 確かに、大きくはなったとは思うけど。

 慌てて見上げた先の天空に浮かんでいるのは、なかなか沈まない2つの星座と、並んで光る星だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春の宵には夫婦星 兵藤晴佳 @hyoudo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ