龍神さまの領域
千住
止まない雨の話をします
私が小学五年生のときのことです。限界集落というのでしょうか、山中のごくごく小さな村に住んでいました。
その年は梅雨に入ってからというもの、毎日ひどい雨。全国的に梅雨明けが済んでも豪雨が続いていました。
学校のすぐそばに住んでいた私は毎日通えていましたが、土砂崩れや川の氾濫に阻まれ、ひとり、またひとりと児童が登校不能になっていきました。
もともと十人もいなかった学校は、七月に入ると私と同級生の
担任であり三年から六年生の学年主任の先生、若い男性でした、は困ったように頭をかきながら私に言いました。
「えーっと。みんなが学校に来られないので、少し早いですが夏休みに入ります。そのぶん夏休みはいつもより早く終わるので、おうちの人とプリントを確認してください。通知表も間に合わなかったので、夏休みが終わったら渡しますね」
男の子がいたらブーイングしたでしょうか。それとも喜んだでしょうか。私はどこか冷めた子供だったので、何も言いませんでした。
先生が私と美湖の前にプリントを置きます。
ぐしゃ。
紙が潰れる音に横を向くと、美湖がプリントをうまく畳めず破ってしまっていました。私はそのとき美湖の手が震え、顔色が悪いのに気がつきました。
「では、今日はここまでです。
「先生さようなら、みなさんさようなら」
私はお決まりの挨拶をしましたが、美湖は何も言いませんでした。
ランドセルを背負った美湖が先生に連れられ、教室を出て行きます。
美湖はおとなしい子でした。学校でもほとんど話さず、みんなで一緒に何かするときだけ、端っこで参加しているような子でした。生まれたときから一度も切っていないという長い髪を編んだり束ねたりしていて、私はその髪が揺れるのを眺めるのが好きでした。
だから、美湖の髪が揺れるのがもっと見たくて、私は校庭のビワの木に無理やり一緒に登らせて、一緒にビワを食べたことがありました。私はやんちゃでしたが、美湖が校則に違反したのはその一回だったのではないでしょうか。そのあと私は「学校の外ならいいんだよね?」と森にあるビワにまた登らせて。美湖は抵抗も反論もしませんでした。
そんな美湖が校長室に呼ばれるほど悪いことをするとは思えませんでした。具合が悪そうだったのも気になりました。
一緒に帰ってあげよう。
そう思った私は昇降口には向かわず、真反対の校長室へ向かいました。
校長室の前の床に座りこむと、お世辞にもしっかりしているとは言えない校長室のドアから話し声が漏れてきました。
「そんな非科学的なこと! 信じるわけないじゃないですか!」
怒鳴り声に私は身をすくめ、息をひそめました。その声には聞き覚えがありました。美湖のお母さんです。
「
低くくぐもった声はお祭りで聞いたことがありました。村長さんです。
美湖のお母さんはさらに声を荒げました。
「そんなの信じるわけないじゃないですか! 平成にもなって……。この子の名前だって舅たちが勝手に決めただけです」
「だからこんなところに学校なんて反対したんだ……」
疲れ果てた声は校長先生でした。皆は黙りましたが、校長先生はそれ以上言葉を次ぎませんでした。
すう、と誰かが大きく息を吸いました。村長さんでした。
「お母さん。お気持ちはわかりますが……。ここはソトの社会とはルールが違うのです。科学というルールでは動いていない、説明のできないことが、ここではまだ現役なのですよ」
「でも、だからってなんでこの子が……!」
美湖のお母さんが泣き出したのがわかりました。
「義父さまと義母さまが手順はご存知でしょう。ササギの崖に、夜中二時。よろしくおねがいしますよ」
がたがたと数人が椅子から立ち上がる音がしました。私はやっと、聞いてはいけない話だったと悟り、足音を忍ばせて走り去りました。
ササギの崖に、夜中二時。
何事もなかったような顔で家に帰り、夕食をとって布団に入っても、私は寝付けませんでした。時計の針がどんどん回っていきます。
ササギの崖ではたまに遊んでいました。滝の前の崖で、なぜかそこだけ名前が付いていたので、集合場所にちょうどよかったのです。美湖ともそこでかくれんぼをしたことがあったはずです。
私は両親の寝顔を確認し、レインコートをかぶって家を飛び出しました。
ひどい雨でした。ササギの崖に着いたころには、レインコートなんて無駄だったんじゃないかと思うくらいびしょ濡れでした。
崖ぎわに、小柄な影がありました。鮮やかな青い巫女服に身を包んでいましたが、引きずるほどの長い髪で誰だかすぐにわかりました。
「美湖? だいじょうぶ?」
美湖はびくりと振り向きました。腕いっぱいに花を抱えていました。
「だいじょうぶ?」
私がもう一度問うと、美湖はほほえみました。見たことのない笑みでした。今なら私はその表情にぴったりくる言葉を知っています。諦念です。
「ルールって、大変だね」
美湖は言いました。綺麗な声だと思いました。
どうしてでしょう。私はなぜか、美湖ともう会えないのを悟りました。そんなのいやだと思いました。
「ルールが大変なら!」
私は美湖に手を伸ばします。
「ルールのないところへ行こうよ! 学校から外にでちゃうみたいに!」
気づけば美湖の方へ駆け出していました。
美湖は眉根を歪めて笑い--そのまま崖から落ちて行きました。
ばくん! ごきゅ。
口を閉じ、のみくだす。そんな音が、ありえないほど大きな音で聞こえました。
呆気にとられ、私は立ち止まります。
「……美湖?」
呟く声が妙に大きく聞こえました。いつのまにか雨は止んでいました。
そんなことが、あったからでしょうか。
私はルールというものにとても敏感で、そのコミュニティを支配するルールにすこしでも反りが合わないと感じると、すぐ居場所を変える人間になりました。根無し草というやつです。県外の高校に進学してから今日までで、もう20回は引っ越ししているでしょうか。
ルールはときに何の理由もなく、ときに理不尽ながらも確かな理由をもって私を縛りつけます。ルールに反してはいけないと思う人間がいる限り、そのルールは、どんなに小さく弱く見えても存在する。そんな「存在」がときに様々な法則をも超越することも、あるんだなって思いますね。
今日これからこの街を出ます。ひどい雨ですが、こんな天気の日こそ私の引っ越しにはふさわしい気がします。
お話聞いていただいて、ありがとうございました。
龍神さまの領域 千住 @Senju
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます