一日限りのヌードモデル
永久凍土
一日限りのヌードモデル
「はい、国見です……… ああ、シオちゃん?」
夕方、僕は引っ越しの梱包作業の最中にその電話を取った。
彼女とはここ数年メールでしかやり取りをしていなかったから、生の声を聞くのは久しぶりだ。
僅かに鼻に掛かったハスキーで落ち着いた声。滑舌も良く聞き心地がいい。
『国見先生、あの、ご実家に帰るのは、あさって……… ですよね?』
彼女こと斎藤栞――― シオちゃんは近況報告を済ませた後、改まって本題を切り出した。
僅かに声が震えている、ように聞こえる。
僕とシオちゃんは十年来の付き合いで、初めて出会ったのは彼女がまだ十七歳の高校生だった頃。僕がアルバイトをしていた美大専門の予備校に彼女が入学してきた時からだ。
当時二十五歳の僕は、とある公募展にようやく入賞して画業に専念する傍ら、日々の食い扶持の足しに選んだのが予備校講師の仕事だった。
彼女は僕の作品を以前から知っていたらしく、打ち解けるのにそう時間は掛からなかった。
以来、彼女はずっと僕のことを「先生」と呼ぶ。
「うん、業者さんが来るのはあさっての午前中、午後には僕も新幹線」
『じゃあ、明日……… あの、時間、ありますか?』
電話口で緊張しているのは久しぶりだからだと思っていたが、そうでもないらしい。
東京を去る僕にできることは多くないが、用件を聞かない理由はない。
「思ったより早く片付いたから暇だけど……どうしたの? シオちゃん」
大きく息を吸う音が聞こえる。そして、長く深い溜息を吐いて彼女は口を開いた。
『あ、あの、せ、先生に……… 描いて、欲しいんです』
「え………? 描くって何を?」
彼女は再び声を詰まらせ、その言葉を一言一言、慎重に口にする。
『あの、もう一度、わたしを、です』
「え………」
僕の専門は日本画だが、その作品の殆どはヌード、つまり裸の女性だ。
美人画の巨匠である高塚省吾画伯に影響を受け、日本画ながら独自のアプローチを加えて画業を続けていたけれど、三年前に筆を折った。
理由は明白、大して売れなかったことと、当時結婚したい女性が居たからだ。
僕は都内の食品会社に就職して二年ほど同棲したけれど、女性は去年の夏に僕の元から去った。
しばらくは惰性で東京に残っていたものの、年末に父が体調を崩して地元に戻ることに決めた。
「いや、待って。僕もう全然、絵は描いてないし」
『もちろん、知ってます』
「画材だって全部捨てた。描くものと言えば大学ノートとボールペンしかない」
三年前に未練が残らないようにと、その女性に手伝ってもらって一切合切を処分した。
僕の決意の程を見せたかったからだが、今から思えば女性は「絵を描く僕」だったからこそ、僕に惹かれていたのかもしれない。
さすがに売れ残った作品は「自分の子どものようなもの」なので処分してないが。
『そんなにお時間も頂けないですし、紙とペン、スケッチで充分です』
「…………」
『やっぱり、もうわたしじゃ無理なんですか? 先生』
「そういう意味では………」
さっきまでの緊張は何処へやら、シオちゃんは電話口でグイグイ押してきた。
確かに一度だけモデルとして口説いたことはあったけれど、当時まだ美大生だった彼女は自身のヌードに踏み切れず、薄手の着衣で妥協した。
シオちゃんは当然僕が筆を折ったことを知っている。彼女も昔から僕の絵のファンで、決して安くない僕の絵を買ってくれたこともある。
三年前に随分と落胆させてしまったので期待には応えてやりたいが、それとこれとは話が違う。
やむを得ない、最後の手段だ。
「じゃあ、今度こそ、脱いでもらうけど、いい?」
この際だ、わざと嫌らしい言い方をする。
『もちろん、そのつもりですよ』
「えっ、脱ぐって……… ヌード、全裸だよ?」
もう一度、念には念を押す。
いくら見知った相手とは言え、時勢的に念を押さない訳にはいかない。
それに、お金を払って雇うプロのモデルとは違うのだ。
『ええ』
え―――。
◆◇◆
正午前、最寄りの駅で僕の前に現れたシオちゃんはざっくりとしたニットにスキニージーンズ、肩から下げているのは少しやれた革のバッグ。カジュアルな出立ちである。
首からぶら下げた社員証には「斎藤栞」と書かれている。そう言えばこんな字だったと繁々と眺めていると、彼女は恥ずかしそうに社員証を外した。
「まーた、外すの忘れちゃった。出社しなきゃ良かった」
そう言って舌を出すシオちゃん。どうやら一日有給を取っていたらしい。確かに今日は平日だから休みでなければこんな時間に会える訳がない。と言うか、彼女は本気なのだ。
最後に会った時は黒々としたショートボブに黒縁眼鏡と美大生らしく地味目だったが、五年ぶりの彼女は僅かに赤みがかったミディアムヘアで眼鏡は掛けておらず、すっかり垢抜けていた。
「すっかり大人っぽくなっちゃって、どこのお姉さんかと」
「それって、合格ってことですか?」
「えっ……… やっぱり本気なの?」
「本気って先生、この期に及んで女の子に恥をかかせるんですか?」
「…………」
「女の子と言っても、もうアラサーですけどね」
動揺する僕の表情を見た所為か分からないが、シオちゃんはすっかり強気だ。
大人しかった学生時代の面影は何処へやら。広告代理店に入社した彼女はすっかり逞しくなった。
「それより、食事はまだだよね、どこか入らない?」
「今日はわたしの我が儘、ファーストフードでさっさと済ませましょう」
「え、いやでも………」
「わたしは、先生が描いたわたしを、早く見たいんです」
「……… え、えーと、分かった」
シオちゃんは黒縁眼鏡がない両の瞳で、僕の顔をグッと覗き込んだ。何気に近い。
何が彼女を突き動かしているのか分からないが、そこまで言うなら僕も腹を括ろう。しばらく疎遠だったとは言え、僕にとって大切な存在の一人には違いないのだから。
・・・
もう直ぐ後にする僕の部屋、積み上がった段ボールと最後に片付ける折り畳みのベッド、身の回りの物を詰めるボストンバッグ以外は何もない。
カーテンも片付けてしまったが、バルコニーの背の高い目隠しのおかげで、向かいのマンションからは見えても頭くらいだろう。
シオちゃんが訪れただけで、昨日まで空虚だった一室が嘘のように華やいだ。
一糸纏わぬ姿の彼女は、正しく高塚省吾画伯のそれのような佇まいを見せる。
柔らかい春の外光が彼女の身体に淡いグラデーションの影を落とし、緩やかな〈カーヴ〉が複雑に織りなす「女のかたち」を正直に伝えている。
元々白かった肌はより白さを際立たせ、均整が取れたトルソーが密かに自己を主張する。
それまで彼女にあった社会性という記号がすっかり抜け落ちている。
服を着ていないことを除けば、初めて出会った頃のままだ。
「やっぱり、ちょっと厳しい、かな……」
ベッドの縁に腰掛けたシオちゃん、顔を真っ赤に染めて呟いた。
髪を後ろでまとめているので、耳まで赤くなっているのが分かる。
僕から見て左側に両脚を伸ばし、後ろ手をベッドに突いて背筋を伸ばしている。
顔を僕の方に向けるのにはもう少し時間がかかりそうだ。
「慣れるまで、少しずつでいいのに」
「いや、お、お気遣いなく……… 頑張ります」
僕はその声を聞いて、二冊のスケッチブックと4B、2B、Bの鉛筆、練り消しをフローリングの床の上に並べる。すると鉛筆を置く音に反応して彼女は一瞬だけ振り向いた。
「あれ? ノートとペンしかなかったんじゃ……?」
「昨日慌てて電車に乗って画材店まで走ったんだよ。ノートとボールペンじゃモデルに失礼」
「あ……、その、わたしのために、ごめんなさい」
「ああ、いや、ほんとは昨日、ボールペンを試したら全然ダメで、練習もしたかったし」
僕は慌てて言い訳をするが、練習をしたかったのは本当のことだ。実際、昨日はご無沙汰だった鉛筆の描き味を日が変わる頃までチェックした。
スケッチブックは奮発して水彩画用のマーメイド。粗い感触で凹凸が目立つ紙質は、簡易なスケッチを少しでも「絵」に見せようと考えた結果だが、走らせる鉛筆の抵抗感が意外に好ましい。
シオちゃんは向こうを向いたままだが、僕は床の上に直で座ってスケッチブックを開き、本日一本目の中心線を引く。シューッとマーメイド紙に僅かに濁った鉛筆の音が鳴る。
そして二本目、三本目と大雑把に全体の形を取って次の段階に移る。最初はバランスは無視。まずは彼女の立体に慣れなければいけない。
ポーズだけではない。骨格、重心位置、筋肉に込められた力の向き、重力、質量、曲面が持つ明暗の調子。観察することは山ほどある。
今、目の前に在るのはシオちゃんでも裸の女性でもない。
「女のかたち」をした「物」だ。
欲張って一枚に拘らない。紙をめくる音に気づいて彼女はポーズを変える。
まだ向こうを向いたままだが、身体を起こしてやや前屈み、腕の力を抜いて脚を組んだ。
よく手入れされた脚、お腹に薄く肉の折り目が増える。
外気に晒された両の乳房は重みが加わり、その存在感を増した。
「もしかしてシオちゃん、ジム通ってる?」
「あ、分かります?」
「うん、目指してるの? 腹筋女子」
「まさか、そこまで拘ってないですけど」
「妙なのが流行ってるよね、実際」
「うちのジムのガチな人凄いですよ、まるでおっぱいが付いたオトコ!」
彼女はそう言うと両腕を肩の高さにまで持ち上げ、力こぶのポーズ。
胸の乳房から三角筋へと続く脇のラインにほんのりと柔らかい影を作る。
「ちょっと想像したくないな……」
少しずつヌードに慣れてきたシオちゃん。
僕も頭と腕の同期が少しずつ整えられていく。
三枚目、四枚目と進む頃には、彼女の顔は僕の方を向いていた。
・・・
アラームをセットして一時間毎に休憩。
三度目の休憩に入る頃には膝立ちや後ろ姿、胡座まで描いた。
途中、小休止を取って都度でスケッチを見せているが、今のところ彼女に疲れた様子はない。
バスローブなど気が利いたものはないので、彼女には僕のパーカーを貸している。
用意していた軽いお菓子を摘みながら、戯けるように口を開いた。
「もっと大人のやつ、やりましょうか? 女豹のポーズ、とか」
「昔はそんなこと言わない子だったのに……おじさんショック」
「ふふ、アラサーですからね」
そう言ってシオちゃんは両の目を三日月状に撓ませる。
パーカー以外は何も身に着けていないので、実年齢を知る手掛かりはごく僅かである。
その表情は、まるで無邪気な子どものよう。
「何度もそう言うこと言わない。シオちゃんは今でも綺麗だよ」
「あれ、あの時は見せてないじゃないですか」
「それは言葉のあやっていう……」
シオちゃんはベッドの上で膝を抱えて三角座りをする。
僕は一段低い床の上。嫌でも社会性とは違う、彼女の性の記号が目に入る。
一瞬、目のやりどころに困った僕に気が付いたのか、シオちゃんは揶揄うように言う。
「ところで今のわたし………わたしの裸って、どうですか?」
僕が描いたモデル達との比較を聞いているのだろう。
シオちゃんを含めて十人も居ないが、彼女が他と劣ることはない。
「どうって、そうだなあ。余分な弛みが少ないから誤魔化しが利かない」
「それって、褒めてくれてるん、ですよね?」
「えっ、まあ……… そう、そうかな」
「ふふん、頑張った甲斐が、あった」
ふわっと柔らかく笑う彼女。
描いていない間は普通の女の子だ。少なくとも僕にとっては。
現在の彼女は二十七歳、僕は三十五歳。昔から歳が離れた妹のようだったが、異性として意識せざるを得ないのは、少しばかり距離が空いていた所為だ。
疎遠だったのは、彼女が知らない女性と僕が同棲していたからだと思う。
気を遣ってくれていたのだろう。
「先生、あのね………」
「なに?」
シオちゃんは床に置いていたペットボトルのお茶に手を伸ばす。
それまでの彼女とは打って変わって、口調は硬い。
「わたし、実は先生の絵を買った時、後悔したんですよね」
「後悔って?」
「先生の絵が本当に好きで無理して買ったのに、なぜこの絵はわたしじゃないんだろうって」
「…………」
シオちゃんの言っていることが分からない。
だが、それが彼女を突き動かしているものの正体であることは分かる。
「あの時のわたしなら確かに無理だった。でもそれが悔しくって。なんでだろう、よく分からない。絵の中のモデルにわたしは嫉妬している」
どこか、遠い目をする彼女の言葉を僕は黙って聞くだけだ。
シオちゃんはペットボトルを飲み干し、膝立ちになってパーカーをあっさりと脱ぎ捨てる。
再び露わになった若々しい肢体、迷いがない真っ直ぐな瞳。
その二つを僕の目の前に惜しげもなく差し出した。
「先生、四セット目。始めましょうか」
・・・
四セット目にはシオちゃんのパーツを集中的に描いた。
最初に僕が彼女の「指」を描かせて欲しいとリクエストしたからだが、以降、彼女は黙々と描いて欲しい部分を示すようにポーズを取る。
僕は彼女の持つ「女のかたち」を一つ一つ、丹念にトレースする。
白魚のように細い指から引き締まった腕。
腕から繋がる腋、柔らかいJの字を描く乳房。
胸から下りてなだらかなカーヴが折り返す腰回り。
背中へ回って肩甲骨、腰から緩いスロープが繋がるお尻。
お腹、下腹部の薄い茂みへと続き、腿から膝。
脛から弓のように伸びるつま先。
果ては足の裏まで。
それこそ彼女が知らない黒子の位置まで把握するくらいに。
外はすっかり暗くなり、スケッチブックは二冊目もあっという間に消化した。
この頃にはさすがに疲れが見え始めてきたが、それでも彼女は根を上げない。
「最後の一枚は顔がいい」
僕は最後の一枚に渾身の気持ちを込めて描いた。
コンテやパステルを選ばず、敢えて鉛筆を選んだのはこの為だ。「デッサン」とまではいかないが、「僕の絵」にしたかったからである。
くりっと特徴的な目、すっきり通った鼻筋、丸っこい輪郭、少しだけ薄い唇。
組んだ腕の上に乗る大人びた胸、鎖骨から繋がる首筋、前後に薄い肩。
髪を下ろし、嘘のない真摯な視線を僕に向ける彼女。
結局その日は明け方までシオちゃんと過ごした。途中、食事の提案をしたものの、気持ちが途切れるからと却下。当然、僕も付き合った。
完成した最後の一枚を見せた時の彼女の顔が忘れられない。
二人とも泥のように疲れていたが、それでも尚、彼女は本当に嬉しそうだった。
「先生、今日はわたしの我が儘に付き合ってくれて、本当にありがとう」
「あ、いや、僕も久しぶりのアウトプット、楽しかったよ」
「へえ、男の子は出すのが好きですもんね」
「えーと、それは返答に困るな………」
記号を取り戻した彼女は、悪びれなく大人のジョークを言い、僕は苦笑いする。
僕だって歳相応の社会性くらい持ち合わせている。よく頑張ったと褒めてあげたい。
シオちゃんはかつての僕が知る少女ではなく、もはや大人の女性なのだ。
彼女の期待に僕が応え切れたのかどうかは分からないが。
タクシーを呼んで待つ間、彼女は最後の一枚を繁々と眺めながら呟いた。
「ああ、ちょっと先生にも似てるかな。目元とか」
「へえ、そうかな? 肖像画は描いた画家に似るって言うよね、僕はよく分からないけど」
ふふっと笑い、シオちゃんはうわ言のように呟いた。
「この絵は先生の子ども。いい子ができた」
◆◇◆
地元に戻って落ち着いた頃、シオちゃんがスケッチのスキャン画像を送ってくれた。
恐らく会社の複合機から人目を盗んでに違いない。
どんな顔をして撮ったんだろう? と考えると可笑しい。
スケッチブックの彼女は口を固く結んでいるが、僅かに笑みを浮かべているように見える。
そうだな。また、描こう。
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