帆多 丁

 結社。

 男が二番目に覚えた文字だ。

 聖なる丘に建つ「結社」。その裏手にそびえる崖の上に身を伏せ、男はご大層な御殿を無表情に眺めていた。

 伸び放題の蓬髪ほうはつと、赤黒く斑に染まった外套は、昼日中において男の身を隠すのに一役買う。春の訪れと共に増えた羽虫どもにも構わず、男は夜を待っている。


 自らの名は忘れて久しい。男は爪と名乗っていた。


 男が肌身離さぬ物が三つある。

 その一つが「爪」という名の短刀だ。

 いや、短刀だったものだ。

 人を斬るたびに短刀は育ち、逆反りの黒刀となっていった。今は静かに男に背負われ、共に夜を待っている。 

 崖の上からは、結社に出入りする女たちの姿が見える。セアラーも、かつてはあんな中にいたのだろう。もう顔は思い出せない。



 笑顔が好きだった事は、覚えている。



 男は孤児だった。生き抜くためには何でもやった。盗めと言われれば盗み、殺せと言われれば殺し、犯せと言われれば犯した。

 そうやって橋の下、穴蔵の中、下水口の脇、街の落とす陰の中を何年も転々とするうちに、気づけば隣にセアラーがいた。少女が金になるのは知っていた。そうしなかったのは、見たこともない蒼い髪が美しかったからだ。

 硝子の欠片や、奇妙な形の石よりもずっといいものを拾った、それぐらいの気持ちだった。


 人里離れてひっそり暮らす、エルフと呼ばれる部族の子がどうやって街にきたのか、もう誰も知らない。

 彼女が隣に来てから、男は殺さなくなった。犯さなくなった。彼女が嫌がる事はやりたくなかった。そうして何年か生き延び、殺されそうになって、街を二人で逃げた。


 そのすぐ後だ。彼女の具合が悪くなった。

 雨も降り出して、たまたま目に付いた家に入り込んだ。家主が騒いだら適当に黙らせるつもりだった。

 しかし家主の男は騒ぐでもなく、責めるでもなく、彼女の容態を見て言った。

 

 ──身ごもっていますね。

 ──私は、貧しい母親を救うべく活動している者です。


 家主は毎日どこかへ出かけていく。その先で、女たちに読み書きを教え、母子に医術を施し、出産に立ち会うなどしているとセアラーから聞いた。

 家主には敵も多かった。大抵は、女たちの夫だった。

 後に「爪」となる男の怪異な風貌と腕っぷしは、大いに役にたったものだった。

 セアラーも、よく家主に付いていっては読み書きを教わって帰ってきた。帰って来てからも白墨を持ち、熱心に字の練習をしていたものだ。



 ──みてみて、これがアタシのなまえって。

 ──あんたのも書くよ? 見ててね?

 ──ねぇ、いっしょにやろうよ。



 男は興味が持てなかった。線と図柄の組み合わせが読めなくても困った事などなかった。

 セアラーのお腹はどんどん大きくなっていく。

 文字に興味をもてなくても、セアラーとお腹の子には興味があった。この中に自分の子が入っているというのが、心底ふしぎだった。子どもが産まれるとは何なのか、親というのはなんなのか、家主の男から学んだ。

 そのうち、男も家主を心から信頼するようになった。この人なら間違いはないのだと。


 ──いよいよとなったら私が取り上げますから。

 ──なにも心配なんてする必要ないですよ。


 その家主の名は覚えている。

 忘れぬように、毎晩寝る前に唱えている。

 ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。

 殺す。殺す。殺す。殺す。

 

 

 ****


 セアラーが辛そうにしていても、どうにも出来ない事が多いと知った。だから他の事では、彼女が楽になるようになんでもやった。

 働いた。汚れ仕事も、危険な仕事も、あの糞まみれな街に比べればどうと言うこともなかった。

 辛い時期が落ち着いて、子の名前が決まった。男の子でも、女の子でも、どちらでも素敵な名前になった。

 いよいよ産まれるんじゃないかという頃になると、セアラーは白墨ではなく、ペンと紙で、子の名前を練習するようになった。


 ──産まれたら、きれいな紙で、きれいな字で、この子に名前を贈りたいの。

 

 そしてここに来てようやく、男も文字を覚えようという気になった。


 だから最初に覚えたのは、子の名前だ。忘れないように、練習できるように、彼女が練習で書いた紙をもらって、ペンも借りた。

 翌日に彼女は産気づいた。


 ──大丈夫です、私に任せてください。

 ──不慣れな人間は邪魔になります。数日間かかりますから、ここで待っていてください。


 家主ウィジャがセアラーを馬車に乗せて連れ出す。

 この時の事は何度も夢に見る。追いかけても、殴って止めようとしても、ウィジャは行ってしまう。

 それを追いかけて、追いかけて、何度も同じ光景を見る。


 実際、男はほとんど待てなかった。

 すぐに飛び出し、行き先を知らぬまま探し回り、いつか殴り飛ばした夫連中に追い回されつつも、ウィジャの行方を突き止めた。

 子どもが産まれそうだからウィジャを探している、そう言うと誰かの母親が教えてくれた。


 ──《結社の家》に向かうのを見ましたよ。


 男は走った。

 セアラーの顔が見たかった。

 家を出るときにも、辛そうにしていた。なにか励ましてやりたい、力になりたいと思った。

 結社の家は、ウィジャの家よりよほど大きく、しかし両開きの扉を開けても人の気配がなかった。ただ、昔に嗅ぎ慣れたにおいがした。

 においを辿って奥へと行き、半開きの扉を押し開けて目にしたのは、清潔な部屋の真ん中に据えられた清潔なベッドと、きれいな髪の蒼と、裂かれた腹だった。

 

 ──とられちゃった。とられちゃった。


 うわごとのようにセアラーが繰り返し、虚ろな瞳が、必死に男を見ようとしていた。


 ──お乳をあげたよ、お母さんになれたよ、なのに、

 ──とられた、とられちゃった。


 男はかつて、人の腹を斬って殺した事がある。

 腹を裂かれた者を助ける術は、男にはなかった。

 ただただ、彼女の手を握り、蒼い髪を撫で、声をかけ続けた。街にいた頃の話もした。あの文字通り糞まみれな暮らしでさえ、戻れるなら喜んで戻りたかった。


 ──ごめんなさい。

 ──ごめんなさい。

 ──ごめん



 それが誰に向けた言葉だったのか、もう知る手段はない。

 セアラーは最後に、謝って死んだ。


 

 ──ちがう。

 ──おまえがいったいなにをした?


 あやまるのは、おまえじゃない。



 男が名前を忘れたのは、この日だ。

 ベッドの脇に転がっていた、鋭利な短刀から声がした。

「裂け。お前の女がされたように、我が身で復讐を果たせ」

 血に濡れた短刀は「爪」と名乗った。




 男は、再び殺すようになった。

 最初は、ウィジャの家で待ち伏せていた連中だった。

 「結社」と「ウィジャ」、その二つを手がかりに放浪が始まった。追っ手がかかれば男は爪となり、容赦なく殺した。その度に「爪」は育った。 


 数年のうちに「結社」はどんな鄙びた村でも見られるようになり、ウィジャの行方はようとして知れない。

 十年が経ったころ、男はエルフの暮らす集落に迷い込み、なぜ彼らが隠れて暮らすかを知った。


 妖が人となした子を、母の産道を通すことなく取り上げると、強く神性を残した子になるという。

 そうやって、かつての帝王も産まれたと。そして、人は妖を攫うようになり、彼らは隠れたのだと。

 

 ウィジャは知っていたのだろう。それとも結社の命令か。

 どちらにしても、やることに変わりはなかった。



****


 夜が来て、宙天に満月がかかる頃、男は爪になった。

 崖に浮き掘られた巨大な女の像の前に、松明の一団が輪を作った。ウィジャはいるのかわからない。間違いなら、また別を当たれば良い。

 背負った「爪」を手に取り、黒く闇に沈む逆反りの刀身を振って、飛び降りた。

 浮き彫りの像に「爪」を立て、縦に深く傷を彫りながら一気に着地する。色めき立つ一団の松明が激しくゆらゆら揺れ、その手近な一つに「爪」が振るわれた。


 とん。


 鎖骨のあたりに爪先がかかり、はだえの内側を掻き出して刃が抜ける。松明がひとつ、地に落ちる。

 ウィジャではない。

 またひとつ、松明が落ちる。

 ウィジャではない。

 またひとつ、またひとつ、またひとつ、またひとつ。

 最後の二人、片方を見て爪は手を止め、歯を見せて笑った。

 背後に一人をかばうように立つ、線の細い男。地に落ちた幾多の松明が照らすその顔を。

 会いたかった。


 ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。

 殺す。殺す。殺す。殺す。


 炎光と月光の間を低く飛ぶように抜け、爪は「爪」を突きたてた。どう殺すのかは、すでに決まっていた。


 とん。


 ばらの下、右の腰骨を掠めて柔らかな体内へ黒刀が侵入する。その手応えを感じて爪はと刃をひねり、薙ぐ。


 を掻き出して一筋、宙空に走った赤灰色の線。


「おとうさま!」

 くずおれる仇の背後から、幼い声がした。


 殺せ、忌まわしき神のよりしろを殺せ。


 逆反りの黒刀が男に囁く。「爪」を振り上げ、幼い声を刈り取らんとして、蒼い髪が目に入った。

 面影があった。

 思い出すことができた。

 ウィジャの亡骸にすがりつく娘は、母親似だ。セアラーも泣くときはあんな顔で泣いていた。泣いたり、怒ったり、笑ったり、顔の忙しい女だった。


 ──笑った顔が見たい。


「よくもおとうさまを!」


 娘が顔を上げていた。その瞳に宿る怯え、悲しみ、怒り、そして憎しみ。

 幼い娘の肌から黄金の光が滲み、次の瞬間、男を幾本もの光の槍が貫いた。

 痛みはなかった。熱さだけがあった。右手の「爪」が振り上がり、娘めがけて投げられようとした。


 男は、手を離さなかった。


 そのまま抱きかかえるように、「爪」を自らに食い込ませた。喉を血が埋めて、声は出ず、土に倒れ伏して男は娘の姿を探す。

 騒ぎを聞きつけて結社の御殿から飛び出てきた連中がある。ユーリア様、ユーリア様、と娘が呼ばれている。


 ちがう。

 その子の名前は、ユーリアじゃない。

 その子は、俺とセアラーの娘だ。


 戦槌に打たれながら、男は手の中で暴れる「爪」を離さなかった。懐にしまった紙をもう一度見たかった。娘に名を贈りたかった。

 セアラーの叶わなかった願いを、叶えられないまま、爪だった男は骸になった。


 

 翌朝、男の骸が改めれた。

 腹に埋まった短刀はどうあっても抜くことができず、他に男の持ち物は、古びたペンと、一枚の紙片だけだった。

 紙には下手な字で何度も「イゥリ」と書き連ねられていた。表と裏で筆跡が違うようにも思われたが、そのまま男の骸と共にどこかに捨てられた。


 その後、「爪」の行方は杳として知れない。

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帆多 丁 @T_Jota

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