第41話『jazz pianist』

 今日は店の開店日で、トールは一日店番をしていた。朗らかな日和で、お得意様の老婆と、のんびり世間話に花を咲かせたり、暖かくなって外を出やすくなったからなのか、客足も上々だったりで、売り上げもよかった。

 しかし、午後になって天気は一変し、あれだけ晴れていたのに、今は雷鳴が雲の上から響よんでいた。ポツポツと雨が降ってきたと思ったら、すぐに本降りに変わった。

――これじゃ、客足は一気に鈍るな。早めにたたんで工房にでもこもるか。

 土砂降りに打たれつつも雨戸を閉めて、水滴で濡れた床をモップで拭いている時だった。

 一人の男が店に入ってきた。

男は真っ黒のフードを目深にかぶり、びしょ濡れだった。ついていた大量の水滴と、泥のついたブーツが、店の入り口を汚した。男がフードを取ると、フードに着いていた水滴が壁に飛び散った。

丸眼鏡に、刈り込んだように短い金髪、顎には少し無精ひげがあった。なんとなく威圧感のある印象を、トールは受けたが、

「いらっしゃい。一足遅かったですね。今、何か拭くものを出しますね」

 と言って、棚からタオルを出した。その時、男は一瞥をくれるだけで、尚も温度のない冷ややかな視線で、店内を見渡していた。そしてポツリと一言、

「まるで雑物倉庫だな」

 低い声で言った。鼻で笑い、さらに印象が悪くなる。悪態をつかれても、せっかく来たお客の一人だと思って、気にしないことにした。

「何かお求めのものがあって来たんじゃないんですか?」

 タオルをカウンターに置いて、男に尋ねる。男はトールを、上から下まで根踏みするような、無遠慮な視線を向けた。男が近づいてくる。男の身長は高く、トールは少し首をもたげた。足元には男が歩くたびに、したたった水滴が、ボタボタ落ちる音がした。

「巨人のピアノを調律した道具屋ってのはお前か?」

 トールの質問には答えず、男は逆に質問を投げかけた。道具を求めてきたのではなく、トールの道具屋としての腕を求めに来たということか。ボソボソと籠った声で、それでいて聞き取るのが難しいくらいに早口だった。神経質。そんな印象も更に追加された。

「えぇ。もう随分前の事ですが」

「ならお前では無理か」

 初対面なのに、随分と失礼な男だとトールは思った。

仕事ぶりを見てもいないのに、はなから役不足と決め掛かられるのは、プライドに障ったが、男の言う通り、トールにピアノの調律は出来ない。ピアノにはそれを専門とした調律師が必要で、巨人のピアノを調律した時だって、たくさんの調律師と道具に精通した者たちが、集まって行った共同作業だった。トールの腕だけでは、及ばない領域だ。

「音だったら今でもはっきりと覚えていますよ」

 それでも口から出たのは、そんな青臭い見栄だった。

「気に障ったか? 青いな」

 見透かされて、男にまた鼻で笑われた。男の態度にトールは、流石にムッとなったが、男の顔に見覚えがあった。

「あんた、ジャズピアニストのレナード=カステナードか?」

 おぼろげな記憶の中、前に一度だけ行ったバーで、この男がジャズを弾いているのを、見たことがあった。トールの中で、その時の光景が思い出される。


ジャズは、トールの最も好んで聴く音楽だった。楽器一つ一つが秘めている潜在能力を、最高に高めた音と、個性がぶつかり合い、人生が滲み出てくるような、ストイックな演奏を聴いていると、この上なく甘美な気分にさせられる。

 それに、酒と一緒に聴くジャズは、時間を一つ格上なものにしてくれる。

 大人数のスイングジャズより、少人数のクラッシックジャズの方が好みだった。

 楽器一つ一つの音を、隈なく聴けるからだ。もちろんアンサンブルだっていい。豪華で混ざり合う音は、また別の楽しみがある。

 しかし、バンドや、ともすればソロで演奏する奏者たちは、音楽というものを心から愛しているのが確とわかる。

向き合っている覚悟というのか、ひたむきさ真剣さが、振動する空気と共に伝わってくる。感性を研ぎ澄まして、喜怒哀楽だけではない様々な感情を、音の表情を変えて伝えてくれる。

耳につく快活なフレーズ。激しくも洗練されたテクニック。

酒の力だけではない、時間に酔わせてくれる魔法を、彼らは使うことが出来る。

 人の生み出した奇跡の一つに、音楽があると言っても、トールは過言とは思っていなかった。

 そんな時、はじめて行ったバーで、レナードの演奏を聴いた。

 その演奏は、黒鍵盤三十六本、白鍵盤五十二本の計八十八本を、音の一つ一つの意味を深く考え、繊細な指運びに計算された、高度に数学的な印象を受けた。高音をメロディラインに、油断も隙も無い頭のいいジャズ。そんな感じだった。

 それでもその中に、しっかりとしたクラシックで培った煌びやかさや、憂いのあるバラードの表情とがあって、インテリジェンスと一言でくくってしまっては、味気がない。もっと深みのある、ストーリーのあるものに感じた。

 感情のままに演奏するものとは違い、見せつけるような、それでいてしっかりとした基盤というものの根底があるからこその高度なやり取り。

 魅力があったのに、なぜ顔を忘れていたのか、なぜバーに通い続けなかったのか、それを思い出した。

 バーの中で演奏するレナードは、ピリピリとした緊張感を、指先でも背中からも放ち続け、物音の一つにも敏感で、寛ぎに来ている客のことは、一切考えていなかった。

 レナードのその姿を求めてくる客もいても、ここはバー。理解のあるものだけのコンサートではないので、そうでない客は必ずいる。

 後者だった二人の客が、黙って聴いていることが出来ず、大声で話し始めた。

 その時、レナードはピタリと演奏を止めて、二人に歩みよった。

 そして、テーブルにある酒をあろうことか、客の顔にかけた。

 当然客は怒りだし、バーの店員がそれを宥めた。その時、レナードは一切悪びれることもせず、ただ演奏が途中で終わったことを名残惜しそうに、ピアノを見つめていた。

 トールは確かに良い演奏ではあったが、居心地が悪くなり、さらにそのあとレナードの演奏は再開されなかったため、早々に店を出たのだった。

彼の音楽は芸ではなかった。しかし、音楽で食べていく者として、芸術を極めることも確かに大切だが、その前に礼儀は、しっかりしていなくてはならない。客は、お金を払って聴きに来てくれているのだから。

 そんなことがあって、それからそのバーに行くことはなくなった。

 

 レナードは自分の名前を出されたことに、一切の驚きも漏らさず、ただ冷たくトールを見据えていた。

「ピアノの調子が悪いなら調律師に頼むのが筋では?」

「俺は新しい音を求めている」

「新しい音?」

「そうだ。聴いている者が黙って聴いていられる、息を呑むような圧倒される音だ」

「そんなことをしたら、あなたの繊細なタッチじゃ、演奏の本質すら変わってしまうんじゃないですか?」

「それでいい」

 この男の本懐は、自分の音を、一切の身じろぎも許さず、黙って聴かせるということか。その高いプライドは変わることなく、この男の中を満たしている。だがそれだけでは足りないと思い、自分の殻を破ろうとしている。

 不器用で身勝手で自分本位だが、音楽家としての譲れない矜持。トールは職人気質の自分に、その矜持を照らし合わせた。

「俺に出来るのは音の再現だけです。やるなら調律師と協力してでの仕事になると思いますよ」

 トールが言うと、

「構わない。巨人のピアノの音を出せるなら、お前がどう仕事しようが構わない」

 と、レナードが答えた。

そうなればやり様は何とか見出せるかもしれない。

「何とか手を尽くしてみます。音を上げるまで付き合いますよ」

「上げるなら最高の音にしろ」

 二人は不敵に口角を上げると、早速ピアノを診に行く日取りを決めた。


  実はトールは、レナードと同じように巨人の音を求めて、ピアノを調律したことが一度だけあった。それはトールが、ハナサキに来て間もない時の、しかも客注の仕事ではなく、ある調律師との大切な思い出だった。

 ハナサキの西区、ジゥ=エルスの工房で、それは行われた。

トールの元に、巨人のピアノを調律したと噂を聞きつけた、ハナサキで長年ピアノの調律師として調律を行っているジゥが、ぜひ一緒に音の再現をしてはくれないかという、申し出があった。

 その頃、とにかくこの街で名を売りたかったトールとって、それはあまりありがたい誘いではなかった。だが、少しでも街の人脈を築いていきたいと思いトールは、半ば嫌々ではあったが、誘いを受けた。調律は二人の仕事が終わる夜に、一時間だけという約束だった。

 一日の仕事を終えたトールは、迎えに来たジゥの後を歩き、工房にやって来た。そこには一台のピアノがあった。

――普段はお客の元に行って調律を行うんじゃ。今回は儂のピアノを使う。お前さんの力を貸しておくれ。

 そう言って調律は始まった。ジゥはまず何も弄らず、ただピアノを弾いて見せた。ジゥの腕前は、自分のピアノと言うだけあって、流石なものだった。聴き終えたトールは、まずジウのピアノの腕前を褒めた。それから、巨人のピアノの音はもっと重く、響きがいつまでも残るような感じでした、と言った。ジゥは、

――そうか。ではまた明日、もう一度。

 そう言って、その日の調律は終わってしまった。そのあまりの呆気なさに、帰りの道中、中身のない無駄な時間を過ごしてしまった、という思いがトールの胸に残っていた。調律をする様や、ピアノの構造などを教えてもらいたかったし、たったあれだけの感想で一体何が分かるのだという蟠りもある。

 次の日、仕事を終えたトールは、またジゥの工房に向かった。

――こんばんは。じゃぁ調律をはじめよう。

 迎えたジゥはそう言って、またピアノを弾き始めた。同じ曲を同じテンポで。ピアノの音は昨日聴いていたものとは、はっきりとわかるほどに変わっていた。でも巨人のピアノとは違う。

――どうだったかね。

 ジゥが尋ねた。トールは音が変わりました。でもこれじゃないです。もっと芯があって、力強い。

――わかった。ではまた明日。

 そう言ってまたその日の調律は終わった。

一体何なんだ。調律とは名ばかりで、何か試されているのか。帰りの道中、またトールの胸にまた蟠りが残った。

次の日、今日もまた何も得るものが無いようだったらどうしよう、そう思いながら工房の扉を開く。そしてまたジゥのピアノを聴く。違いをみつけてはそれを指摘する。ジゥはまた明日、と言って調律が終わる。

 暗い気持ちのまま帰宅し、また次の日、工房へ向かう。

足取りは日を追うごとに重くなる。

部屋の扉を開くと、ジゥがピアノをちょうど調律している最中だった。

――すまないね、今日はまだお前さんの言うようには調律が出来ていないんだ。

 トールは、ぜひ見学させてください。と言った。

やっとジゥの仕事ぶりを見ることが出来る、そう思ったが、ジゥは、

――今日は帰ってくれ。また明日。

 と、言ってトールを工房の外へ追いやった。

僕の態度に何か問題があるなら直します。言ってください。このまま帰るわけにはいかない、そう思ってトールは食い下がった。

――ピアノを聴く時、君は音を楽しんでいるかね。

 ジゥはそう言った。

調律は音を完成に近づけていくのではないんですか? 楽しむこと、そんなことよりも、そっちの方が大事ではないのか、トールはそう思って意見を言った。ジゥは、

――これは仕事じゃないんじゃよ。君はまだ調律をする以前のところにいる。その意味が分かってからまた来るといい。

 ジゥはそれ以上、何も言わず踵を返した。

 帰り道、トールはジゥの言葉の意味を考えた。

楽しむこと。楽しむこと。楽しむこと……。

その言葉は次の日、仕事をしている時も、頭から離れることはなかった。考え続けても、答えは出ず、その日はジゥの工房へは向かわなかった。

 それから自分を振り返ってみた。巨人のピアノを調律した時は、どんな思いでピアノに向き合っていたのか。今の自分とは何か違うところがあるのか。

 あの頃は、ただガムシャラだった。勇者との旅から離脱して、今自分に出来ることは何かと考えて、出来ることを手当たり次第に、ひたすらにやっていた。

 雑念もなく、真新しく触れるものには、ただひたすらに感動して、自分の中に財産が出来たみたいに嬉しかった。楽しかった。そう、楽しかったのだ。

 それが今の自分は、次のお客のことばかりを考えていて、今を真剣に向き合うことを疎かにしていた。いつの間にか楽しむことを忘れていた。

それが分かってから、トールはまたジゥの工房に向かった。

 扉を開けたトールの顔を見たジゥは、中に入ってくるように言った。ジゥはピアノの前に座った。だが、トールはまず、巨人のピアノを調律した時のことをジゥに話した。

巨人の国に派遣団となって訪れ、自分がミニチュアになったのではないかと思うくらい、見るものすべてが大きかったこと。仕事の合間に見た巨人たちの暮らしぶり。派遣団の仲間の名前や性格。仕事の合間に食べた物の味。風の匂い。太陽の光の感じ方。ピアノのこと以外のこともつぶさに思い出して語りつける。

その時自分が何を感じて、何を思ったのか。ジゥは相槌を挟めて、楽しそうにそれを聞いている。

 結局その日は話しているだけで、調律している時間はなくなってしまった。それでもトールは、中身のない無駄な時間を過ごした、なんて気持ちにはならなかった。

――今度は君の好きな音楽について聞かせておくれ。

 ジゥは嬉しそうにそう言った。

 次の日もまた、トールはジゥと話をした。自分の聴いてきた音楽との思い出。トールの稚拙な表現を、ジゥは自分の引き出しにある言葉や、演奏を交えて巧みに一致させ、解説を交えて音楽の世界を導いてくれた。

少しずつピアノは、また音を奏で始めた。そうして調律は再開された。

 

ジゥはピアノのことを一から話してくれた。木枠と鉄骨と弦とハンマーで作られたおよそ三千八百の部品で出来た、鍵盤楽器と言うことだけではなく、それらを加工していく職人たちの話まで。

山から切り出した七花桜を工場に運んで、まず蒸気で蒸しあげ油抜きをすること。蒸気機関で木を裁断していく中で、多くの職人が大切な手や指を失ったこと。かんなや木屑で肺を悪くするものが多くいたこと。ピアノの銅線の色を仕上げるときに、塩酸に着けると、シュワっと薄気味の悪い、緑色の煙が上がると今でも真新しく恐ろしいように言っていた。表面の仕上げはニス塗では上手くいかず、白蘭の漆を使うとピアノが玉のように輝く。だが、傷がつきやすいのが玉に傷だと付け加えた。

鍵盤一つを押すと、テコの原理を利用して、弦にハンマーが当たり、四百五十キロもの力が加わるそうだ。

それから調律のことを教えてくれた。ピアノの音を変えるには、何をするのか。

まずは、アクションを着けていない状態の弦を弾いて、音を聞くところから始めたとジゥは言う。それからアクションを着けてまとまった音を聞く。段階的に音を聞く。絶対音を、耳に刻み込む訓練は、日々欠かさずに。

調律とは小修理のようなもので、鍵盤のタッチの具合を直す整調や、音の質を変える整音も含むこと。その時は、チューニングハンマーやフェルトピッカー、キープライヤーなどの道具で、弦を閉めたり緩めたりする。更にフェルトの巻かれたハンマーに、針を刺したり、薬品をしみ込ませたりして、ハンマーの硬さを変える。A音叉でラの音から調律が始まることや、調律は一つの音が、もっとも純粋で美しくなるまで行うことなど、トールの一番聞きたかった話もしてくれた。

幾多のピアノを日々調律しているジゥの話は、当然、巨人のピアノを調律した時に学んだものとは、一致しないものだった。あの時、扱ったのは、巨人用に作られたピアノだ。

人間がどのように、ピアノを発展させてきたものか。部品一つ一つを作る職人たちの仕事。調律、整調をしていないピアノの不憫さ。ピアノと人間との関係性。調律はただピアノを直したり、音を整えたりするだけではなく、所持者とそのピアノと、どう付き合っていくかを考えなければならない。お客を含め、ピアノを通じて知り合った人たちは多岐に渡るという。手紙のやり取りをするだけでも何日もかかってしまうと、嬉しそうにジゥは言った。

話していて、トールは自分が今まで、ただ仕事をこなして賃金をもらっているだけだったと省みた。道具を直したり、問題を解決するだけではなく、この街で道具屋として生きる自分の役割が、どういったものか、それを考えていかねばならない。一所で生活していく、と言うことはそういうことだ。

二人が話を深めていく度に、工房は居心地のいい空間になり、どんどんピアノの音は、巨人のピアノの音に近づいて行った。その頃には、二人の間の仕事終わりの一時間という約束はとうになくなっていた。

ジゥのピアノに向き合う姿勢は、今日のトールの道具一つ一つに物語があり、何事にも楽しみを見出す、という仕事と生き方を、再確認させてくれた大切な指針だ。

 巨人のピアノが再現できた時、トールはやっと街の一員になれた気分になり、二人は固い握手をして完成を喜んだ。


懐かしい大切な記憶。とはいえ、経験があるにしても難しい仕事だった。ジゥはもういない。一昨年の暮れに亡くなっているのだ。プロの扱うピアノの音を、自分の耳を頼りに再現するなど過ぎたことだ。レナードが帰ってから、トールは頭を抱えていた。

自分の中にあるのは、巨人のピアノを仲間たちと調律した時の音と、ジゥとあの工房で、共に語らいながら記憶をたどって再現した音。

―――思い出はまだ鮮明に残っているが……。

考えていても仕方がないので、ハナサキにいる調律師の元に、相談をしに行くことにした。

雨は小降りになっていた。


 夕刻、アフターマカリア音楽協会にトールは足を運んだ。ハナサキで音楽に精通しているものなら、大概はここの名簿に登録している。トールはあの時、ジゥと共に調律したピアノの音を視聴した、ジゥの古仲間を尋ねようとしていた。皆、あの時、既に高齢で、現役から引退している者もいたので、望みは薄かった。

事務所で入館手続きを済まして、早速、レナードのピアノの件を相談した。しかし、協会の職員たちは、レナードの名を聞いた途端、急に顔をしかめ、渋い顔をして話しづらそうにしていた。

 協会でもレナードは、鼻つまみ者のようだった。レナードはあの気性と性格で、学生の頃からも評判が悪く、独善的で自己中心的な考えは、幾つものコンサートを台無しにして、卒業してからのショーでも、一度気に入らないことがあったら、即座に席を立ってしまうことで、多方面に迷惑と損害を与えていた。現在では、関わり合いを持つことすら避けられ、悪い噂も絶えなかった。一番ひどいもので、調律の気に食わなかったピアノに酒をかけてマッチで火を点けた、という話まであった。

協会からも、近々、追放勧告をするという話まで進んでいることを、トールは告げられた。話を聞くたびに、レナードの曲者ぶりが際立ち、まるで自ら孤立していくことを望んでいるかのように、聴衆に背を向けていた。

彼の愚かさが、トールには理解が出来なかった。自分の一番大切な場所を守るために、自分が何をしなきゃいけないのか。何をしてはいけないのか。そんなことは、大人になれば誰にだってわかることだ。そこからはみ出してしまえば、常識のない者として、後ろ指を指されて、日の当たるところにはいれなくなる。理不尽でも我慢のならないことでも、一先ず飲み込んで、次があることを考えながら、その時を耐える。自分のやりたいようにだけやっている、なんて輩はほんの一握りの天才か、それは最早、悪とも言えよう。

協会としての協力が得られないことが分かり、トールは事務所を後にした。時刻は夕刻を過ぎて、伸びてきたとはいえ、日が落ちてきた。

事務所の名簿で、僅かに盗み見ることが出来た、ジゥと共に、調律した巨人のピアノの音を聞いた、仕事仲間の家を訪ねるのは、明日にしようと、頭を切り替えた時だった。

「おや、そこにいるのはトールさんではないですか」

 トールのことを呼ぶ、老いてしわがれた優しい声がした。

「スーベヌさん! お久しぶりです」

「ややっ、全く久しくなりますな」

 トールに声をかけたのは、ジゥの相棒のスーベヌという古老だった。スーベヌはピアノの傷の修繕や、メンテナンスを主にやっていて、あの時、ジゥのピアノを聴いた仲間の一人だった。

ジゥと作り上げたあの音は、二人の時が作り上げた、絆の結晶のようなものだったから、ついぞ他では再現などしなかった。ジゥの仕事仲間であるスーベヌ達以外では、聞いている者はいない。

「協会に何か御用でしたかな? もしやまたあのピアノの音を作りにでもいらしたかな? なんて」

 スーベヌはお道化たつもりだったが、トールは、雨の後に雲の切れ間から差した太陽の光のように思った。

「実はちょうどスーベヌさんたちに、あの時の音について相談があるんです」

「おぉ、それは幸運なことじゃ。あの時の音は今も儂の中に響いているよ。もう一度あの音を作ろうとしているのかね?」

「お時間がよろしければ、少しお話させてもらえませんか?」

「いいですとも。ではせっかくだ、話は儂の家でしていきませんか?」

「いいんですか? この時間帯ではお邪魔では?」

「孫娘との二人きりの我が家です。人が増えた方が賑やかじゃ。ジゥのことも思い出した時には話してやりたいし」

「ではお言葉に甘えます」

「では少々お待ちを。協会に書類を届けてまいりますので」

「わかりました」

 スーベヌは被っていた帽子を上げて礼をすると、建物の中に消えていった。思いがけない偶然で、トールは幸運の女神の爪先が見えてきた思いだった。

 しばらく待っていると、

「お待たせしました。では行きますかな」

 と、スーベヌがトールに笑いかけ、二人は家路についた。


「いらっしゃい。おじいちゃんの知り合いでこんなに若い人が来るのは初めてね」

 スーベヌの孫娘、スンナに促されトールは、二人の家にお邪魔した。夕食の準備はされていたが、それはスーベヌとスンナの二人分だったので、スンナは厨房へ追加の料理を作りに行った。

「それでお話なんですが……」

 トールはレナードのことを切り出し、事のあらましを話した。

「そうですか、あのレナード君のピアノを」

 話している最中にも、スンナは料理を運び、スーベヌは考えながら食事を進めた。

「彼のピアノは儂も一度修繕に出たことがあったが、細かいことにも気が付く悪く言えば神経質な、良く言えば抜かりのない青年じゃった。それでもピアノに関して彼は嘘をついたことが無いように思える。自分の全身全霊をかけて音楽に向き合う。そういう真摯なところを儂は買っていたんじゃが」

「どうにも悪い噂は絶えないようですね」

 一度うんと言ってしまった仕事に、ケチが付きどうしたものかと悩んでいるのが本心だった。もしこの仕事を成し遂げる術を見出すと同時に、レナードの抱えていることを晴らしてやる。なんてのは過ぎた考えかもしれない。

「ピアノに火を点けるなんて、音楽家の風上にも置けない人だけど、トールさんはどうしてそんな人のピアノの調律を請けたの?」

 スンナが、粗方の料理を運び終えて、テーブルに着くなり言った。

「これは彼の挑発に乗ってしまった僕の甘さが招いたことです。確かに厄介事にはかかわるべきではない。そう考える一方で、僕は彼のピアノをもう一度聞いてみたいんです。これは僕の勝手な持論ですが、一つ道を究めた人に、悪人はいないと思います。究めたと言っても、彼はまだその岐路の途中にいるのかも知れないが、心に一番純粋な憧れを持っているんだと思います。その憧れに近づくために、恥ずかしいことは出来ないはずなんだ」

「だから純粋なものを濁らせないように、土にまみれることを拒絶し、ただひたむきに、目指している。というのは少し、妄信的ではないですかな?」

 スーベヌは、ナイフで鶏の香草焼きを切り分けながら言った。

「……かも、知れません」

 トールの孤独だったという闇は深い。でも、そこから這い出させてくれた光の意味を疑いたくはなかった。それは、トールの中の願いであり、期待だ。他人に期待できなくなった時、人は闇に落ちる。

「あの青年にも、きっと訳があるのじゃよ。儂らには見えんものが見えているかもしれない。それを変人だなんて割り切って、突き放してしまうのは可哀そうなことじゃ。トール君。私には一つ伝手がある。それが彼を救う希望の光になるかは、君次第じゃ。ジゥの忘れ形見に、君は賭けることが出来るかね?」

「忘れ形見……ジゥは弟子を取らなかったはずですが」

「孫がね。疎遠になっていた娘夫婦の一人息子が、ジゥの元にピアノを聴きに来た時があった。まだ見習いじゃが、何よりもジゥのピアノが好きじゃった」

「そうなんですね。そうか、ジゥのピアノを……」

 トールはそのことを聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。レナードのピアノを調律する手立てが出来たこと。そして、ジゥの思いを継ぐ後継が育っていたことにだ。運は巡ってきている。綱渡りをしているような思いでも、微かな光に向かって、トールはその日、明るく帰路についた。


 数日後、トールはスーベヌに取り次いでもらったジゥの忘れ形見、ジョバンニと会う約束をした。約束を取り付ける時、考えに考えた。これからレナードと関わることで、彼にだって迷惑がかかるかも知れない。そのことを踏まえての仕事の依頼だった。その日は風の強い日だった。トールは待ち合わせ場所の喫茶店に向かい、シャッコーを走らせていた。土埃避けのゴーグルを着け、手綱で活を入れる。午前の仕事が押して、約束の時間には間に合うがギリギリだった。綱木に手綱を括りつけ、店の扉を開けると、丁度席を立った青年と目が合った。青年はワインレッドのハンチング帽を被り、背広姿だった。左手首に巻いた革の腕時計を見やり、今まさに席を後にしようとしていた。

「ジョバンニ君か?」

 トールが聞くと、その青年はシニカルな笑みを浮かべ、席に座り直した。返事もせず手をやって、向かいの席にトールを招く。

「ブレンドのお代わりを下さい」

 彼は、後ろにいたウエイターに顎を向け流し目で言った。目線が戻ると彼はまた時計を見た。トールは自分も同じものをウエイターに頼むと、遅れたことをまず詫びた。

「いいえ、時間はピッタリです。あと一秒でも遅れたら失礼させてもらいましたが」

 話しつつも、背広の襟を直し、ネクタイの位置を正す。なかなかジゥと結びつく印象がなくて、トールは困惑した。

「街はずれで道具屋を営んでいるトールだ」

 トールは挨拶代わりに右手を差し出すと、彼はそれを手で制した。

「勘違いしていませんか? 僕はあなたに忠告しに来たんだ」

「勘違い? 仕事の話をしにここまで来てくれたんじゃないのか?」

「ジョバンニは忙しいんです。今回の件は取次しかねると言っているんです」

「君はジョバンニじゃないのか?」

「ジョバンニのルームメイトのアンドリューと言います。以後御見知りおきを」

 そう言って、アンドリューは名刺を差し出した。その名刺にはヘンゼルブレッフェル楽団フルート奏者、アンドリュー=ミキサーシャという肩書が書いてあった。

「楽団って君は……」

 と、その時、店の扉が勢いよく開いて、ドアベルがけたたましく鳴った。

「アンドリュー! お前余計なことをするなと言っただろう!」

 怒声と共に入ってきた青年は、金髪のくせ毛に青い瞳、洗いざらしの白いシャツにモスグリーンのサスペンダーを履いていた。

「チッ、セロの奴使えない」

 アンドリューは鼻筋を歪めて不機嫌を表した。あとから入ってきた青年はずんずんとこちらへ近づいてくる。そして、深々と頭を下げた。

「遅れてすいません。巨人のピアノの件、お話に伺ったジョバンニです。道具屋のトールさんですね。祖父がお世話になりました」

 顔を上げたその青年には、かつてのジゥのような丁寧な人との向き合い方が窺えた。

 それにしても、

「どうなってるんだ?」

 トールが聞くと、アンドリューは苦々しそうに舌打ちをした。


 三人は席を移して、トールとアンドリューはブレンドを、ジョバンニは水を啜った。

「まずは説明してもらえるかな」

「この仕事は受けられません。こいつの将来のためにも」

「いいんです、気にしないでください。(お前、帰れよな。)」

「僕がお前だけのためを思ってきているとでも思っているのか? 楽団全員の意志を僕は代弁しているんだ」

「話が見えないな」

 どうやら話を聞くに、今回の件をジョバンニと楽団サイドで揉めているらしい。というよりもハナサキにある音楽院サイドと言った方が正しいか。スーベヌがジョバンニに巨人のピアノの件を話に行った際、ジョバンニは駆け出しの調律師として、また祖父の思い出のピアノの再現できると大層喜んだそうだ。しかし、ルームメイトのアンドリューが話を盗み聞くに、調律するのが、あの悪名高いレナード=カステナードのピアノと知り、楽団のピアノを調律しているジョバンニの評判が悪くなることと、それによる契約を解除されてしまうかも知れないことを恐れて、アンドリューが口を挟んだようだ。

「不利益は被らない方が良い。そうでなくともお前は大事な時期だろう」

 アンドリューは、テーブルに乗せた右手に体重をかけながら、隣に座るジョバンニに忠告する。

「フリーランスに戻った時を考えろ。またあの極貧生活に戻りたいのか?」

 育ちのよさそうなアンドリューに対し、ジョバンニは少し痩せこけていた。白いシャツにも落としきれていない油染みが幾つもある。

「別に俺はあの生活が悪かったなんて思っていないんだよ、アンドリュー。多少の苦労は若いうちにしておくもんだ」

「生活費をまともに支払えない奴が、ピアノの勉強を満足できると思っているのか? チャンスは転がっているものじゃない。遊びでやっているんじゃないなら一本の蜘蛛の糸を手繰るようにそれ以外のことは排除する覚悟をしろ。お前の方が甘い考えだって言ってるんだ」

「たかが同居人がなに人の人生にまで口出してるんだ。俺はお前のように用意された環境じゃない。お前の哲学と俺の哲学じゃ根本が違うんだよ。大体お前はいつも俺のやることに口を出す。世話でも焼いているつもりなのか? 迷惑だっていうのがどうして伝わらないかなぁ」

「僕は自分に相応しいものしか認めないだけだ。至らないお前が目に余る」

「だったら出て行けよ。その方が清々する」

「あの部屋の家賃がお前に払えるのか? 馬鹿はこれだから」

 よくもまぁこんなに仲が悪くて、ルーメイトなんてやっていられる。

「まぁまぁ、そう角を立ててちゃお互いに疲れるだろう。事情があるなら俺は他を当たることも考えるし」

 トールは仲を取り持ち、ウエイターを呼んだ。

「すみません、甘いものはありますか? 二人も何か食べるかい?」

「結構です」

「……結構です」

 トールは静かに今日のおすすめのモンブランを頼み、珈琲を啜った。

――気まずい。

 トールのケーキが運ばれてくる間、三人は無言のままいたずらに時を浪費した。

「……俺、一度だけ爺ちゃんのピアノを聞いたことがあるんです。俺の家はヘールゲルの片田舎にあるんですけど、爺ちゃんの老後について話しに行った時、両親は散々一緒に暮らそうと言ったのに、爺ちゃんは頑なにここにいるって決めていた。ここでの暮らしが大切なんだって言って。両親が帰りの馬車を手配している時、爺ちゃんはピアノを弾いてくれた。これに自分は生かしてもらっている。その恩は一生かけて返さなきゃいけないって」

 ジョバンニは思いつめたように真剣にそう話した。

「俺もね、ジゥさんには教わりっぱなしなんだ。ジゥさんと仕事をしてから街で生きていくことを考えた。生きていくために仕事をしなくちゃいけないと思ったら、仕事ってのは途端につまらなくなってしまう。誰かのためとかありがとうを言われることとか自分が役に立つ人間だなんだという日々の証明が次の仕事に繋がっていく。この街の人は優しいけど、一人で生きていくためにはたくさんの意見を聞く耳と、その真贋を見極める眼と、危険や誘惑を嗅ぎ分ける鼻、最後は自分の頭でだけ決断が下せる。友人の助言が自分の妨げに感じるのは恥ずかしいことだ。でも歩いていきたい道が狭きものなら、出来るだけ慎重になった方が良い」

 トールは半ば諦めも込めて、モンブランにフォークを入れた。

「レナード……さんの噂は聞いています。あの人は音楽に対してもピアノに対してもストイックだから客に対してもそれを望んでしまう。彼のピアノはまだ聞いたことがないけど、本物と偽物の区別くらいつきます。変人だけど一流の力は確かに持っている。そんな人がピアノを粗末にするとは考えられないんです。仕事を受けるにしろ受けないにしろそこが確認できないと、本当なら判断してはいけない。ですが……」

 ジョバンニはそこで言葉を区切り強く言った。

「受けた仕事は断りません。爺ちゃんとの約束なんです。どんなピアノも俺が本物にして見せます」

 真っすぐ見据える彼の眼差しは危険だった。純粋でいることは、許されない領域がある。レナードが自分の我を通して孤立することと、ジョバンニの自分や憧れを信じて真っすぐに進んでいくのは、同じくらい危うい。誰もがここにいたいと思って生きている。ここだけが自分の居場所なんだと強く思えた時、人は不遇を克服し幸せになれる。思いが強ければ強いほど、人生の困難は過酷になっていく。後悔は先には立ってはくれない。それまで教訓をくれた人が幾らいようが、最後は自分と自分の出した決断だけが残る。成功の法則なんて、割とどこにでもありそうなものなのに、自分と完璧に重ね合わせられる例は思いのほか少ない。世の中、結局やって行ける奴とそうでない奴の違いは運と、突き詰めた人間関係と、あとは資金力に尽きる。トールはこの純真な青年を厄介な仕事に巻き込んだことを反省した。

 アンドリューは頬杖を突きながら、鬱屈としたため息を吐き、トールも顔を拭う素振りを見せた。その時、ドアベルが鳴り、一人の客が入ってきた。土埃をまともに受けたレナードだった。レナードが埃を払うと、白茶けた砂の細かい粒子が店の入り口に舞った。レナードの口元には殴られたような傷があった。トールたちはレナードの顔を見るに、一瞬気まずそうな表情をして、ジョバンニだけがレナードに駆け寄っていこうとするのを、アンドリューが腕を掴んで制した。レナードはトールの顔を見、そして状況を把握した。そのままレナードは喫茶店のオーナーに、珈琲豆を挽いて詰めて貰うように頼んで、それが出来るまでカウンター席に腰を下ろした。

 トールは嫌なタイミングだったが、自分の口からレナードに依頼を断ろうと思ってレナードの傍に行った。

「レナードさん。ちょうど今、あなたのピアノについて話していたところです。今回の件だが……」

「貴様ら、これから少し時間はあるか?」

「いえ、もう仕事に戻る……」

「頼む、少しでいいんだ」

 レナードの様子に、ウエイターがびっくりして目を丸くしている。三人は顔を見合わせて、渋々頷いた。


 レナードの後について行き、トールとジョバンニは古びたバーに入った。アンドリューはここまで来たら後は自分で答えを出せ、その答え次第で自分の身の振り方も考えると言って別れた。

 レナードは、バーの一番高くなっている特設のステージにある、幌に包まれているそのピアノを見せた。レナードが幌を勢いよく取ると、中には粉砂糖のように白いグランドピアノが眠っていた。丁度明り取りの天窓から薄陽が射して証明の代わりをしていてピアノがまるで真っ白く発光している。

「ベヒモス。こいつの名だ」

 レナードはそう言いながら屋根を開け、突き上げ棒を立てた。

「頼みとは一曲聴いてくれということですか?」

「いや、違う。このピアノは今死んでいる」

 レナードはそのまま鍵盤蓋を開け、キーカバーを畳むと、鍵盤に指を置いた。トールはジョバンニと顔を合わせると、その意味を窺った。レナードが鍵盤を叩く。しかし音は鳴らない。空を叩いているような乾いたスカスカという打音が響くばかりだった。

「このピアノを調律してほしいという依頼ですか」

「テンションがめちゃめちゃだ、これじゃピアノとは言えない」

 トールとジョバンニが言うとレナードは二人に向き直るように座ると、頭を下げた。

「このピアノ、弾けるようにしてくれ。これが最後なんだ」

「最後……?」

 レナードは頭を上げない。拳は固く握られプルプルと震えている。一体何がレナードの心境を変えたのか二人は訊いた。

 自分の悪名が街に浸透し、レナードはピアニストとしての居場所を失いつつあった。

自分のようなものを置いておけるバーですら、ほとんどなくなった。レナードが最後に行き着いたのは、自分が幼少の頃の古なじみの幼馴染の元だった。元々ショー劇場をしていたその古びたバーは、レナードが帰った時、既に経営難が続き、店を閉めようとしている最中だった。バーの主人は、久しぶりに帰ってきた友に冷たかったが、やっと一緒に酒が飲めるようになったなと、カビ臭いカウンターで向かい入れてくれた。話し込むうち、鬱積とした思いがレナードを満たしていった。完壁な音を目指している自分に比べ、上手く立ち回って成功を収めている奴がいる。自分のやりたい我を通して何が悪いんだ。世に悪態をつきたかった。それも同じ失敗者の友を見ていると、灼けるように熱い酒を呑んでいるはずなのに、冷たい鉛のような何かが喉奥を通っていく気分だった。このまま終わってしまうのか。結局何者にも成れずに。最高の音色を見つけることも出来ずにピアニストではなく、一人の人間としての人格が足を引っ張って、絶望の淵に引きずられていく。レナードは堪らず一台のピアノを買った。自分の悪名もあり借金をこさえて、世にも美しいそのピアノを買った。ただ最愛のピアノは無垢な少女ではなく、くたびれた娼婦の成れの果てだった。調律以外のことは何でもやった。上っ面を蘇らせることは出来ても、調律を頼めば、レナードを受け入れてくれるところは無かった。あのレナードにピアノを弾かせてなるものか、そういう意志を感じた。レナードはつまらない意地の招く自分の信用のなさを噛みしめた。たった一人では何もできない。それを噛みしめた。

 ジョバンニは気まずそうに空を仰いだ。やりきれない思いだった。志というものは実らなければただの毒にしかならない。どんなに崇高な思いでも、たかだか自分を通すだけのものでも、胸に抱き続けているうちは、世の中の既に上手くいっている者との衝突は避けられない。そこで自分が折れてしまうようなら、そんなものなら死んでしまった方が楽と本気で思っている。

――この人は未来の俺なのかもしれない。

 そう思った時、手を差し伸べてあげたい衝動に駆られる。待っているのは破滅かもしれない。憐れに見える彼は、冷静に見れば死神にとり憑かれているのかもしれない。それでも祖父ジゥに教わった職人としての生き方は、どんな人であれ、一流の仕事をして一流の信頼を築くことではないのか。一等寂しい思いをしたものは、優しくなれるはず、とは甘い考えかも知れないが、真に信頼を築き上げるものは、清濁併せ吞む度量がなければならないと、どこかで思うところがある。

 ずるいとトールは思った。こんな情に訴えかける方法をとるのは、大人の仕事人としてのやり方に反する。もしこの仕事を断ったら、そっちの方がトールにとってリスキーな話になってきた。とはいえ内面的なリスクだ。落ち目にある人間など見捨ててしまえ、庇いだてすれば自分の信用問題になると頭の片隅で警報が鳴る。トールは考えていた。自分なら何とか出来そうなプランがないわけではなかった。しかし、それを提示するにはそれ相応の責任を伴う。トール自身、自分一人で生きてきたつもりは毛頭ない。大勢の人達と関り、その中で責任と信頼のやり取りをしての今だった。それでも今回の件は、二人の人の人生に関わる案件だ。トールにはこれまで積み重ねてきた信頼の貯金がある。たった一回の失敗で終わるような、この街の客との付き合い方をしていない。青年ジョバンニ。彼が発展途上の今、道を誤ったらそこで立ち折れてしまうことだってあるだろう。それに、今回のことで失敗があった時、確実にレナードは今以上に失脚することになる。

「ジョバンニ君、ちょっと」

「はい」

 トールとジョバンニはバーの外に出て密談をした。

「今回の件どう考えている? 一人の職人としての意見が聞きたい」

「正直、関わらない方が良いと思います。だって誰がどう見ても関わる人の今後にプラスになるとは思えない。損得で勘定するつもりはありませんが、わざわざババを引くこともないと思います。でも、本音は手伝いたいです。理由は……可哀想だな、って思ってしまうんです」

「可哀想だというのは、強者だから言えることなんだよ。君は彼よりマシな生き方をしているかもしれない。でもそれを許容したいと思うには、それはもう君の持っている愛情の深さで物事を判断しているってことさ。俺はそれほど彼に肩入れできない。俺が君のやりたいこと、やり方は間違っているというのは簡単だけど、それは君の道を歪めてしまうことにもなる。その責任をどう取るかという話にもなっているんだ」

「それはトールさんがこれを仕事の一つとして見ているからではないんですか? 音を作る、創作なんです。これは領域の話でもあると俺は思うんです。仕事として義務と責任でやるのか、自分の満足のいくものを作るのか。そう、そうなんだ。これはアーティストとしての領域の話なんだ」

 ジョバンニは閃いた顔をして自分の開いた両の手を見つめた。領域。自分の中にある価値観をどの位置に置くのか。何かを作り上げる時にある美。トールはその美を持っていても、ある一線を置いて、自分には縁遠いものだと位置づけている。だからこそ独り身の道具屋としてやってこられた。アーティストの領域の話と言われればそうかも知れない。人と何かを作り上げる時、価値観はぶつかり合い、意見は対立し、優劣がはっきりする。そういうことを自分は避けて通ってきた。なるべく意思が入らないような仕事を心掛け、それをたった一人で向き合うことを言い訳に、協働することを避けてきた。そのツケが回って来たのか。だが、志が共に抱ける者だったら、トールの考える仕事の流儀は通用しなくなる。ジゥと巨人のピアノの音を作り上げた時もそうだった。これを仕事と分類していること自体間違いなのかもしれない。それでもあまりにリスクが大きすぎる。トールはもう一度考えた。もし自分が今回のことを断ったとしたら。ジョバンニはレナードのピアノを自分なりに調律するかもしれない。それでコンサートが開けたとして、大団円を迎えることが出来るのか。今回ババを引いたのは確実にトールだった。ピアノを弾きたいレナードよりも、ピアノを調律したいジョバンニよりも、この仕事に関わるべきではないと思っている自分こそが、最終決定を下せる。

――君に預けた力は君のために使ってもらって構わない。才能は力を行使できるものにこそ宿るものです。

 不意に去年、シープコプコフに来た勇者エルトキアスがトールに言い残した言葉が思い出された。その意味を考える。トールは自分が力を行使しさえすれば、この一連の物事を解決できることを自覚していた。それでも……。

「すまんが、この仕事手伝えない。好きなだけ恨んでくれて構わない。俺は俺の生活を守るためには何でもする、だから今回のことは受けられない」

「そうですか。トールさん、あなたは冷静なのかもしれない。でも卑怯な人です。わかりました。レナードさんには僕なりの調律をします。巨人の音ではないかもしれませんが、僕が一流の音を作って見せます。出来ることがあるのにそれをしない人とは一緒に仕事をしても何にもならないでしょう」

「何と言ってもらっても構わない。俺には俺の事情がある」

「あなたはそういう人なのでしょうね。他人のことを思っている建前の後ろで結局自分の損得を考える。でも独立してやっていくには、そういう強かさが必要なのかもしれません。僕はまだ迷いたい」

「君が引き返すことが出来なくならないように祈るよ」

 そう言ってトールはジョバンニと別れた。レナードにも改めて仕事を断ると、トールの胸にはごつごつとした岩を飲み込んだように、苦々しいやりきれない思いが犇めいた。レナードは残念そうな顔はしていなかったが、ただ一人では音を奏でられないベヒモスを名残惜しそうにじっと見ていた。


 あれから数日経った。トールは自分がしたこと、出来なかったことをずっと考える日々が続いた。本当にこれでよかったのか。自分は正しい選択をしたのか。考えても考えても絵も知れぬ後悔ばかりが目の前にやってくる。こういう決断もしなくてはやっていけないと、心の中の言い訳の音量を上げて必死に耳を塞いでいる。センチメンタルになるということは、自分がそれだけ正義に敏感だからだ。人としてどう生きるかに正しさというものは邪魔になることが多い。でも正しさがなければ、人は自分を律して真っ当に歩むことが出来ない。人間はいつも正しさの中で喘いでいる。苦々しい思いはこうして酒を呑み下しても胸の中に閊えたままだ。そう思って氷に波打つ酒を見ていると、隣で呑んでいる客の声が聞こえてきた。

「聞いたか? レナードの奴、今度のリサイタルを最後に街を出るらしいぜ」

「やっとアイツもこの街に居場所がないのに懲りたか。いや~清々するねぇ。勝手気ままが許されるほど世の中甘くないのが身に染みただろう。あんなろくでもない奴、ハナサキに相応しくない」

「全く持ってその通りだ。ピアニストのくせに音楽がどういうものかもわかっていない。自分のピアノの音が好きならどうぞ自分の家で一人でお弾きになって下さいってんだ」

 聞かないと思っても、つい耳がそばだつ。酒を煽りながら大声でレナードを罵るその二人は、赤ら顔でこう続けた。

「どうだ? 奴の最後のリサイタルを台無しにしてやるってのは?」

「いいねぇ。どうするんだ?」

「前にアイツに酒をかけられた客がいたろう。アレを一番の盛り上がりでアイツにやってやるんだよ。きっと演奏どころじゃなくなるぞ」

 聞き耳を立てていたトールは、一瞬立ち上がって抗議をしようと思ったが、何とかそちらを睨みつけるだけに留まった。様子に気づいた二人は、よそよそしい雰囲気になり、酒を呑み下していそいそとバーを出ていった。


『レナード=カステナード・ラストライブ:ウルフェットランチ19:00~より開演』

 レナードの晴れ舞台を開く、バー『ウルフェットランチ』に静かに客が集まりつつある夜、トールはその中二階にある立ち見の観客席の物陰に身を潜めていた。客の入りはまばらだったのでここまで入ってくることは無いだろう。

 あれから結局レナードとジョバンニの二人には顔を合わせていない。トールは自身の独断での行動に、こんな状況にもならないと自分の責任を果たせないことに苛立つ。一生懸命になっている人に対して、自分は陰ながらサポートすることしか出来ずにいる。これが自分の背負った業なのだろうか。

 開演はもう間近だという時にあの二人の客が入ってきた。二人は、時間のことを気にせず注文を始めた。トールはじっとその二人を注視した。バーで聞いた二人の計画に、ウルフェットランチの主人に二人の出入り禁止するように進言したが、ただでさえ余っている席に、レナードもどんな客が来ようと俺の客だと、入店に制限はつけないという強い要請があった。なので、店主は断り切れなかったようだ。自分も演奏を見守ろうと決めた。ただ見守るだけではない。演奏が妨害されないように、レナードを守るために潜入の形をとってはいたが。

 トールの両手の指全てには銀の指輪がはめられていた。セルゲィストレフツ。それはトールが勇者との旅で託された法具だった。法具とは魔法道具の略称で、魔力の込められた道具を意味していた。魔力が使えなくても、使い手の意志によって道具を通した魔法に似た不思議な力を扱うことが出来る。勇者の超人的な魔族との闘いの中で、サラのような魔女や、マエストロのような賢者、勇者の使徒以外の人間が助力しようとすれば、法具の力を必要とする。トールのセルゲィストレフツはその中でも最も劣位の、細くて薄くて硬い人には見えづらい糸を自在に操るだけの法具だった。

 時間になり、舞台袖からレナードが現れた。拍手はまばらで歓迎されているような雰囲気はなかった。天板が開いて準備万端のベヒモスの前に、レナードが座る。鍵盤蓋を開けて、演奏を始めようとした時だった。

――やめちまえ!

 どこかからヤジが飛んだ。そのヤジに会場はせせら笑ったようだった。トールはそんな心無い人たちの口を結んでしまおうとも考えたが、ぐっとこらえてレナードを見た。レナードは冷静だった。溜息ではなく軽く息をふっと吐き、ゆっくりと鍵盤に構えた。白い鍵盤に触れるその一瞬、レナードは邪悪なものが通るような確かな禍々しい空気を纏った。

 張り詰めるようなドーンと低い低音の重たい超高速の速弾きから始まって、それに合わさって高音のキレのあるトリル、ハッとするほど重苦しい緊張感のある出だしだった。ワッと肌を打つはっきりとした音の波動に、ジョバンニが巨人のピアノの音を再現したのが分かった。何故そんなことが出来たのだろう。ジゥのピアノを一度だけ聴いたことのあるといっていたあれが巨人のピアノに調律した時のものだったのだろうか。本人は巨人のピアノと知らずに、レナードと共に練り上げていく段階で、自然とその音色を極めたのかもしれない。どっしりとした巨人のピアノのように、レナードの演奏は、岩や石をイメージさせた。それは黒く硬い黒曜石でもあり、白く滑らかな大理石でもあるようだった。音色は至ってダークにまとめられていた。艶のある色っぽい高音の得意なレナードの新たなる一面。それが進化なのか真骨頂なのかこの時点では判断しかねるが、レナードが鍵盤を叩くたびに、硬いものをぶつけられている感じがして、一瞬も弛緩することを許さない音の暴力が襲ってきた。それは決して心地いいものではない。それもどんどんと加速していく。何か人間のものとは思えないほどの鬼気迫る感じがした。怪物だ。まさにベヒモスという名の怪物の足音。それでもその中に迷いのない緻密な計算と、気を抜いていては置いていかれそうな、いや、客なんてとうに置いてけぼりになる緊迫感に息を呑むのさえ忘れていた。一つの世界が姿かたちを持って暴れているかのようだった。あまりの音色にトールも圧倒されてしまい、しばし自分のやることを忘れてしまった。不意に音色が鈍く歪んだ。レナードは額に汗を垂らし、その暴力を自分の内に押し留めておくことが出来ずにいるようだった。力を持て余して喘いでいる。今にも爆発しそうな風船を前にしているような、吐き出しても吐き出しても内から留めなく音楽が湧いてくる。その苦しみに耐えながら、一筋の汗が顎を滴り鍵盤に落ちて演奏が止まった。その一瞬の隙を見て、あの騒ぎを目論んでいた客がビールの入ったジョッキをレナードに振りかぶるのが見えた。

 トールは指先を瞬時に動かし、セルゲィストレフツの放つ弦でそれを受け止めた。レナードの顔の傍、宙で波打ったビールジョッキは一瞬静止し、あらぬ方向へと誘導された。二人は、一瞬何が起きているかわからなくなったが、自分達の思惑が成されなかったことに憤慨し、今度はナッツの盛り合わせの乗った皿を持って振りかぶった。

――一粒も音を立てずに受け流す……!

 と、トールは両手を前に構えた。しかし、それには及ばなかった。というより事態はさらに混乱を極めた。ビールジョッキを投げた客の隣の客が、振りかぶっていた腕を抑えて、あまつさえ二人に殴りかかってしまった。殴り飛ばされた先で二人は、テーブルの上のものをなぎ倒し、トールは何とかその食器が割れるのだけは止めようと、セルゲィストレフツを操ってはいたものの、騒動は治まらず、喧嘩に発展した。会場は悲鳴や男共の暴れる音と、何故か割れることのない食器の不思議さも相まって、大騒動になった。そんな中でもレナードはピアノを弾いていた。あの少しの音でさえ過敏に反応するレナードが、騒動のボルテージが高まるのに合わせて演奏をテンポアップした。

――かははははは。

 レナードは笑いながらジャズを弾いた。騒動がもっと盛り上がるように、そんな中演奏する自分のことも自嘲して。レナードが笑ったことで騒動の一部が静まった。つられるようにしてその波は全体に行き渡り、いつの間にか大笑いしながら楽しそうにジャズを弾くレナードだけが残った。そこで曲調が切り替わる。打って変わっての軽快なスタンダードナンバー。これまでのことが伏線だったと言わんばかりにレナードは完璧に間を制した。快活なフレーズは音符が進行するごとに軽快さを増している。硬く重かった低音でさえスキップしているかのようだ。そんなレナードの生まれ変わったプレイに観客は殴って気づかされたように、歓声と指笛を鳴らして応えた。

 一時はどうなることかと思ったが、トールはここまでくればもう大丈夫だろうとセルゲィストレフツを納めた。

 レナードはそれでも観客の声援が鬱陶しくて、開いた口を塞がせるように客席へ音を飛ばしていった。この男は客と喧嘩をしながら音を作っていく。思わず何かその場に立ち止まっていられないような音を。それは二階席のトールのところまでしっかりと響き、ピアノ全体から音が響いているのが分かった。ベヒモスと一体になったレナードは、最早無敵艦隊のように頼もしく思えた。不意に舞台袖でこちらを注視しているジョバンニと目が合った。ジョバンニは一度目を反らしたが、トールに向き直り、ぐっと親指を立てた。魔法のような夜が更けていく。トールは満足そうにこの夜に酔いしれることに安堵した。

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道具屋トールの日常 柳 真佐域 @yanagimasaiki

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