愛の端緒は、ルーズリーフに閉じ込めた恋

市亀

書き続けた無数の紙は、今もこの家に眠っている。

「次、遠麻とおま

 古典の授業、先日の定期試験の返却。学生の誰しもがハラハラとする時間ではあったが。遠麻とおま誠治せいじには、鼓動が早まる別の理由があった。

 教壇の前に進み出ると、答案を確認していた九瀬くぜ先生の目が遠麻に向く。まだ慣れない、近い距離。この高鳴りが、どうか伝わりませんように。

「はい、どうぞ」

 82点。今回の平均点が高めだったことを差し引いても、遠麻にとっては大きな飛躍だった。先生の前では表情を保とうとしていたはずが、思わず笑みがこぼれる。

「よく頑張ってるじゃん、しっかり聴いててくれるの嬉しいよ」

「――はい、ありがとうございます!」

「うん、この調子でね」

 爽やかに笑う彼女に、バカ正直な心臓が跳ねる。それを抑えながら頭を下げ、席に戻る。

 

 改めて、答案を見返す。教科書範囲、先生が解説していた読解系はよくできているのに対し、理解の苦手な文法で失点が目立つ。「差をつけるため」と出題された、授業で扱わなかった応用問題は芳しくない。

 先生の期待通りの生徒にはまだ及ばないだろうが、自身にとっては手応えのある結果だ。

 何よりも。全問正解だったセクションに躍る、高校では珍しい赤の花丸が、たまらなく嬉しい。「つけるのも貰うのも楽しいでしょ、花丸」と笑う先生が、脳裏をよぎる。


「全員返したよね? じゃあこれから解説していくから」

 試験の問題と答案、教科書、参考書、ノート。机の上にあるのは、他のクラスメイトと同じ教材のセット。

 だが遠麻の場合、ノートの陰にもう一つ、ルーズリーフを忍ばせている。

 板書やメモを記すためのものではない。

 教壇に立つ先生の、言葉を、仕草を、その場限りで消えていくそれらを、刻んで残していくためのルーズリーフだ。


 *


 九瀬くぜ文香ふみか先生。国語科。年齢は恐らく二十代半ば。三年生の副担任。女子バスケットボール部および報道編集委員会の顧問。

 ショートヘアの似合う爽やかな、少し男っぽさの覗く風貌に加えて。生徒の目線に立った指導の姿勢、テンポのよい分かり易い授業から、多くの生徒に人気の先生だ。特に一部の女子生徒からは、先生というよりお姉さん、あるいは「お兄さん」的に慕われている。

 遠麻も当初は大多数の、「いい感じの」先生としか捉えていなかったのだが。

 それが「好きな先生」に変わり。

 その「好き」が、敬愛や好感とかではない、恋としか呼べない感情だと気づいた、そのきっかけは分からないが。

 今の遠麻は、確実に九瀬先生に恋していて。しかし立場上、告白して付き合ってどうこうという流れは無理な――少なくとも一般的には認められない訳で。

 自分が卒業したときに先生が独身なら、あるいは、という希望は持っているものの。一年生である遠麻にとって、それは果てしないゴールであり。


 行き場のない恋慕への向き合い方を探した結果。

 ますは、九瀬先生にとって「いい生徒」になろうという、笑えるくらいに模範的な方針を見出していた。事実、以前は好きではなかった国語の成績は伸びている。


 もう一つは、「先生の姿を残す」ことだった。

 ほぼ唯一の接点である授業では、一日に数十分間も彼女を見ていられる、声も聞ける。それらをできるだけ覚えておこうと、会っていない時も思い出せるようにしようとした遠麻だったが。ほどなくして、あれほど鮮明に覚えていたはずのそれらが、徐々に頭の中で欠けていくことに気づいた。

 気づいて、怖くなった。記憶の中での姿が、薄れることが。


 その対策として考えたのが、授業中の先生の言動をこっそりとメモしておくことだった。

 ルーズリーフにシャープペンシルを走らせる、それだけの行為が。遠麻には、宝の地図を辿るような胸躍る時間だった。好きな人との時間をアルバムに綴じていくような、ときめく時間だった。

 

 日直が消し忘れた、前の時間の日本史の板書を見ながら、史跡めぐりの思い出話をしたこと。

 小説を音読するときに、一瞬、浸るように天を仰ぐこと。

 古文で「入る」を「はいる」と生徒が読んだときの訂正の仕方が、段々と幅広くなっていること。

 活用形の暗誦を噛んだときに、子供っぽい表情が覗くこと。

 漢文を原語で読んでみせるときに、生徒に全く分からない発音の違いにこだわること。

 女バスの試合の後、身体の痛みをしきりに気にしていたこと。


 好きな作家。行った場所。思いでの作品。遠麻には馴染みのなかった、いくつもの固有名詞。


 他が忘れていくような一つ一つ、遠麻は全て書き残して、思い出す。


 そんな、ルーズリーフで出来た宝箱のことは、誰も知らないはずだった、のだが。


 *


 ある日の掃除の時間。教室担当だった遠麻は、クラスメイトの男子に声を掛ける。

「なあ飯田いいだ。今日お前が九瀬先生と話してた小説あるじゃん」

沙淵さぶちさんの『緋色の梟の鳴く夜に』のこと?」

「多分それ。読みたいんだけど、良かったら貸してくれね?」

「構わないけど、お財布に余裕があれば買ってみ」

 ガシャン。

 音に振り向くと、柚守ゆずもりという女子が、机を運ぶ途中で濡れた床に足を滑らせたようだ。すぐそばにいた坂井さかいに支えられ、転びはしなかったものの。バランスの崩れた机から、中身が床に落ちる。――あれ、あの机は。

「遠麻くんのじゃん」

「だな」

 

 その中にある例のルーズリーフは、一見すればただの板書にしか見えないとはいえ、目に触れさせたくない。早く片付けるべく、足早に歩み寄る。

「ありがとう、日和ひよりちゃん」

「いいって、ユズは怪我は?」

「大丈夫――あ、遠麻くん。ごめんなさい、落としちゃった」

「いや、誰でもあることだし」

 答えながら、ルーズリーフの入ったファイルを探す――あった。

 しかし遠麻がファイルを拾い上げるより先に、柚守の視線がそこに釘付けになったような気配がした。構わずに、引き出しの中に押し込む。


 咎められずに済んだと、そのときは思ったが。翌日の始業前、柚守に声を掛けられた。

 話があると言って連れていかれたのは、人気のない屋上への階段。内緒話には向いているような、定番すぎて不向きなような。


「あの……昨日さ、遠麻くんの机の中身、見ちゃったんだけど」

 交流が少ないなりに、柚守は控え目な女子だとは感じており。今も、男子である遠麻を前にひどく緊張しているようだった。

「何か気になった?」

「うん。九瀬先生のこと、いっぱい書いてあるメモ。あったよね」

 それだけ緊張しても問い質したいことならばと、正直に答える。

「好きな先生だし。色々残しておきたいなって」

「その、好き、は。生徒として、かな」

 固く握られた手、震えそうな声、まっすぐな瞳。その先は誤魔化そうという意思が、消える。


「九瀬文香さんのこと、女性として好きだって言ったら?」

「もし、そうなら。そのこと、先生には言わないで――知られないようにしてくださいって、お願いしたいです」

「なんで、」

 想いを塞ぐような言葉に、反駁が口をつく。

「なんでそんなこと、柚守に言われなきゃいけない」

 遠麻が思っていた以上に強い口調に、柚守は身を竦ませたが。


「先生、お付き合いしてる方がいて。結婚も考えていて。けど先生は、優しすぎる人だから。生徒相手だから拒んで当然なんだとしても、自分を好きでいてくれる気持ちを拒むことに、すごく苦しんじゃうから。ちゃんと、まっすぐに、幸せになってほしいから」

「……だからって、何も伝えるなって」

「分かってます、遠麻くんに指図する権利なんて、私にはないです。だからこれは、私の我が儘です。

 先生のことが好きで仕方ない、私の我が儘です」


 そう言ってから、柚守はルーズリーフの束を遠麻に差し出した。

「これが、私、です」


 描かれていたのは、九瀬先生だった。あらゆる表情の、あらゆる瞬間の先生が、何枚もの紙の中にいた。柚守の「好き」の深さが、否応なしに分かる。

 柚守もまた、報われようのない想いを、紙とペンにぶつけるしかなかったのだろう。大好きな人の心の平安を、何としても守りたかったのだろう。その感情の熱さが、遠麻の心をほぐしていった。


「分かったよ、絶対に伝えない、他の奴にも言わない。

 だからさ。柚守にだけは、ぶつけてもいいかな」


 返事を聞いた彼女は、安堵したように大きく息を吐いて。

「うん。私も、この気持ちを聞いてほしい。あと、遠麻くんが書いてきたメモ、読んでみたい」

「俺も。柚守の絵、もっと見たい」


 *


 こうして。秘めた想いを抱えた同士は、たびたび一緒に過ごすようになり。

 先生にまつわる色々な記憶を、見つけた「好き」を共有して。笑ったり、はしゃいだり、泣いたりしているうちに。

 一緒にいる時間、それ自体が心地いいと気づいたのは。滑稽なようで、ごく自然なことだったのかもしれない。


 憧れに届かかなかった、手と手をつないだ。見上げるばかりだった、瞳と瞳を交わした。

 そして、季節は巡り。


 *


 目の前には、綺麗な――覚悟していた以上に綺麗な、ウェディングドレスに身を包んだ九瀬先生がいる。

「おめでとうございます。大好きだった先生が幸せそうで、俺たちすごく嬉しいです」

 大好き、という言葉の裏側の気持ちは、消え切ってはいないけれど。

 全霊で祝福を贈りたいのは、本当なのだ。


「ありがとう、いい生徒に祝ってもらえて先生も幸せだよ。だから遠麻と柚守も、幸せにね」

「ええ、時期はまだ遠いですけど。先生の生徒ですから、きっと上手くいきます。幸せになります」

 そう言って遠麻は、泣きすぎて上手く喋れない柚守の手を握り、先生に見せる。


 絶対に言えないことなんですが。先生が、つなげてくれた手です。


 そして、ふたりで作ってきたメッセージカードを手渡す。

 白い紙に柚守が描いた、先生の絵も。遠麻が記した、お祝いの文字も。

 気の遠くなるくらい、ふたりで練習して、こだわった。

 受け取った先生は、期待していた何倍も、嬉しそうな顔をしていた。


 それは、片想いの痛みが全て溶けるような。今つないだ手の温もりが、このうえなく愛しくなるような、美しい表情だった。


「幸せになろう、な」

「もう、幸せだよ」

 

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