紙と、ペンと、ひとすくいの悪意

λμ

『知ってるよ』

「ちょっと話があんだけど」

「……えっ、何? 突然」

「いいからちょっと来てくれよ」


 昼休み、教室の片隅で交わされた一組の男女のやりとり。

 耳を澄ましていた佐藤さとうはひっそりと笑いを噛み殺した。


「来てって……何? ここじゃダメなの?」

「いいから来いって!」


 男子の腹の底で膨れ上がる怒気が透けて見えるような口調に、教室の温度が下がった。言われた女子は顔をしかめて席を立ち、その背に、周囲にいた子が心配そうな視線を送る。


 男子が、教室の外へと、女子の背中を追い立てていく。顔を強張らせた男と、わけがわからず困惑する女。まるで警察と捕らえられた容疑者だ。


 ――実際、似たようなものではあるが。


 教室の引き戸が乱暴にしめられたのを見届け、数秒待って、教室中の視線が一組のカップルが出ていった出入り口に向いているのを横目で覗き、佐藤は席を立った。


 がりり! 


 と、椅子の足と床が擦れて耳触りな音を響かせた。停滞しかけていた教室の空気が流れ始める。誰もが緊張の糸を断ち切ってくれるきっかけを欲していたのだ。


 佐藤はいよいよ吹き出してしまいそうな可笑しみをこらえ、教室を出た。これから始めるだろう痴話喧嘩を見に行くためだ。

 

 場所はどこだろうか。校舎の裏? 空き教室の前? わくわくしながら廊下に出ると、その先で、階段に向かう角を曲がる二人の姿が見えた。


 まぁ、やっぱり屋上扉の前だよな。


 どういうわけか、これまでの五組中、二組は同じ場所で口論を始めた。人が来ない場所は他にもあるだろうに、なぜかあそこだ。


 あそこ、呪われてるんじゃないの?


 と、佐藤は自然と吊り上がる口角を手で覆い隠し、目立たぬように二人の後を追った。早足にならないように、音を立てないように上へ向かう。


「だからこれはなんだってんだよ!」


 階段室の天井に、床に、壁に、くぐもった怒声が反響した。

 ぶっ、と、佐藤は思わず吹き出しそうになった。上靴を脱ぎ、声に近づいていく。


「だから、正直に答えろって言ってんだよ。してんだろ?」

「してないってば! なんで信じてくれないの?」

「だったらこれは何なんだよ! 書いてあんだろ!? 『あなたの彼女、浮気してますよ』って! してんだろ!?」

「してない! してないってば!」


 階段の陰に隠れてやりとりを聞いていた佐藤は必死になって笑い声をこらえ、身を捩った。ほんとにしてませんよー、なんて心のうちで呟き、くつくつと嘲笑う。


 同じ学校の、同じ学年の、しかも同じクラスで付き合うのが悪い。せめて違うクラス同士で付き合っていたなら、手出しはしなかった。


 学校は勉強するところですよー?


 佐藤はごく微かな声で呟き、また嘲笑った。


 ばしん! 


 と、何かを叩き落とすような音がした。いよいよ、クライマックスだ。


「もういいよ! なんで私のことは信じないで、そんな紙切れのこと信じるの!?」

「痛ってぇな……正直に言わねぇからだろ!?」

「私は嘘なんかついてない! 知らないよ! 信じらんないならもういい!」


 上靴が床を滑り、悲鳴にも似た音をたてた。

 やば、と佐藤は慌てて階下に降り、廊下の壁に隠れた。すぐに乱暴な足音が背後を通り抜けていき、くそっ! と、男の声がして、追いかけていく音があり、静寂が戻った。

 途端、腹のうちにドス黒い喜びが膨れ上がった。


 ざまぁみろ! 


 脳内で哮り、逸る気持ちを抑えて屋上前の扉を見に行く。ついさっきまで若い男女が喧嘩していたその場所の、澱んだ黴臭い空気を胸いっぱいに吸い込み、佐藤は腰を折って笑い転げた。


 床に、くしゃくしゃに丸められた便箋が落ちていた。

 拾い上げ、破れないように丁寧に広げる。


『あなたの彼女、浮気してますよ』


 淡いピンク色の、少しわざとらしいくらい女の子っぽい便箋に、自分で書いたとは思えない丸っこい文字が並んでいた。

 見ているだけで先の喧嘩が思い出されるようで、佐藤は肩を揺らした。


 たった紙一枚で、あのザマだ。


 誰が書いたのかも分からない手紙に踊らされて、あのザマだ。証拠なんて何もないのに、紙と、ペンで手書きされた一行の文字列だけで、喧嘩になる。まったく色ボケしてる奴はこれだからなぁ、と佐藤は便箋を折りたたんで胸にしまった。


 これで六組目。同じクラスでそれだけ付き合うのも驚きだが、同じ手口で最終的に別れてしまうのだから面白い。


 一度ふくれあがった疑念は消せないのだろうか。自分の恋人の言葉より、誰かも分からない第三者の、根拠もなにもない言葉を信じるなんて。


 バカだなぁ、ほんとに。


 もしかしたら、と佐藤は思う。

 付き合い始めてすぐに考えるのではないだろうか。


 もしかして、騙されているんじゃ? 

 もしかして、いいように遊ばれているんじゃ?


 好きだとか愛しているとか口にはしても、きっとみんな、ということなんだろう。自分に危機が迫っていると知らされれば、相手より自分の身の安全を優先するのだ。


 僕はそれを思い出させてやっているだけ。佐藤は嘲笑う。


 同じ学校の、同じクラスで、これ見よがしに付き合うなんて、どれだけの悪意が向けられるか分かってる? 忘れてない? 


 そう、耳元で囁いてやっているだけだ。

 人は悪意というのだろうが、人を救うためにやっていることだ。その返礼に、少しばかり楽しませてもらうだけ。


 佐藤は可笑しみが落ち着くのを待って、教室に戻った。教室の空気は、いっそう冷え込んでいた。離れた席の二人は視線も交わさず、友達には何も言わない。


 喋らないパターンか、と佐藤は小さくため息をついた。

 本当に面白いのは、友達に事情を話して徒党を組んでやりあうパターンだ。色ボケた奴らは頭に血が昇ると決まってこう言う。


『やってないって証拠はあるのか』


 あるわけがない。悪魔の証明という言葉を忘れて罵り合う。無駄なのに。もし、そこで和解したなら、もっと面白い展開になる。疑わなかったという事実は一瞬で崩れるのに、疑ったという事実は永遠に消せない。


 どんなに仲が良かった男女も、一度打ち込まれた楔は引き抜けない。

 毎日のちょっとしたすれ違いが罅を広げ、やがて関係を砕く。すると、しばらく教室に平穏が戻るのだ。正しい学び舎の姿。佐藤にとって居心地のいい空間となるのである。


 その日の残りの授業中、佐藤は平穏に過ごした。

 が、

 夕方のショートホームルームが終わってすぐ、佐藤の後ろの席で、不穏な会話があった。


「聞いた? なんか浮気してると思われたって」

「うん。女子から変な手紙が来たって言ってた。誰が出したか知ってる?」

「知らない。でも多分、嫌がらせなんだよ。くらーい奴。絶対そうだよ」

「……まぁそんなことするの、暇な奴だろうしな」

「……ねぇ、私たちは大丈夫だよね?」

「ちょ、冗談でもやめてくれよ、そういうの」


 がたん、


 と、佐藤のすぐ後ろで席を立つ音がした。さっそく、今日はどこ寄ってく? という甘ったるい会話が始まり、遠ざかっていく。


 ――ふざけやがって! 色ボケが!!


 せっかくいい気分になっていたのに。平穏な世界が戻ってきたのに。


 僕が暗い奴だって!?


 佐藤は胸元から昼間回収した便箋を取り出し、丁寧に皺を伸ばした。二人の名前は知っている。下駄箱の位置も見れば分かる。


 私たちは大丈夫だよね? 

 どうだろうね。僕が試してあげるよ。


 佐藤は下駄箱の前で辺りを見回す。夕日で赤黒く染まった廊下に、部活に勤しむ生徒の溌剌とした声が響いていた。だが、佐藤を見る視線はない。


 ふー、ふー、


 と、鼻息を荒くしながら、佐藤は後ろの席の男の下駄箱を開いた。


「……あ?」


 便箋が入っていた。青い便箋だ。

 佐藤は目だけで左右を確認し、便箋を取り出した。それは、佐藤が使っているピンク色の便箋とよく似たデザインの、まるで対になっているような便箋だった。


 まさか、まさか……。


 佐藤はゆっくり便箋を開き始めた。溢れ出る唾を飲み下す。音が。妙に大きく聞こえた。


「…………!」


 便箋には、


『知っているよ』


 と、真っ赤なインクで、ヤケにギザギザとした字体で。


 心臓が激しく脈打ち、視界が揺れた。どっ、どっ、と鼓動が高まっていく。沼に沈んだような息苦しさ。襟元のボタンを一つ外し、慎重に、音を立てないように、静かに、細く、息を吸う。


 ――――ッッッッ!


 喉元までせり上がってきた悲鳴を手で押え、佐藤は考え始めた。


 あの二人が置いた? ありえない。だったらあの会話の意味がわからない。じゃあ誰が? これまでに陥れた他のカップル? なんのために? 復讐? こんな手の込んだことやるか? こいつは僕の手口を知っている。同じやり方をしようとしてる。まさかあの二人のやりとりは演技で、すでに教室の皆が僕がやったと知ってるとか? つまり騙されているのは僕で、嘲笑われているのは僕で、皆は手のひらの上で踊らされているとも知らずに喜んでる僕を見世物にみたいにしてる? 皆で、メッセージアプリとかで、


「またやってるよ、とか、言って」


 佐藤は口をついて出た猜疑心を慌てて塞ぎ、首を巡らせた。カメラがどこかにある?

 誰か見てる?

 誰か、僕を嘲笑ってる?

 くしゃり、と便箋を握りつぶし、佐藤は青ざめた顔を伏せて下駄箱の蓋を閉めた。


   *


 翌日、廊下の窓際の席、ひとつぽっかりと休んでいる男子の席を見つめ、教室の隅の女子がほくそ笑むように嘲笑った。


「面白いよね。別に君のことだなんて書いてないのに」


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紙と、ペンと、ひとすくいの悪意 λμ @ramdomyu

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