Empty-Handed
Win-CL
第1話
――その出来事があったのは、とある夜。
刺すような寒さが鳴りを潜めて、空気が少しは柔らかくなった春先の夜。
OLとして働いている私が、同僚の千恵とバーへと入った時のことだった。
「そこを何とかお願いできないですか……」
「いやぁ、急にそんなことを言われてもねぇ」
落ち着いたBGMに、ほんのりと抑えられた照明が心地いい。
けれど、その空気の中で浮いているように。
バーカウンターの端っこで、誰かがマスターと話していた。
あんまり見かけないスーツ姿の若い男性。マスターになにか頼んでる?
「マスター。何かあったの?」
「おや、千恵ちゃん優花ちゃんいらっしゃい」
少なくても二週間に一度は訪れる、私達はいわゆる常連さん。
名前も憶えてもらっているし、連絡先だって教えている。
「彼、ここらには初めて来たっていうんだけどね――」
「僕、手品師をしているんですよ。それで知り合いのツテで、この街まで来たんですけど……」
「へぇ、手品」
「でも道具も何もないじゃない」
ぱっと見た限りでは、トランプも、ボールも、帽子もない。
本人が手品師と名乗っていても、その特徴がこれっぽっちもないのはなぁ。
これには、マスターが困ってしまうのも分かる。
「まぁまぁ、僕たち手品師というのはですね。他の何も無くたって、たとえここに紙とペンしかなくたって、生きていける人種なんです。ほら、紙と、ペン。ね? できれば、ここで簡単な手品をお見せしたいのですけれど――」
ちらりとマスターの方を、手品師の青年が
「まぁ……少しだけなら……」
「よかった! それではこの紙に――」
「ちょっと待った! 紙に何か細工してるかもしれないでしょ? マスターが用意したのを使ってよ!」
「千恵……」
千恵ときたら、いつのまにやらノリノリで。
隙あらばタネを見破ってやろうという魂胆なんだろう。
青年はマスターからメモ用の白い紙を受け取ると、丁寧に折り目を付けて綺麗に九等分して、その中の一枚をこちらに渡した。
「この紙に……優花さんの電話番号を書いていただけますか?」
「…………」
さらさらと、渡された紙に素直に番号を書く。
……いや、やっぱり怖いから適当な番号を書いちゃえ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。次に、残りの八枚にもそれぞれ番号を書いてください。今度は適当に思いついた番号で大丈夫です」
こっちも適当かぁ、あっちゃあ……。
なるべく、似た感じにならないようにしないと。
頭の三桁はいいとして、後ろの八桁を適当に書くのも一苦労だ。
そうして全部の紙に番号が書かれたのを確認した青年は、その紙を私に混ぜさせ、裏向きで机に並べさせた。
「んー……優花さんの電話番号はこれですね?」
そう言って、私が一番最初に番号を書いた紙を見事言い当てた。
……私の携帯番号じゃないんだけどね。
「…………」
ただ、私はそれだけじゃ驚かない。
こんな手品もどきを見せられてもね。
彼は紙を正方形に、九等分にして破っていた。タテとヨコ、3×3の形。それで同じ大きさ、同じ形だったとしても――紙を破った跡で判別できる。四方に破られた跡がある真ん中の紙を渡せば、一発で当てられるという仕掛け。
冴えないオッサンが、女の子を口説くときにやる手口だと、数か月前にバラエティ番組でやっていた気がする。とりあえず、私の番号じゃないのだとしても、他の人の番号を使われるのは忍びないから返してもらわないと。
「それで終わり? それじゃあ、その紙は返して――」
「紙が欲しいんです? 僕は構わないですけど。ほら――」
青年が他の紙をぺらりと捲る。
「え――」
そこにあったのは、全部同じ番号。
私が最初に書いた、本来なら私の携帯番号であったはずの数字の羅列。
……マスターなら私の番号を知っているはず。実は二人とも知り合いで、事前に私たちの番号を教えていた、という可能性も考えてなかったわけじゃないけど。
そんな簡単な仕掛けじゃない……か……。
「手品というのは、単純な“タネ”を複雑な動きや大きな動きで巧みに隠すものなんですよ。元が単純だからこそ、きっとこうなるだろう、というのを裏切らなければならない。だから二重にも三重にも、どんでん返しを用意しているものなんです」
「え、え、え!? 優花がずっと持ってたよね!?」
「もちろん、タネは秘密ですけどね」
千恵が丹念に紙を調べているけど、別に仕掛けがあるわけでもないらしい。それはそうだ。マスターの用意した紙を使うるように言ったのは、千恵なんだから。
「どうです? 驚いていただけたでしょうか?」
「え、えぇ……それはまぁ……」
「よかった!! それなら一つ、お願いがあるんです!!」
急に手を握ってこられてたので、心臓が大きく脈打ってしまった。
まさかこのまま、別のお店にお誘いなんて……?
最初は少し怪しい雰囲気だったけれども、顔は幼めで、別に嫌いじゃない。
千恵には悪いけど、今日は一人で帰ってもらっても――
「財布と携帯を駅で落としてしまったみたいで……。どうか帰りの電車代だけでも……!」
「え゛……」
「ぷーっ!!」
唖然とする私の後ろで、千恵が噴き出していた。
「切符はいつも胸ポケットに入れているので……。持っていたのは、紙とペンだけ……このままじゃ、家にも帰れません……!」
「マスターに電話を貸してもらえばいいじゃないの!」
「一人暮らしだし、知り合いの番号だって憶えてなくて……」
「この現代っ子め……」
そう呟きながら、しぶしぶと財布の中にいる
「ちゃんと返してよね!」
「心配に及びません。なぜなら――」
受け取ったお札を、大切そうに胸ポケットに入れて。
「電話番号は、ちゃんと頂きましたから」
そう言って、とても人懐こそうな笑顔をして店を出ていく。
まぁ……手品も少しは楽しめたし、もし向こうが本当に返す気があって、電話をかけてきてくれたなら。……半額ぐらいにまけてもいいかな。
これも一つの、『運命的な出会い』ってやつなんだろう。
「いやぁ、夜の街ってのは面白い人がいるもんだねー」
「こういうのも、楽しみの一つよねぇ……」
「私もマスターをして長いですが、ああいったのは初めてですよ」
「……あっ」
「…………?」
――ふと重要なことを思い出して、慌てて立ち上がる。
まだ、そう遠くへは行ってないよね!?
「ちょ、ちょっと優花どこに行くのよ!」
あの青年が持って帰った電話番号――
「――あの電話番号、アタシのじゃないの!!」
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