美食処

不立雷葉

美食処

 仕事を終え、一人で会社近くの繁華街を歩いていた。普段は妻の待つ家に真っ直ぐ帰るのだが、今日はそういう気分ではなかったのである。

 今朝方、些細なことでケンカになってしまった。電車の時間が迫っていたこともあり、仲直りすることもなく家を出てきた。私が仕事をしている間に彼女の怒りが冷めてくれることを期待していたのだが、そんなことはなく「夕食はこれよ」というメッセージと共にカップラーメンの写真が送られてきたのだ。


 自分にも非があることは認めるがこんな仕打ちはあんまりだ。これならいっそ夕食抜き、と言ってくれたほうがまだマシというもの。

 湧き上がる苛立ちを沈めるには美味しいものを食べるに限る。そう思って普段は足を運ぼうとも思わない繁華街へとやって来た。ただ美味しい物を食べようと思っても、どの店に入ればよいのかてんでわからない。


 歩いていれば良さげな店は幾つも見つかるのだが、一人では入りづらさがあって踏ん切りがつかない。店の前まで行くのだが、談笑する声が聞こえてくると躊躇われてしまうのだ。

 どこか空いていて入りやすい店はないものかと探すが、どこの店も繁盛している。考えてみれば今日は金曜日で、どこも混んでいて当然だ。ラーメン屋や牛丼屋なら入りやすいが、そういった店で済ませてしまうのは何だか癪だった。


 腹が減っていることもあり、余計に苛立っている内に気づけば細い人通りの少ない路地へと入り込んでしまっている。大通りに引き返そうかと思ったが、こういう所に隠れた名店があるんじゃないかと考えてやめた。

 そしてこれはおそらく正解だ。目の前に小料理屋の看板が出ていた、店の名前は<愛食>というらしい。中をちらりと覗いてみると小さな店だった。客席はカウンター席だけで、数も六席ほどしかない。その内側の厨房には白髪の男性が一人、黙々と仕込みをしているようだ。店主が一人で切り盛りしている店らしい。


 他に客はいなかった。これ幸いにと私は迷うことなく引き戸をガラリと開けて店の中へ、和食の店らしく出汁の香りが店内に漂っている。


「いらっしゃい、好きな席にどうぞ」


 店主がそういうならばと思い切って真ん中の席、店主の真正面に座る。手渡されるお絞りはちょうど良い熱さで心地が良い。


「飲み物、何いれましょうか?」

「とりあえず生でお願いします」


 ビールをいれてもらっている間に何を注文しようかとメニューに手を伸ばし、つい首を傾げた。一枚しかないメニュー表にはドリンク類しか書いていない。裏面もあるのかとひっくり返してみたが、そちらは白紙である。

 ではどこかに張り出されているのだろうかと店内を見渡したが、そんなものはどこにもない。これはとんでもない店に入ったかもしれないぞと戦々恐々としているところに、冷えたジョッキに注がれたビールとお通しが運ばれてくる。


「どんなもん食べたいとかってありますか?」


 人好きしそうな笑顔を浮かべている店主に問われても、メニューが無い事に戸惑って答えることができない。この店はぼったくり、あるいは高級店だったりするのだろうか。

 うろたえながらドリンクの値段を確認してみるが、生中は五〇〇円。焼酎や日本酒は銘柄によって値段が違っているが、どれだけ高くても八〇〇円まで。この値段なら相場だろう。それともお通し代が高いということがあるのだろうか。


「どうしました? 驚いている風に見えますけれど」

「え、あぁ……飲み物以外のメニューが見当たらなくって、ちょっと面食らったというか……」

「あぁ、そういうことでしたか」


 そう言って店主は肩を揺らす。顔立ちは頑固そうに見えなくもないが、人当たりは悪くなさそうだ。ぼったくり、ということだけは無さそうだが値段が気になるあまり視線はメニュー表にばかり向いてしまう。


「うちは食べ物のメニュー置いてないですからね。その日によって仕入れるもんが変わるんでね、メニューってのが作れないんですよ」

「じゃあ注文はどうしたら……?」

「毎日ある物が違うといっても、大体の食材はいつも仕入れてますんでね。食べたいもの言ってくれても良いですし、予算を言ってくれたらコースみたいな感じで出させてもらいますよ」


 何でも来いと言わんばかりに胸を張っている店主には悪いのだがすぐには答えられない。空っぽの胃袋を押さえながら何が食べたいかを問うてみても、浮かんでくるものはなかった。

 だったら予算を伝えてお任せにしてしまおう。毎日、仕入れるものが変わるということは何らかのこだわりを持っているに違いない。一緒に好物も伝えておけば外す事はないだろう。


「そしたら四〇〇〇円ぐらいでお任せお願いします。後、私あんまり魚が好きじゃなくって。肉を中心でやって欲しいんですけど、いけますか?」


 この辺の店のコースなら四〇〇〇円ぐらいが相場だ。この額を提示しておけば間違いないはず、なのだが店主は天井を見上げるように目を閉じて眉間に皺を寄せている。

 もしやこの値段では低すぎたのだろうか。とんでもない高級店だったのだろうか、後悔の念に駆られつい視線は引き戸へと向かった。


 店主の口角が釣りあがる。その表情にほっとするものを感じながらも、どこか言い知れぬ不安感を覚えたのもまた事実。


「肉のほうがお好きとはちょうど良かった、良い肉が入ったところなんですよ」


 冷蔵庫から取り出されたピンク色の肉塊が付け台の上に置かれた。脂身は多くなく、豚肉のように見えたがどこか違う気がする。


「これを一体どういう風に食べさせてくれるんです?」

「そうですね、こいつは生でも食えるんですが生だと旨みがちと足りないんです。なのでまずは冷しゃぶ風のサラダにして出させてもらいます、次は焼き物その後に揚げ物そして煮物。そして最後のシメに出汁茶漬け、なんていうのはどうでしょうかね?」


 空腹ということもあり口の中に早くも涎が溢れ出す。一通りの調理法で楽しませてくれそうなので、店主の提案に異論はなく迷うことなくお願いした。

 早速、店主は調理に取り掛かる。慣れた手際は見ているだけで楽しい、魅せるような技は何もない。ただ真摯に調理しているだけなのだが、一種のショーを眺めているような気がした。


 そのショーに目を奪われているうちに最初の一品がカウンターに置かれ、早速口にする。

 さてその味をなんと形容すればよいかわからない。最初に出されたのは冷しゃぶ風サラダということで、肉は薄切りだったが味は濃厚で脂の旨みもたっぷりと感じられた。ドレッシングに柚子が入っていることもあり、後味も良く口の中に脂っ気は残らず飲み込んだ後には爽やかさがある。


 これほど美味い肉を食べたことはない。心を奪われるとはこういうことを言うのだろうか、店主が得意げに語りかけてきたが私の耳には入らずノイズでしかなかった。

 出されてゆく料理はカーニバルのよう。現れる肉料理は魅惑的であり、口の中に放り込めば踊り跳ね、鮮烈なる味わいを脳髄に容赦なく叩き込んでゆく。


 食で快楽を得ることができるのだと、今の今まで私は知らなかった。月並みな物言いだが人生を損していた、食事とはこれほどまでに楽しく気持ちよいものだったのかと。

 私の耳には店主の声も聞こえない、包丁の音が焼ける音が油の跳ねる音ばかりが耳に入る。早く、早く、次の料理が待ち遠しい。目くるめく宴に箸の動きが止まらない、咀嚼すれば味わいが強烈な電気刺激となって体を悦ばせる。


 だが、楽しいときはあっという間に過ぎるもの。気づけば最後の出汁茶漬けを食べ終えており、茶碗を置いたところで夢から現実へと引き戻された。もっと味わいたいと欲望が湧き上がるが、満腹中枢はもう限界だと伝えている。

 店主は次の注文が来てもいいように控えていたようだったが、会計してもらうことを選択した。財布にはまだ余裕があったし、胃袋にもまだ入れられた。けれどもここで止めるが吉だろう。


 狂喜させてくれるほどの感動を与えてくれた料理だ。ならば味わうにも全力を出すのが誠意というもの。これほどの料理を出す店が無くなるわけがない、次にくればまた別の感動を味あわせてくれるに違いない。


「ありがとう、美味しい料理でした。また来させてもらいます」

「気に入ってくれたようでなによりです。ですが、次は仕入れられるかわかりません。何せ、お客様次第なもんですからね」


 どこか引っかかる物言いだったが、心行くまで食を楽しんだ後の私の耳には入らない。

 会計を済ませて店を出れば、妻に対する苛立ちはすっかりと消し飛んでしまっていた。それどころか苛立ちを覚えていたことすら忘れてしまっており、次は妻を連れて行こうと考えていた。


 彼女はあの店の味にどんな顔をするだろうか。そんなことを考えていると心が浮き立つようで、帰路をたどる足取りは軽く速い。

 そうして帰った家に明かりは付いていなかった。時計を見れば日付も変わろうというところで、そこでようやくケンカしていたことを思い出す。土産の一つでも買って来れば良かったなと小さな後悔をしながら家の中へと入ったが、人の気配はない。


 明かりがないからもう寝てしまったのかと寝室を覗いてみたが妻の姿はなかった。これは相当に怒っているようだ、もしかすると実家に帰ってしまったのかもしれない。ドラマであるように置手紙がされているかも、と探してみたが置かれていなかった。

 携帯にメールやアプリにメッセージが届いていないかも確認してみたのだが、どちらもない。これは相当におかんむりらしい。彼女の実家に電話をしようかとも考えたが既に深夜、迷惑だし幾ら心配とはいえ非常識な時間に電話することで火に油を注ぐかもしれない。


 怒りは長く続かないのだ。妻の実家に連絡するのは明日でも良いだろう、もしかすると何事もなかったかのように帰ってくるかもしれない。

 そう楽観的に考えながら床についたのだが、妻は帰ってこなかった。次の日も、その明くる日も。電話がかかって来ることもなく、メールの一通もやってこない。妻の実家に電話をしてみたが、来ていないという。


 有り得ないだろうと思いながらも私の親元に連絡してみたが、妻は顔を見せていなかった。

 妻の携帯に電話をかけたが留守番電話につながるばかりだし、メールを送っても返事は一向に帰ってこない。


 友達の所にいるかもしれない、と共通の友人知人に連絡を取ってみたが誰も彼も知らぬ存ぜぬというばかりだった。全員には電話で話をしたのだが、彼らの声音に隠し事をしている気配は微塵もない。

 これは事件に巻き込まれたかもしれないと警察に捜索願を出したのだが、受理はしてくれたもののまともに取り合ってくれる雰囲気は無かった。経緯が経緯だし、事件性も薄い。警察からすれば積極的に探す理由が薄いことも頭では理解できるが、理解できるだけで納得ができるものではなかった。


 連日のように親元や友人知人に尋ねてみたが、誰も妻の顔も見ていないし連絡もとっていないという。警察にも真剣に探すよう頼み込んだが、適当にあしらわれるばかりで真面目に捜査をしようという気はこれっぽちも感じられない。

 ただのサラリーマンの身ではこれ以上とれる手立てはなく、焦燥感に駆られ、懸念でろくに睡眠もとれず水も喉を通らない日々が続いた。それでも仕事を休むわけにはいかず、肌を青白くさせ目の下に隈を色濃く浮かべながらも会社は休めない。


 同僚には全部ではないが話をしているため、残業にならないよう仕事の量を調節してくれたのは幸いだった。その心遣いは嬉しいものだが、だからといって楽になるわけではないし気を使わせている申し訳なさから焦りはさらに加速する。


 そうなりながらも手を抜くまいと熱いブラックコーヒーを片手にパソコンに向かい合っていると、部長の手が肩に置かれた。部長はこのような事を滅多に行う人ではない、クビの宣告ではないと思うが休職ぐらいは薦められるのかもしれない。

 罪悪に胸を締め付けられ、部長の顔を見上げることもできずに項垂れていたが掛けられた言葉はそのどちらでもなかった。


「大きな声じゃ言えないのだけど、私も一時期妻に逃げられちゃったことがあってね。気持ちは分かるつもりだよ、だからといって力になれるようなことはないのだけれど……落ち込む時は美味しい物を食べると良い。少しでも気が楽になれば糸口が掴める事もあるかもしれない、言えることはこのぐらいだ」


 それだけ言って部長は去っていき、私はすぐに仕事へと戻り頭の中で掛けられた言葉を反芻した。

 部長の言うことはもっともだ。言われて思い出したのだが、最近はまともに食事を摂った記憶がない。コンビニ弁当かカップ麺ばかり、こんな食生活を送っていて気力が湧くはずもなかった。


 美味しい物を食べて、心身ともに活力を漲らせれば事態は好転するかもしれない。そして頭に浮かんだのは以前に訪れたあの店だった。食べる意欲は復活していたが、心配事を抱えているためか胃の調子はよろしくない。けれどもあそこなら、そんな私の状態に合わせた調理をしてくれるだろうという確信があった。


 退社した後は真っ直ぐにあの店へと向かった、一度しか訪れたことがなくたまたまた辿り着いただけの店。道を覚えているか曖昧なところがあったが、朧な記憶でも迷うことなく向かうことができた。


 暖簾越しに中を覗く、カウンターだけの店には客がいない。以前に訪れた時もそうだったが、不思議なことだ。値段は時価だが決して高いわけでないし、融通も利かせてくれる店である。繁盛して当然な気はするのだが、決まったメニューがないというのが敷居を高くする要因なのだろうか。


 ガラリと引き戸を開けて中へと入る、仕込みをしていた店主は顔を上げて私の顔を見るやいなや眉間に深い皺を寄せる。歓迎されていないのは明らかだが、理由はわからない。以前に訪れた時に粗相をした覚えはなかった。

 不快に感じながらも、前と同じく店主の目の前の席に腰を落ち着ける。


「この間のようにまた四〇〇〇円ほどでやってもらえませんか?」


 店主は眉間に皺を寄せたまま首を横に振るばかり。


「悪いけどお客さんに出せるものはもうないね。この店はお客さんの一番好きな、愛してるもんを料理して出す店さ。けどお客さんにはもう出しちまったからもう無いよ、代わりに好きなもんが出来たってわけでもないだろうし」


「あの、つまりそれはどういう? さっぱりと意味がわからないのですが」

「あーわかんないか。この間出した肉あるでしょ? あれね、あんたの奥さんよ。といっても信じられないだろうからね、わかって貰うために写真撮ってあるのよ。グロテスクだけど見るかい?」


 酷く頭にきた。ジョークにしても悪質に過ぎる、妻が行方不明になっていることもあり顔が熱く真っ赤になるのが自覚できるほどだ。気づけば私は立ち上がり、怒りに任せるままにカウンター向こうにいる店主の胸倉を掴んでいた。


「本当だよ、ほら見てみなって」


 胸倉を掴まれたまま店主は一葉の写真を取り出し、カウンター席に置いた。くだらないと思いながらも、ちょっとは見てやろうと視線を落として動けなくなった。

 写真には裸の妻の姿がある、見間違うものか私の妻だ。写っている妻は首の下から臍の下まで、正中線に沿って切込みが入れられ、開かれていた。中は空っぽ、肋骨も切り取られていて骨の断面までもが写っている。


 こんなものは合成に違いない、写真を乱暴に拾い上げ眼前に近づけたが合成のようには見えなかった。まさか本当に妻なのだろうか、写真を持つ腕を下ろして店主を見る。彼は名状しがたい笑みを、音のない嘲笑を私に向けていた。

 そのまま意識が遠く、体から離れていき目の前が暗転する。気づけば私は自宅のソファに座り込んでいた、あの店の出来事は夢だったのだろうか。二日酔いの時のように頭の奥が脈打つように痛み、額を押さえる。その手には一様の写真があった。


 家畜のように捌かれた妻の写真だった。夢ではなく、現実なのだぞと私に突きつけているようだった。


 果たしてこの写真が本物かどうか、私にはわからない。この後も妻は帰ってこなかったし、連絡を取り合った者も現れなかった。

 何度もあの店に行こうとしたが辿り着けない。道ははっきりと覚えているのに、どうしてもあの店どころか店のある路地にすら辿り着けなかった。路地のあるはずの場所にはスナックやラウンジの入った雑居ビルが建っていた。


 さてあの店は夢だったのか、現だったのか。時が経つほどに曖昧になってゆく、けれど何時まで経っても妻は帰ってこなかった。

 またあの店に向かえば何か手がかりがあるかもしれない。いや、手がかりよりもあの味を味わいたかった。カーニバルのように心を躍らせてくれた鮮烈なる味わいは、日が経てば経つほどに克明になっていくようで私の身を焦がしてゆく。


 好きな者が愛する者が出来れば、再びあの店に入れるだろうという妙な確信があった。けれども私があの店に行くことは二度とない、あの味をあの悦楽を知ってしまった私にもう、この世で愛せるものはなかったのだ。

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