萌子の勇気

くにたりん

届いてる? 届いてない?

 開け放しの窓には、白いカーテンが微風に揺れている。ゆるい初夏の日差しが遮られて、中は冷んやりと心地よい。


 萌子はベッドに背をあずけ、立てた両膝と胸の間にスケッチブックを置き、何やら一心不乱に手を動かしている。


 耳にヘッドフォンを装着しているのは、雑念を耳に入れないためだ。


 隣には、同じ高校三年生の勇気が寝転んだまま、仰向けになって漫画を読んでいた。

 

 夏の地区予選、しかも一回戦負けした野球部を引退したばかりの勇気は、よく分からない理由をつけて、萌子の部屋に上がり込んでいる。


 画材や萌子の自信作やらが所狭しに置かれているものだから、勇気の足は必然的にベッドの上に投げ出されていた。

 

 十年来の付き合いがある幼馴染とは言え、女の子の部屋で堂々した不作法ぶりはいかがなものか。


 ペンと紙が擦れる音と、時折、漫画のページをめくる音が聞こえる。


 将来は日本画家になりたい、と美大を目指している萌子には、勇気の相手をしている暇はない。


 十分ほど前のこと。


 当たり前の権利だと言わんばかりに、勇気がノックもせずに部屋に乗り込んできた。


 当然、萌子の手は止まり、敬意もへったくれもない勇気の登場に顔をしかめる。


「勝手に入ってくんな。時間がないって、何回も言ってるのに」


「分かってるって。うち、クーラー壊れたからさ、涼みに来た」


 実のところ、萌子の部屋にクーラーはついていない。反論するのも面倒になり、萌子は溜息を吐きながら、メガネをおもむろに外すと、疲労を感じる目をしばたたかせた。


「いいけど……静かにしててよ」


「オーイエス! っていうか、俺は別にお前に用があるわけじゃねぇから。ほら」


 メガネを拭きながら、萌子が目を細める。


「……何それ」


 勇気はにんまり笑うと、一冊の漫画を萌子の前に突き出した。


「待望の新刊だよ。兄貴から借りてきた」


「あっそ」


 自分の家で読めよ、という意味をこめて、聞こえるように萌子は、勇気に向かって舌打ち。


「穏やかじゃないねぇ。いいから。俺のことはお構いなく。読み終わったら、帰るからさ。描きたいだけ描けよ」


「言われなくても描くわよ」


 図々しく、勇気は「ここいいわー。風がきていい感じ」と呑気だ。その上、萌子の足元にゴロンと寝転ぶ始末。


 萌子はベッドに乗せられた勇気の足を一瞥し、もう一度溜息をついた。


 ただでさえ難関と言われる美大受験。国公立を目指す萌子は、実技以外にもセンター試験も乗り越える必要があるというのに。


 萌子は幼少期に父親の転勤で、勇気の隣の家に引っ越してきた。同い年の子供を持つ、両親同士が近しい関係を持つのに、そう時間は掛からなかった。


 以降、漫画にあるような幼馴染の間柄だ。とは言え、これまで一度も二人がくっついたことはない。


 もともと萌子は異性とお近づきになるよりも、絵を描くことの方が優先事項としてはるかに高いと見える。


 絵に夢中な萌子はイラストも上手く、SNSで知り合った仲間との交流もあり、彼女は彼女で充実した高校生活を送っていた。


 勇気は勇気で、兄と漫画に影響されて、小学三年生から地元のリトルリーグでピッチャーとして活躍し、先月まで野球に熱中してきた。


 甲子園を目指せるほど強豪校ではないが、ベスト8を目指して、彼なりに努力は積み重ねたつもりだ。


 しかしながら、野球部在籍中は公式試合では一度も勝てなかった。


 二人の家が隣同士でなければ、こんな時間を過ごすことはなかったかもしれない。少なくとも、勇気はそう思っていた。


 漫画も半分ほど読み終わった頃、勇気は顔の上で、持ち上げていた漫画を胸に置いた。


 眉を寄せたまま書き続ける、幼馴染の真剣な顔を見上げる。


「……おい……なあ、って……」


 無情にも、ヘッドフォンから流れるアニソンに勇気の声はかき消されている。


「聞こえてんだろ? 返事しろよ……おい、メガネオタク!」


 十七歳の少女に対する冒涜である。

 それでも、萌子は勇気に目もくれない。


 唸りながら、少し伸びた髪を確認するように、片手で自分の頭を撫でてみる。


「結構、伸びたよな。もう引退して一ヶ月か。そりゃ伸びるか」


 もう一度、横目で萌子を見るが、一向に勇気の姿は目に入らないようだ。仕方なく、勇気は天井に顔を向けた。


「お前、もうすぐ誕生日だよな。来月だっけ? んで、俺は10月だ。俺たち、もうすぐ十八歳になるんだよな。早くね?」


 懲りずにもう一度、萌子の方を見る。


「無視かよ……まあ、いいや。俺は勝手にしゃべるけどな」


 胸に置いた漫画を放り投げ、勇気は頭の後ろで腕を組んだ。ついでにベッドの上にある両足も組み替えた。


 見知った部屋を目だけで、ぐるりと見渡す。


「まったく、色気のない部屋だよ。もっとさあ、こうなんて言うの? ぬいぐるみとか、可愛い物とか集めるもんじゃないの? 女って。おっと、偏見とか言うなよ。男の部屋にはないものがあるから、ドキドキするんだよ」


 独り言が虚しく続く。


「少しは意識しろ、って話ですよ。あとさ、言うとキレるから黙ってるけど……お前、時々、髪に絵の具がついてる時、あるからね。登校前に色付けするのやめた方がいいぜ。これ、俺からの有難い忠告ね」


 そう言って、勇気は萌子に強い視線を送るが、届いた気配は微塵もない。


「なんだかなぁ」


 と言いながら、今度は体を横にして、萌子から顔が見えないように体勢を変えてみる。


「言っとくけど、背中が痛いだけだから」


 誰に言い訳しているのか、独り言にしては大きな声だ。

 

 放り出した漫画に手を伸ばしたが、勇気は表紙に手をかけたところで、スッと手を引いた。


「そうか、そうか。本当に、萌子、お前は聞こえてないんだな。よーし、よく分かった」


 少しだけ苛立ちをこめた後、耳をすまして萌子のリアクションを待つ。


 淡い期待とともに、ゆっくりと振り返る。肩越しの萌子は、やはりスケッチブックから目を離さない。


 今度は、勇気が小さく舌打ちして首を戻してみると、さっき入ってきた部屋の扉が目に映った。


「帰んないよ……まだ全部読んでねぇし」


 強がったところで、長い一人芝居は虚しいだけ。段々と勇気の濃い眉も寄ってくる。


「卒業したらさ、お前、東京に行くんだろ? 俺も合格したら、行くつもりだけど……もうお隣さん、ってわけには……いかねぇよな」


 勇気が押し黙った瞬間、少し強い風が吹き込んできて、カーテンがふわりと舞い上がった。


 むすくれた勇気の頬を、遅れて風が撫でていく。


「まあ、なんだ……俺、お前のこと、嫌いじゃないしさ……なんて言うか、離れたくない、みたいな? なんてな。ハハ……」


 空笑いして、前言撤回を申し出ようとした、その時。


 頭の上から天の声が降ってきた。


「勇気くん。悪いんだけど、僕は横浜なんだよね。従兄弟の家に厄介になる予定だからさぁ」


「お前に言ってねーから! そこで空気になってろ!」


 鬼の形相で勇気が見上げた相手は、帰宅部の悪友、浅葱あさぎだった。


「いやぁ、ついね」


 悪友は白い歯をみせ、爽やかな笑みを見せる。


 萌子の部屋を入ってすぐのところに、小さな勉強机が置いてあるのだが、浅葱あさぎは最初からずっとそこに座っていた。


 ゆうゆうと足を組み、持参した漫画を読んでいたのだ。勇気の独白に、静かに耳を傾けながら。


 浅葱あさぎは手にしていた漫画を机の上にそっと置くと、小さく頷きながら言った。


「ヘタな恋愛ものより感動した。どさくさに紛れて告白するシーンは胸キュンものですよ」


「うるせぇ。あいつが聞いてなきゃ……意味ないだろうが……」


 萌子に背を向けたまま、ボソッと勇気が呟いた。


 いくら萌子に語りかけても、届かないのでは仕方がない。そんな想いは、これが初めてというわけでもなかった。


 二年からレギュラーになった勇気は、応援に来いよ、と何度か萌子を対外試合に誘ったことがある。


 初陣は惨敗という結果になり、若干涙目のまま帰宅した夕方。自分の部屋に戻ると、萌子が窓から身を乗り出して、手を振っている。


「……今日は来てくれて……ありが」


 絞り出すような勇気の言葉を遮り、萌子は興奮気味に叫んだ。


「勇気、めちゃくちゃカッコよかった! 今日は残念だったけど、また頑張ろう? 私も勇気に負けないように、たくさん絵を描こうって決めたよ!」


 頬が上気し、どうにも鼻がふくらんで仕方がなかったことを、勇気はふと思い出す。


 嬉しかった。


 でも、応援に来てくれたのはそれっきりだった。


「とりあえず……俺の独り言は誰にも言うなよ」


「それは僕に、じゃなくて、後ろの人に言った方がいいんじゃない?」


 こぼれるような笑顔を見せながら、浅葱あさぎは顎で窓の方を指した。


「はあ? 後ろ?」


 浅葱あさぎのにやけ顔を睨んでから、勇気は険しい表情で振り返った。


「あ……」


 真っ直ぐな瞳をメガネから覗かせ、萌子が勇気をじっと見ているではないか。


 萌子はヘッドフォンをしたまま、ニコリともせずに「よっ」と言って、鉛筆を持った手をひょいっと上げた。


 至って冷静な萌子と違って、勇気は瞬間湯沸かし器のごとく、一気に全身の血がたぎる。


 萌子の声は落ち着いていた。


「言わない。約束する」


「うおぉ! この展開は予想してなかった!」


 浅葱あさぎの突然の叫び声に、勇気が肩をビクッとさせる。


「……勝手に俺の心を読むな」


 半ばやけくそ気味に、勇気は起き上がった。腹の底から血が頭に上り、すでに耳まで真っ赤だ。


 ついでに、萌子の声音に呼応したのか、気づけば勇気は正座していた。


 逆光の中で、勇気を見据えている萌子の視線が眩しい。とても正視できるものではない。


「一緒に東京に行こう。私、絶対に合格する。で、一緒に暮らそう」


「お、おう……」


「うん。じゃあ、これ仕上げちゃうね」


「お、おう」


 萌子は勇気の返事に大きく頷くと、再び部屋の中は、紙の上を鉛筆が走る優しい音が響いた。


 これは新緑が芽吹いた、ある夏のお話。

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萌子の勇気 くにたりん @fruitbat702

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