甘い泥水

笹野にゃん吉

甘い泥水

 砂糖でどろどろになったコーヒーをすすると、ほんの少しだけ笑顔になれた。特段機嫌をよくしたわけではない。甘ったるいコーヒーなど口に含むだけ毒だ。贅肉や虫歯の原因になるし、トイレも近くなる。目の前の女に吐きかけてやるのが、正しい使い道だが、ヨウコは苦渋とともに飲み下した。


「じゃあ、タケルくんとはウマくいってるんだね」


 優等生を演じて言えば、口にしようとしたカップを半端な位置で止めたカナコが相好を崩した。


「うん、最高! 優しいし、なんでも買ってくれる」


 要するに都合の好い男ということだ。カナコのような打算的な女にとって、男はアクセサリーであり、ATMであり、たまに性欲処理の玩具であった。

 珍しい人種ではない。だが、褒められたものではない。脳裏にクズの二文字が過ぎるも、如何にも外連味のないレッテルだ。自分のセンスのなさには笑えてくる。人間など、おしなべてクズである。詰まるところ、ヨウコにはクズの自覚がある。


 夏の近づきつつある湿った風を受け、ヨウコは髪を押さえる。それで自分たちがテラス席にいることを思い出す。通りを見下ろす、わずかに高くなったテラス席がヨウコは好きだ。クズがクズを見下ろす構図だから。なんとも外連味がある。


「それもタケルくんに買ってもらったやつ?」


 ヨウコは足許の荷物籠に乱雑に突っこまれたブランド物のバッグを指差す。

 すると、カナコがぺちと手を合わせて肩をすくめる。クズにお似合いのぶりっ子の仕種だ。板についていて、むしろ感心する。


「そうそう! これ八万もしたんだよ。ウケるよね」

「たしかにウケる」


 そう言ったヨウコは無表情だ。受け答えに偽りがあったわけではない。ウケた。ろくに学もない女を喜ばすために、八枚の福沢諭吉が犠牲となるのは滑稽というより他ない。

 だが、それと同時に自尊心が疼いてもいた。ヨウコは八万もするバッグを貰ったことがなかったからだ。貰ったことがなかったからだ。


 なんでこんな女が、いつも一番なのかしら。


 ヨウコは恋人の顔を想像しながら、目の前の女を呪うように心中毒づいた。

 今までたくさんの男と出会い別れてきた。それなりの恋愛を楽しみ、いずれも最悪の形で幕を下ろしてきた。


 カナコがいたからだ。


 この女がヨウコから男を奪っていった。高校で知り合ってから五年間、二人が付き合うのは、いつも同じ男だった。捨てられるのがヨウコの役目だった。あるいは靴底にへばりついたガムのように縋るのが役目だった。いつだってカナコは男にとって一番の女であり、ヨウコは二番目かそれ以下だった。


 そんな女といま不味いコーヒーをお供に男の話をしている。なんとも外連味がある。

 ヨウコは甘い泥水に、またひとつ角砂糖を沈没させ、タケルの如何にも冴えない顔つきを改めて想起した。


「ヨウコはどうなの? ウマくいってる?」


 半笑いだ。そこには頂点を勝ちとった女の余裕がある。無論、嘲りもある。白々しい態度には腹が立つ。一番のカナコを手にしたタケルが、今更ヨウコに好い顔をするはずがない。

 だが、不思議と安堵する自分もいる。カナコの他人を見下した態度が不快であればあるほど、それが自身の半身のように思われて心地好いのだ。眼前にいるのは自分と別人の女に違いないのに。

 それは自分が男にとってのデュラハンだからかもしれない。デュラハンはアイルランドに伝わる首のない騎士の姿をした妖精だ。つまり、ヨウコは出逢った男に、死を予言する存在なのだ。ヨウコとの出逢いは、カナコとの出逢いを意味するから。二人は欠けた身体を補い合っていた。


 ヨウコはティースプーンで泥水をかき混ぜ、端っこに湧いた粘ついた泡を見下ろした。


「最近素っ気ない態度とるようになった。そわそわしてるし。ヤバいかも」

「なるほど。そろそろ潮時だね」


 他人の男の心を横からかっさらっておいて、ひどい物言いである。しかし彼女の言う通り、ちょうど好いタイミングだ。タケルのほうから別れを切りだされる前に、アクションを起こさなくてはいけない。


「うん。いつにする? 早いほうがいいよね」


 ヨウコはスマホをとり出すと、そう切りだした。タケルの連絡先を呼びだし、送信するメッセージの内容を吟味する。


「もちろん。とりあえず、適当な予定送っといてよ。いつも通り、あたしがあとで仕かけるから」


「オッケー。じゃあ、会う日決まったら教えて」


「うん。あ、そういえば、合鍵まだ持ってるよね?」


「持ってる。ちゃんと入れるよ」


 タケルに「出張」などと言って、しばらく会えない旨のメッセージを送ると、ヨウコはどろどろのコーヒーをすすった。当然、砂糖が増えた分、甘さも増している。本来の苦味などほとんど感じられない、酔うような甘味だ。

 反射的にまた笑みがこぼれる。本当に酔っているのかもしれない。カナコと対面するたび、己の本性を垣間見るたび、心は脳を痺れさせるようなコーヒーを欲してきた。

 人としての倫理観。女としての自尊心。

 邪魔にはなっても役には立たない。砂糖とともに溶かしてやるのが、賢い女の生き方だ。


「二番目で充分……」


 ヨウコは笑う。

 それが自分に課せられた役目だと知っているから。


 容姿もあざとさも、カナコのほうに軍配があがる。男など、しょせんバカっぽくてボディタッチの多い女に弱い。


 一番になる素質がない者は、それを理解し、利用しなければ損だ。

 だからヨウコは、女社会の陰でクソビッチと揶揄されていたカナコと、くだらない女流階級など捨てることに決めた。


「今回はいくら稼げるかなぁ」


 カナコが夢見がちな少女のように笑った。


「さあ、あんま金持ってなさそうだけど。むしれるだけむしればイイじゃん?」


 一方ヨウコは、無感情にティースプーンをもてあそぶ。


 恋愛などくだらない。そんなものをステータスにしても飯は食えない。

 男は飾るものではない。利用するものだ。

 冴えない男は特に。か弱いカモ以外の何物でもない。


 ならばヨウコは、さながらカモを油断させるための餌だ。いきなりイカした女では怪しまれるから「もしかしたらイケるんじゃないか?」そう思わせるための。それなりの女として近づき、健全な恋愛をし、恋愛弱者にちっぽけな自信という贅肉をつけてやる。


 肥ればカモはもう飛べない。


 カナコの接触は、それからだ。彼女を受け入れる隙が生まれれば、立派な浮気男ができあがる。

 自ずとその胸には罪悪感が芽生え育ちはじめる。贅肉程度の自信で、その鋭い刃を防ぐことはできない。相手に浮気など露見しようものなら、ほとんど致死の刃となるだろう。


 ここでもヨウコは敗北を認める。男から潔く身を引き、別れ際の「謝罪」だけを要求する。

 そして勝利したカナコは交際を継続する。時折、過去の過ちを刺激し、の金品を頂戴するために。

 一度抜き身となった刃は、元の鞘にはおさまらない。長く男を苦しめ続け、いとも容易く財布の紐を絶ってしまう――。


 ちょろいものだ。


 人には優劣がつく。

 カナコが一番で、ヨウコは二番というように。


 しかし金に優劣はない。平等でシンプルだ。

 

 タケルもじきに生き血をすすられるだろう。気の毒とは思わない。人間とは、おしなべてクズだから。信用したほうが損をし、裏切ったほうが得をする。


 テラスから見下ろす通りには、クズが溢れている。

 その一人と目が合う。陰気に口をゆがめ、ジャケットに両手をつっこんだ猫背の男だった。

 

 ヨウコはソーサーにカップを置くと、朗らかに微笑んだ。

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甘い泥水 笹野にゃん吉 @nyankawa

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