そこから見える景色

宇部 松清

超えられないからこそ、見えるもの。

 第一志望だった文具メーカーに就職が決まった。配属は営業部。これも第一志望。

 営業はやった分だけ評価されるのが良いと思った。やりがいがありそうだ。

 期待に胸を膨らませオフィスに入る。まず目に入ったのは、壁に貼られた『月度目標』という棒グラフ。


 ドラマや漫画で見るような、あのいかにもなやつだ。目標は個人で違うのだろう、マスの途中が赤く塗りつぶされていて、恐らく、契約を一件取る度にだろう、丸いシールが貼られている。そこに到達している人の名前のところには小さな花が付けられていた。


「気になるか?」


 と、後ろから声をかけられた。初日の自分に名前なんてわかるわけもなく、ただ、「はい」とだけ答える。


「これ、俺な」


 と、彼は一番左端にある、その小さな花のついた名前を指差した。


 入社は4月1日となっているが、社内の雰囲気に慣れるためとして、3月中は自由に来ても良いことになっている。だから自分以外にもオフィスには同期である新卒社員がちらほらいた。けれども、棒立ちでグラフを眺めているのは私だけだった。


 その人の役職は係長。とはいっても、何かの『係』を任されているわけではなく、主任よりも上の役職である、というような意味らしい。


 ここ、山形の酒田市にあるあけぼの文具堂酒田営業部は、卓上文具を取り扱う二課のみしかなく、大型事務什器を扱う一課は東北6県の拠点支社である仙台の東北営業部にしかない。そこには遠征部隊である三課と四課があるので、時期が来ればその人達が山形へやって来て、ここのオフィスの端のデスクを間借りし、事務処理などをするらしい。なんていうことも教えてくれた。周りの人達はデスクで何やら仕事をしているのに、随分と余裕がある人のようだ。でも、成績は一番良い。このグラフを見れば。


 そしてそれから数ヶ月、ずっと彼は1位をキープしていた。


 やっと現地に出させてもらえるようになり、ぽつぽつと契約を取れるようになると、新卒用に月度目標のグラフも用意された。しかし私には、それが不満だった。何せ目標がめちゃくちゃ低い。こんなことではいつまでも係長あの人に追い付けない。


 毎月のグラフを用意してくれている事務の柳田やなぎたさんに、自分も先輩達と同じグラフに名前を載せてくれないかと言って困らせたのが、入社半年後のことだ。その話は支社のトップである佐々木課長(東北営業部以外の支社には課長より上の役職者がいないのだ)の耳にも当然入った。上の人達からは「やる気があって良い」と言われたが、同期からは、やれ「でしゃばり」だの「ポイント稼ぎ」だのと陰口を叩かれたものである。


 だけど、別に同期だからといって仲良しこよしでいなければならないというわけでもない。私は私の仕事をするだけだ。


 私の名前が、その、先輩達の方のグラフに並ぶようになってから数ヶ月。グラフの左から2番目、というのが私の定位置になった。

 このグラフは前月の成績の順に名前が並ぶので、つまり、前月の成績が2番目に良かったということだ。私の左隣には常に係長がいる。大きく差をつけられた月もあれば、あと数件という月もあったが、順位は変わらなかった。常に係長が1番で、私が2番。

 

 悔しい悔しいと思いながら仕事をした。周りなんか見ずに、係長だけを見ていた。

 思い返せばあの頃が一番ギラギラしていた。肩の力を抜けば置いていかれると思ったのだ。


 けど。


「そんなんじゃ俺には勝てねぇよ」


 係長はそう言ったのだ。

 酒だけはお前に勝てねぇな、なんて笑われた後で。


「俺を見てるうちは駄目だ。視野が狭くなるし、それに――」


 烏龍茶を飲み、ううん、と首を傾げ「何だノンアルじゃねぇか」なんて呟いてから、係長は言った。


「こんな小さい支社の1番なんてつまんねぇぞ。お前なら、見るのはこっちだ」


 そう言って差し出されたのは、全社の成績一覧である。別に全社で競い合うようなコンテストはないのだが、こういった一覧は本社データにアクセスすれば閲覧することが出来るらしい。


「お前は……全社で15位か。まぁまぁだな。俺は2位、だ」


 勝ち誇ったようにピースサインをし、憎たらしい顔で、ひっひ、と笑う。

 鈍器で頭を殴られたような、という表現がしっくりくる。悔しさでめまいがするようだった。


「俺はこの1位のやつしか見てねぇ。いつも俺の前にいるんだ。ムカつく野郎だよ、全く。だからな、こんな小さいトコで1番だったからって何だ。つまんねぇつまんねぇ。……でも、2番でも良いって思う時もある」

「……どういうことですか」


 良いわけないじゃないか。私は1番になるために、毎日毎日……。


「1番になっちまったら、もう、追いかける背中がねぇ」

「あぁ……」

「その地位から引きずり下ろしてやるぞってやつからな、そう、つまりお前みたいなやつだ、そういうやつから逃げるための仕事になるんじゃねぇかなって、そう思うんだよ」


 確かに。

 そうなのかもしれない。


「そうなった時にさ、俺はいまみたいに楽しく働けるんだろうかって。怖くなるんだ」


 いまみたいに、楽しく。

 この人は楽しく働いて、それでこの結果を出しているのか。


 じゃあ私は、例えばこの人に勝って1番になったとして、その後はどうなるんだろう。

 いまでさえこんなに必死なのだ。あんなにやりたかった営業の仕事なのに、いまはもうただただガリガリと働くだけになっている。楽しいも楽しくもない。ひたすら1件。目の前の1件にしがみつくだけで。


「結局な、追ってる方が楽しいんだよなぁ」


 そうかもしれない。


「別にお前がこれからもそういう仕事がしたいならそれで良いけどさ、お前ならもっと楽しくやれると思うぞ、俺は」

「楽しく……ですか」

「そう。何も1番がすべてじゃねぇんだ。2番だからこそ見える景色もある」

「見える景色って……係長の背中じゃないですか」

「おうよ。っていっても俺だけじゃないぞ。超えたいって思うやつの背中だ。超えたい背中が見えるうちは仕事は楽しいぞ」

「そういうもんでしょうか……」


 正直、その時は信じられなかった。

 実際に自分が1番になるまでは。


 常に背中に視線を感じるというか。

 刃物を突きつけられているような。

 誇張なんかじゃなしに、殺気というか、狙われている、という緊張感。一瞬たりとも気が抜けない。


 それを味わった時に、悟った。


 違う。

 これは私の仕事じゃない。

 これを楽しめる人もいるんだろうけど。

 

 だけど、私は違った。

 てっぺんから見える景色も確かに悪くはない。ただ、楽しいとは思えない。これを続けていくのはしんどい。

 私はずっと追いかけていたいのかもしれない。


 その時にやっと肩の力を抜いた。

 またあっという間に酒田支社では2番になって、全社では15位付近をうろうろするようになった。


 だけど、仕事は楽しくなった。

 自分は自分のペースがある。

 自分は追い続ける方が性に合っている。

 周りを見る余裕も出来た。

 

 これが良いんだ。

 幸いなことに、というのか、それ以上は下がらなかった。いくら追いかけたい背中がある方が良いといっても、たくさんいて良いものじゃない。


 その人は常に私の前にいて、憎たらしいほど余裕の笑みを見せつけてくる。

 その憎たらしい背中を見て、「私が本気を出せば、係長なんてすぐ抜かせますから」なんて軽口を叩きながら仕事をする方が、ずっと楽しい。

 すると係長は「ほざけ、ひよっこが」とやっぱり憎たらしいことを返してくるのだ。


 


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 可愛い部下が月度目標を達成したのを口実に飲みに誘ったら、話の流れで「主任の昔話を聞かせてください」ということになったのである。


 彼は私のジョッキが空になっていることに気付いて店員を呼び、自分の烏龍茶もついでに注文してから「それで、その係長は、いま、どちらに?」と尋ねてきた。


「もう係長って呼べなくなっちゃんだよね、それが」


 と苦笑すると、中途で入社してまだ数ヶ月のその部下は、何かまずいことを聞いてしまった、とでも思ったのか、いつもきりりとしているその目を細め眉を八の字に下げた。


「違う違う。降格とか、辞めたとかじゃないから」

「え」

「本社にいるんだ。営業部統括の支倉はせくら次長。次長になっちゃった」

「な、なんだ。びっくりしました……」


 安心したのか、胸を撫で下ろすその姿を見ると、何だかこちらまでホッとする。周囲からはその眼光の鋭さで少々怖がられている彼だが、勤務態度は真面目だし、やる気もある。私の可愛い部下である。


「しかし、あれからいろんな支社を回ったけど、最初に配属されたのが支倉さんのいるところで良かったよ」

「それは、どうしてですか?」

「彼に教えてもらわなかったら、私はきっと狭い世界の1番にこだわって楽しくない仕事をし続けていただろうからさ。いまは東北営業部の二課ででかい顔してても、全社で見ればまだまだ『ひよっこ』だからね、私は」

「そんな、『ひよっこ』だなんて」

「良いんだ、私はこれで。追いかけたい背中を睨みつけながら仕事をする方が、私は楽しいんだよ」


 そう締めくくったタイミングで私のビールと彼の烏龍茶が運ばれてきた。

 何度目かわからない乾杯をし、ジョッキを、ぐい、と呷って――、


「私が本気を出せば本社だけど、その時は片岡君、君もついて来るかい?」


 なんて冗談を言うと、向かいに座っている部下は、真っ赤な顔で派手に咳き込んだ。

 

 そして、げほげほと咳き込みながら、彼は言った。


「どこまでも追わせていただきます、伏見主任の背中を」と。


 

 

 

 

  


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