第8話 逃れられない宿命

 黙ってしまったミケさんを、横石が心配そうに覗き込んでいる。それに気づいて、ミケさんは話を変えた。「これ、旨いな」

 ALの手は一般の人間が想像するよりは細かい作業もできるが、箸をきれいに使うところにまではいたらない。ホッケは骨が外されて、フォークが添えられていた。

「いい店知ってんな。来たことあったのか?」

「先月ここの前を通りかかったときに、ALのひとと人間のお客さんが一緒に出てきたんです。それで気になって入ってみたら、美味しかったから。そのうち三池さんと来れたらいいなって思ってて」

「そうか」

 うなずいてミケさんは鼻を擦った。

「教えてくれてありがとな」

 言って振り向くと、横石が目を丸くしてミケさんを見つめていた。

 おれが礼を言うのがそんなに珍しいかと、とっさに憎まれ口をたたきそうになったのを、ミケさんは飲み込んだ。珍しいも何もたぶんはじめてだ。

 ばつの悪い思いで鼻を掻くと、ぽかんとしていた横石がカウンターにグラスを置いて、真顔になった。

「三池さん、やっぱり結婚しましょう!」

「アホ」

 笑って一蹴すると、ミケさんはカルパッチョのサーモンをつまんだ。

 人間とALが結婚できないとは法律に書かれていないと、先日横石は言ったが、実際のところALの戸籍は人間のそれと同じではない。まったく別の台帳で管理されているし、記載項目も違う。

 たしかに民法にわざわざALと人間の結婚を禁止する条文が盛り込まれているわけではないが、婚姻届を出されたところで、市区町村の戸籍係は困惑するだけだろう。

 ALの戸籍はそもそも、所有者の移転や盗難等を含めた管理のために義務づけられていた所有登記の台帳を、戸籍がわりに流用しているというだけの代物なのだ。完全工場生産で自然に繁殖することのないALに、DNA設計図はあっても続柄はない。

 法的な婚姻関係はともかく、人間と暮らすALは実際にいる。それほど多くはないが、ニュースになるほど珍しいわけではない。だが……

「おれは、人間に飼われるつもりはねえよ」

 人間とALが暮らすってのは、そういうことだ。少なくともミケさんの認識の中ではそうだった。

 だが横石はきょとんとしている。

「なに言ってるんですか。三池さんちゃんと働いてお給料稼いでるのに」

 ミケさんは答えずに苦笑した。

 雇い止めの話をいまここでする気にはなれなかったし、それでなくても、どうやったって人間とALでは人間のほうが稼ぎが上だ。時給単価もそうだが、基礎給付のあるなしは大きい。

 日本社会はベーシックインカムの導入に過去何度か失敗している。

 すべての国民に、最低限の生活費をまかなえるだけの金額を、無条件かつ一律に無審査で支給する。その理念そのものはずいぶん昔からあったらしいが、長い間うまくいかなかった。見合うだけの原資を恒常的に確保することが難しかったからだ。

 それが不完全ながら部分的にでも機能するようになったのは、ALを労働力として当て込むことができるようになってからだ。

 当然、人間でないミケさんたちにはそんな給付はない。もちろん人間に支払われる給付だってたかが知れたものではあって、働かずに食べていこうとすればぎりぎりまで無駄を削ってもかつかつといったところだ。だからこそ横石も、母親の病院代を稼ぐのに職を選ぶ必要があったわけだが。

 とはいえその程度の給付でも、多少なりと働いて給料と合わせれば、一般的なALの賃金とは比べるまでもない。

 いっそ本物の猫ならば、逆に人間に奉仕させてやるくらいの居直り方ができるのかもしれなかったが。

 だがそうした言葉は飲み込んで、ミケさんは追加のカクテルを注文した。



「食べましたねえ……」

「食べたな……」

 それに飲み過ぎた。

 料理も酒もうまかった。人間AL双方歓迎の店というのは、珍しいながらないことはないが、両方の舌を満足させる店というのは、それこそちょっとやそっとで見つかるものではない。

 その嬉しさが酒を過ごさせた。ミケさんはアルコールではなくキャットニップに酔っているわけだが、もちろんこれにも酩酊効果はある。人間がアルコールに酔うのに比べれば短時間で醒めるが、それでも酔っ払いは酔っ払いだ。

 横石の自宅の最寄りバス停で降りたところまではよかったが、どちらもまだ少しばかり足元が怪しく、途中の公園でミケさんは立ち止まった。「悪い、ちょっと休憩」

 暦の上では真冬だが、今年は暖冬だと言われていて、この日もそれほどの冷え込みではなかった。酔いのせいもあってたいして寒くは感じない。それでも自販機で温かい茶を二本買って(ミケさんはカフェインの入ったものを飲めないため、自分の分は完全なるカイロ代わりだ)、並んでベンチに腰掛けた。

「星がきれいですねえ」

 横石が空に掌をかざして機嫌良く笑っている。

 肉球のあいだでペットボトルを転がしながら、ミケさんはつられて空を見上げた。星を見てきれいという感覚が、ミケさんにはわからない。ただ自分が無粋なだけなのか、人間と目の見え方が違うせいなのか、どちらだろうかとミケさんは思った。

「三池さん、あったかそうですねえ」

 夢見るような声で横石が言う。

「いや普通に寒いよ」

 毛皮があってもその分人間よりも薄着だし、だいたい猫は寒がりなものだ。だがさっさと帰るかと腰を上げるには、この気分のいい夜が終わるのが、なごり惜しいような気がした。

 酩酊が心地良い。そこらへんに転がってしまいたくなって、ミケさんは頭を振った。

「なあ。ちょっと膝貸せよ」

「三池さん、もしかして酔ってます?」

 まあな、と答えると、横石は笑って膝に載せていたハンドバッグをどかした。「どうぞ」

 その膝に頭を乗せて、ミケさんはベンチの上に転がった。背広が汚れるかもしれないとちらりと考えるくらいの思考能力は残っていたが、どうせ丸洗いできる安物だ。

 ぐるぐると低く喉を鳴らして、ミケさんは目を閉じる。まさかこんなところで本当に眠るわけにもいかないが。

 横石がおっかなびっくり手を伸ばして、耳の後ろを遠慮がちに掻く。

 人の手に撫でられるその感触を、ひどく懐かしいとミケさんは思った。

 ALは、生産された工場に併設される管理施設で、ほかの『きょうだい』たちといっしょくたに成長する。そこで簡単な読み書き算数を習いつつ、配属先の目処が立ったらそれにあわせて職業訓練を受ける。その時期の面倒を見るスタッフの中にはALもいるが、大半は人間の保育士と指導員だ。

 ミケさんの姓の三池というのは、厳密にいえば人間の苗字とは意味が違う。複数の個体の遺伝子を掛け合わせて作られる彼らに親子という概念はない。三池は、最初に彼ときょうだいたちの面倒を見た保育士チームの班長の名前だ。

 猫は幼児期に仲良くなった生き物とは生涯親しむものだと、誰かが言った。その俗説がどこまで真実で、どれだけALに適用できるのかミケさんは知らない。

 ただ、頭を撫でる三池班長の手の感触と、そこからいつもしていたハンドクリームのにおいを、ミケさんはいまでもよく覚えている。ほかの保育士たちのにおいも、重いよと笑われながらよじのぼった膝や背中のぬくもりも。

 人間なんか嫌いだ。

 人間に愛されたい。

 どちらもミケさんの本心で、いかにも腹の立つことだが、それはおそらくALにとって、逃れられない宿命だ。

 星がきれいかどうか、きっと死ぬまでミケさんにはわからないように、横石にこの気持ちはわからない。

 それをむなしく思うのと同じ胸のもう一方では、そんなことには関係なく、横石には脳天気に笑っていてほしいとも思う。腹が立つときもあるが、泣かれるよりはずっといい。

 自分のその矛盾が理不尽で、ミケさんはもう苦笑するしかない。

 でも多分それは仕方の無いことなのだと考えて、ミケさんは酔いの抜けつつある頭を横石の膝からそっと持ち上げた。

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