第3話 こんな日に限って引き下がる

「三池さーん! 考えてくれましたかー!」

 夕刻、いつものごとく通勤路に待ち伏せをしていた横石は、この日も元気いっぱいだった。

「うるせえ寝言は寝て言え」

「ひどい! わたし本気ですよ!」

「あのなあ。人間とALが結婚なんかできるわけないだろ、だいたいなあ……」

 おれなんかからかって遊んでる暇があったら婚活イベントにでも申し込んだらどうだ市役所にパンフレットあるぞ……と言いかけて土曜日の失言が頭をよぎり、ミケさんは苦い顔をして続きの言葉をすり替えた。「アンタ、こんな時間になんでそうしょっちゅう来られるんだよここに。仕事はどうしたんだ仕事は」

「心配してくれてるんですね!」

「あほか!」

 語彙も尽きてただただ罵倒しながら、ミケさんは尻尾を逆立てる。

「大丈夫、今日は早上がりの日なんです」

 にっこりして、横石は無駄に胸を張る。「それよりわたし、ちゃんと調べましたよ。ALのひとと結婚できないなんて法律はないです」

「猫と結婚してはならない、なんてわざわざ条文に書く馬鹿がいるか?」

「猫じゃないもの。戸籍だってあるでしょう?」

 ミケさんは胡乱な目で横石を眺める。「書類の上ではな」

 声が尖る。本気でないから簡単に言えるのかもしれないが、デリケートな問題を安易に口にする横石に腹が立ってもいた。

 たしかに人と遜色ない高度な知能を持つALには、限定的にではあるが人権が与えられる。それはいまや国際社会の常識になりつつある。とはいえそれは理念の問題であって、運用となるとまた別の話だ。

「そもそも、結婚なんかしたって意味ねえだろ。税金の優遇もないし、ガキも作れなけりゃ、そもそもまともな交尾もできねえのに」

 醒めた目をしてミケさんは吐き捨てる。仮にAL同士のカップルだとしても、どのみち自然繁殖はできない。ALは完全なる工場生産だ。夫婦間での相続くらいはできるかもしれないが、財産と呼べるだけの資産を持つにいたるALはまずいない。

 人間から財産を遺されるALならどこかにいるかもしれないが。ミケさんに言わせればそんなものは、ペットに遺産を相続させる物好きな富豪のニュースと変わらない。

 だが不機嫌になったミケさんにかまわず、横石は首を傾げる。

「でも、人間同士だって子どもをつくらない夫婦はたくさんいますよ」

「ああ言えばこう言うなあ……」

「スウェーデンにいるらしいですよ、ALと人間のご夫婦。イヌさんみたいですけど」

「よその国の話だろ」取り合わず、ミケさんは話題を変えた。「そういや、お袋さんの病気の講習会あるぞ、無料のやつ。来月の第二土曜日だったかな。申し込み用紙まだ残ってたけど」

 ミケさんがちょっとだけ仕事モードに戻って違う話題を振ると、横石はなぜか困ったような顔をした。

「あ。市政だよりでも見ましたそれ。気にはなってたんですよね。でも……うーん。ちょっと考えます」

 歯切れの悪いその様子に、ミケさんが触れようかどうか迷っているうちに、横石はぱっと顔を上げて笑顔になった。「ありがとうございます。気にかけててくださったんですね。嬉しいなあ」

「……珍しい病名だから印象に残ってたんだよ」

 ふふ、と笑って横石は手を後ろに組む。

「ねえ、三池さん」

「なんだよ」

 そういえばこいつはこれだけ馴れ馴れしいくせに、一度もおれのことをミケさんとは呼ばないんだなと、ミケさんはいらないことに気がついた。

 それに、もふもふしていいですかとか、そういうことも。だから何かがどうだ、というわけでもないのだけれど……

「ちょっとだけお耳を触ってもいいですか」

「断る」

「えー」

 直前までの自分が考えていたことが全部ばからしく思えて、ミケさんはそっぽを向いた。市役所の前でなかったら、地面に唾でも吐いていたかもしれない。

「お耳がだめなら、肉球とか」

「いやだ」

「そですかー……」

 本気で残念そうな横石に、三池さんはつめたい視線を向ける。

「アンタなあ。自分に置き換えてみろよ。そこらへんの男にいきなり耳さわっていいかとか手握っていいかとか言われたら」

「はい! 三池さんだったらいつでもいいです! いくらでも! はいどうぞ! さあ!」

「けっこうです」

「また敬語!」

 ぎゃあぎゃあ騒ぐ横石を、退庁していく職員や仕事帰りらしい通りすがりの人々が、好奇心に満ちた目でちらちらと見ていく。ミケさんは普段から目立つものだから、人目が集まることにも多少は慣れているが、横石は気づいていないのか気にならないのか、残念そうにミケさんの耳がぴくぴくするのを目で追っている。

 隙を見せないように警戒しているミケさんに、横石はいっとき未練がましく手をわきわきさせていたが、バスが近づいてくるのにはっと顔を上げて、ショルダーバッグを肩に掛け直した。

「あっ、いけないこんな時間。今日はもう帰りますね。三池さん、ではまた!」

 急に勢いよく駆け出すと(ミケさんが思うに、成人した人間の女性というのは一般にそうそう街中で走ったりはしないのではないだろうか)、横石は何もないところで蹴つまずいた。かろうじて転ばずに立て直すと、こっちを見て恥ずかしそうに笑いながら手を振り、また走っていく。

 その背中がバスに追いつくのを見届けて、ミケさんは長いため息をひとつ。このごろすっかり嘆息が増えた気がしてならない。

「なにが三池さんだけにアピールしてるんです、だよ。単なる猫好きじゃねえか」

 口の中でぶつぶつと呟いて、ミケさんは不機嫌に尻尾を振る。猫を飼いたいなら譲渡会にでも行けばいいのだ。

 なんでこんなことで腹を立てなきゃいけないんだと我に返ると、ミケさんはふんと鼻を鳴らして自分もバス停に向かった。



 ミケさんの不機嫌はしばらく尾を引いた。そうそう仕事にプライベートの都合を持ち込むミケさんではないが、なんせ猫の尻尾やヒゲというものは、否が応でも持ち主の機嫌を知らしめてしまう。うっかり尻尾がキャビネットをびたんびたん叩いてしまって、気まずい思いをする日もときにはある。

「ミケさんご機嫌ななめだね」

 福祉課の課長に話しかけられて、ミケさんはばつの悪い顔をした。「すみません……うるさかったですか」

「いやいや。珍しいなと思っただけだよ。ところでこれ、よかったらどうぞ」

 そう言って課長は小さな紙袋を手渡してきた。中身は出張土産のマドレーヌだそうだ。窓口が空いているタイミングを見計らって持ってきてくれたらしかった。

 人間用の菓子にはしばしばネコ科の動物には食べられない材料が使われていて、もらっても困ることも少なくない。知らずに買ってくるのか、知っていてもミケさんにだけ渡さないのが気が引けるからなのか。どちらにしたところで悪気があるわけではないのだから、こういうときミケさんはただ礼を言って受け取ることにしている。

 課長が出張の愚痴を残して立ち去るなり、また尻尾を不用意に振り回しそうになり、ミケさんは尻に力を込めてこらえた。こんなときに限って利用者が少ない。忙しくしているほうがよけいなことを考える時間がなくていいのだが。

 どういうわけかあれから二週間、横石は一度も顔を出していない。

 それまでは三日とあけずに待ち伏せを食らっていたのに(本当にちゃんと働いているんだろうか)、あれから音沙汰ひとつない。

 しかしそういうふうに指折り数えるたびに、いやもう二度と来なくていいんだと思いなおし、振り回されていることを自覚してよけいに苛立つ。

 ため息をひとつ。ミケさんは頭上をあおいで、エアコンの風に揺れるライトグリーンの看板を見つめた。

 なんでも相談窓口の看板がわざわざ天井からつり下げられているのは、プライバシー保護用のパーテーションにさえぎられずにフロアから見えるようにという配慮だ。

 そしてパーテーションがわざわざ用意されているのは、この窓口に誘導されてくる相談者には大変微妙な悩み事を抱えた人が多いからという理由だった。込み入った金の話とか込み入った生活のトラブルとか込み入った人生の悩み事とか。

 建前としても実務上としてもそういうことだが、一方で、これがミケさんの姿をほかの一般利用者から遮るという役割を果たしてもいる。ALが窓口業務をしている姿を見て、苦情をいう市民が一定いるからだ。

 苦情のバラエティは多いような少ないようなというところだ。不衛生じゃないかとか暴れるんじゃないかとか猫アレルギーの利用者が来たらどうするんだとか。

 ALネコはきれい好きだし、知能も社会性も高いし(そうでなければホワイトカラー労働者として採用しようという向きが出てくるわけもない)、遺伝子改良のおかげでそれほど毛も抜けやすくない。そもそもイエネコほど毛質が細いわけでもないので、猫アレルギーの人に迷惑をかけることはまずないのだが。

 猫がきらいな人間というのは何も別にアレルギーがあるからきらっているわけではない。単なる不満のはけ口だ。

 ALイヌのほうが向いてるんじゃないか、などと言ってきた市民は単に犬派だっただけかもしれないけれども、このご意見はほかのどのクレームよりも彼を不快にさせた。

 まあいい、とミケさんは口の中で呟いた。それよりも今日の利用者は三人だった。あまりこんな日が続くようだと、来年度の更新はないかもしれない。

 ミケさんの立場は非常勤職員だ。前の人事課長から声を掛けられて任用試験を受けたのがことの発端だが、二年前、その人物が支所に異動してしまったあたりから風向きが変わった。少し前に市長が保守色の濃い人物に替わったというのもある。

 この日何度目かしれないため息を飲み込んで、ミケさんは健康保険制度のテキストを開いた。



 土曜の午後、先日借りた本を返却がてら図書館に寄ったミケさんは、新しく何冊か仕事の参考になりそうな書籍を吟味した。土曜の午後のことで、館内はそれなりに混み合っているが、見知った顔には出会わなかった。

 貸し出し手続きを終え、用は済んだはずなのに、無意識にきょろきょろと館内を見回してしまってから、自分が何を探していたのかに気づいてミケさんはひげをぴくぴくさせた。

 ばかばかしい。なんでこんなに振り回されなくてはならないのか。

 仕事のない日にまでわざわざいやなことを思い出して不機嫌になることはない。頭をぶるぶる振って、ミケさんは玄関を出た。

 そこに横石がいた。

 先日のように塀にもたれているが、今日は何も読んでいない。この日はとりわけ冷え込んで、雪予報まで出ていたというのに、ただぼんやりと突っ立って曇り空を見上げている。

「あ、三池さん」

 足音に振り返って笑う、その顔色がひどく悪い。

 言ってやりたい文句は百もあったような気がしたが、その顔を見てしまうとどうにも切り出すタイミングを見失って、ミケさんは黙って尻尾をゆらした。

 歩み寄ってくる横石の足取りはどこかふらふらしていて、先日とは別の意味で危なっかしい。「どうしたんだ」

「ちょっと……先週いろいろあって。でも、三池さんのお顔見たら、元気出ました」

 顔色が悪いのが『いろいろあった』せいなのか、それとも寒いなか長時間突っ立っていたせいなのかわからずに、ミケさんは鼻の頭にシワを寄せた。

「いつからいたんだ」

「そんなに長い時間じゃないですよ。ただ通りかかったから、もしかして来てらっしゃるかなと思って」

 それなら中に入って探せばよかっただろうに、わざわざ冷たい風の吹く屋外でぼんやりしていたのか。

 物問いたげに耳をぱたんぱたんさせているミケさんを見て、横石はふっと視線を落とした。

「母が、少し前に倒れて」

 いっとき入院していたのだと、横石は言った。

 それで姿を見せなかったのかと得心して、ミケさんは黙って話の続きを促した。

 結局は本人の希望で退院して、自宅で様子を見ていたのだと、掠れた声で横石は続けた。「先週になって、容態が急変して」

 息を引き取ったのが三日前だという。葬儀と手続きで昨日まではずっと慌ただしかった。親戚が家を出入りしていたこともあって、静かに物思いに耽ることもできなかった。それが、昨夜になってようやくひとりになって、

「することがなくなって、急に……ひとりで家にいるのが、なんだか」

 ほとんど眠れないままひと晩過ごして、それでも午前中は家事を片づけて少しは気を紛らせることができた。午後、とうとうやることがなくなって息が詰まり、ふらりと家を出た。そうして何というあてもないまま歩いているうちに、図書館の前を通りかかったのだと、横石は言った。

「すみません、辛気くさい話に付き合わせて……それじゃあ、また」

 無理に笑って背を向け、歩き出そうとした横石が、ふらついて転びかける。ミケさんはとっさに彼女の腕を掴んだ。

 先日も何もないところで転びそうになったくらいだから、もともと鈍くさいだけかもしれないが、自分で言うよりも長くここに立ち尽くしていたのではないかと、ミケさんは思った。少なくとも、足の筋肉が強ばるくらいの時間。

「ありがとうございます……三池さん?」

 ひとりの家にいたくないから出てきたと言いながら、そんな日に限ってたいして粘ろうともせずに、ふらふらしながらすぐ帰ろうとする。あまり食べられてもいないのだろう、二週間前と比べてあきらかに体重の減った体を重そうに引きずって。

 人間の考えることはわからない。何度目に思ったかわからないことを考えて、ミケさんはそのまま横石の腕を引いて歩き出した。

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