第2話 安売りするなよ、お嬢さん

「ミケさん、彼女待ってるよ」

 同僚ににやにやしながら声をかけられて、ミケさんは顔をひきつらせる。

 金曜の終業後、帰宅しようとバス停に向かっている途中だった。

 同僚とのこんなやりとりも、今日がはじめてのことではない。横石はあれから数日おきに出没し、退勤時の待ち伏せもこれでもう五回目だ。

 通用口まで回り込んでいないだけまだましだろうかと、最初のうちこそミケさんも思ったが、関係者用入り口に張り付かれるほうが、むしろおおっぴらに注意なり通報なりしようがあるのかもしれなかった。

「三池さーん!」

 ぶんぶん手を振ってくるのを無視して通り過ぎようとしたが、横石は走って追いかけてくる。「お仕事おつかれさまです!」

「待ち伏せするなっつったろこのストーカー」

 険悪に言って、ミケさんは牙を剥く。回数を追うごとに遠慮も何もなくなって、すっかり善良な市民の皆様にはとてもお見せできない態度になってしまっているが、横石はまったく悪びれない。「えー、だって勤務時間中に伺ったら三池さん怒るじゃないですか」

「当たり前だろ!」

「そしたら待ち伏せするしかないですよね?」

「おかしいだろすでに前提が。だいたいアンタ、いま新しい仕事を覚えるのに必死な時期じゃないのかよ。せっかく就職できたんだから色ボケしてないでちゃんと働けよ。こんなとこ来てる場合か」

 ふふっと声を立てて横石は笑った。ミケさんは怪訝な顔になる。「なんだよ」

「やっぱり心配してくれるんですね。三池さん優しい!」

「穏便に追っ払おうとしてるんだよ! わかれよ!」

「覚えることたくさんで大変なのは大変ですけど。三池さんの顔見たら頑張れる気がして」

「話を聞けよ。癒やしが欲しかったら猫動画でも視てろ」

「それは癒やされそうですけど……三池さん猫動画視たりするんですか? 可愛い!」

「ああああもう」

 とうとう頭を抱えてミケさんが尻尾をびたんびたんさせはじめると、引き際を心得たように横石はぺこりと頭を下げた。

「話せて嬉しかった。帰ります。三池さん、また来週!」

「もう来るな!」

 少しもめげずに、にこにこしたまま横石は踵を返す。迷惑なのだが、実害と呼べるほどの実害がないせいで通報もしづらい。傍目にもほのぼのした光景だから、事情を知っている同僚達も危機感は薄い。このときも「悪質だ……」と頭を抱えて呟くミケさんの脇腹を、同僚はうりうりと肘でつついてひやかしてきた。「いいなあミケさんもてて」

「そんな言うなら代わってくださいよ……ほんとに」

「だってあの子、ミケさんしか眼中にないじゃん」

 笑いながら言われて、ミケさんは苦虫を噛み潰す。

 あの思い込みの激しさと惚れっぽさなら、放っておいてもそのうちどこかで新しく運命的な出会いを見つけて飽きてくれるんじゃないかという気がしないわけでもない。とはいえそれがいつの日のことなのかは誰にもわからず、とりあえずわかっていることといえば、

「来週も来るんだろうな……」

 尻尾をだらんと落としてうなだれるミケさんを励ますように、同僚がぽんぽんと肩をたたいた。

「はは。まあ週末くらいはゆっくりしたら」

「そうします……」

 げんなりしてバスに乗り込んだときには、そのつもりだったのだが。



 それさえ儚い願いだったようで、翌日の土曜日、ミケさんはさっそく横石に遭遇した。

 ミケさんの住む借家から歩いて十五分ばかりのところに、市立図書館がある。職場に取りそろえてある資料以外に読みたい本があるとき、ミケさんは大抵ここにやってくる。

 その通い慣れた図書館の中、実用書の書架の前で横石と正面から出くわしたミケさんは、額の毛を逆立ててわなわなした。

「あれっ、三池さん? うそ嬉しい。奇遇ですね!」

「白々しいぞストーカー」

「えっ違う、違います! 今日はほんとに偶然です!」

 慌ててぶんぶん首を振る横石の言い分を、まあ半分くらいは信じてもいいのかもしれないとミケさんが思いなおしたのは、彼女が抱きしめているのが、介護の本と保険事務の入門書だったからだ。新しい仕事で使う資料だろうか。あるいは最初に市役所に来たときに母親の難病の話をしていたから、その勉強かもしれない。

「わたしこの近くなんです。学生のころはよく来てたんですけど、今日は久しぶりに……三池さんもこの辺りにお住まいなんですか?」

「ストーカーに家を教える馬鹿がいると思うか?」

「そんな、いくらなんでも無断でおうちまで後をつけていったりは」

「しないのか?」

「……しませんよ!」

「なんだよその間は。じゃあな」

 踵を返そうとしたら、はっしとシャツの裾を掴まれた。

「せっかくお会いできたんですし、ちょっとくらいお話でも」

「図書館で喋ったら迷惑だろうが」

「三池さん真面目ですよね……でもそんなところが好き!」

「うるせえよ!」

 思わず大きくなった声に気まずくあたりを見まわして、ミケさんはじろりと横石をにらむ。

「じゃあ、外で待ってていいですか」

「いいわけないだろ本借りたらさっさと帰れ」

 しっしっと手で追い払う仕草をして、ミケさんは自分の目当ての本を探しに戻った。未練がましくいっときその様子を目で追っていた横石も、やがてあきらめたようすで立ち去った……ようだったのだが。



 貸し出し手続きを終えて外に出るまで小一時間かそこらといったところだろうか。まさか本当に待っていないよなと、正面玄関を出たところでミケさんは周辺を見渡し、顔をしかめた。

「……いるし」

 正門そばのバス停の前で、横石は図書館の塀にちょこんともたれ、借りたばかりなのだろう本を読んでいた。ミケさんの接近に気づくとぱたんと本を閉じて、いそいそと抱え直す。

 今日はとりわけ風が冷たい。横石の鼻の頭が赤いのを見て、ミケさんは特大のため息を吐いた。

「あのなあ。ほんとに外で待ってるやつがあるかよ。こんな寒い日に」

「ごめんなさい。でも、ここ通用口ほかにあるのに、そっちからこっそり帰ったりしないの三池さんの優しさですよね」

「いいように取るなよ! アンタその思い込みの激しいところなおさないと、そのうち痛い目に遭うぞ!」

「ほら優しい」

「だー! 話が通じねえ!」

 人間だったら髪の毛をかきむしっていたところだろうか。ミケさんは尻尾でびたんびたん塀を叩いて毛を逆立てる。

 どんなにジェスチャーで怒りをあらわしても、横石はちっとも気にする様子がなく、にこにこ嬉しそうにしている。それを見ているとだんだん腹を立てるのも馬鹿らしくなって、ミケさんは体をしぼませて長い長い溜め息を吐いた。「なんでもいいから風邪引く前にさっさと帰れ」

「まあまあ、バスが来るまでおしゃべりしましょうよ。三池さんどのバスです?」

「教えるかよ」

「あっ、市役所経由来ましたね。あれですか?」

「教えねえっつってるだろ」

「もしかしてわたしがどっか行くまで乗らないつもりですか」

「まあな」

「むう。根比べですね」

「あのなあ!」

 たまりかねてふたたび声を張り上げたミケさんに、横石はふふ、と笑う。「冗談です。……でもせっかくお会いできたから、もうちょっとだけ喋ってていいですか」

 寒風に吹かれて一時間近く待っていたことを思うと、ついそれ以上邪険にできず、ミケさんは根負けした。

「……五分したら帰れよ」

「わかりました!」

 返事はいい。げんなりして尻尾を垂らすミケさんに、横石は「座りません?」とバス停のベンチを示した。

 天気のことだの新しい職場の駐車場に出没する野良猫のことだの、一時間も待つ必要がどこにあったのかわからないような他愛のない話を、横石はにこにこしながら喋っている。それに生返事を返しながら、いったい何が嬉しいのかとミケさんは呆れた。

「それにしても三池さん、読書家なんですねえ」

「仕事で要るから読んでるだけだ」

「でもさっき持ってらしたいちばん上の本、小説でしたよね?」

 じろりとにらんだミケさんにも、横石は悪びれない。「どんな本がお好きなんですか?」

「ぜったい教えねえ」

「えー」

 つれない返事にめげた様子もなく、横石は何かに気づいたようにぱっと明るい顔をした。

「そうだ、いいこと思いつきました三池さん!」

「聞きたくねえ」

「まあまあそう言わず。あのですね、わたしの家って、ここから歩いて十分くらいなんです」

「……それで?」

 どうせしょうもないことを言い出すんだろうなあこいつは、という顔を隠しもしないで、それでも律儀に相づちを打ったミケさんに、横石は今日いちばんの笑顔を見せた。

「いまわたしと結婚したら図書館まで徒歩十分のところに庭つき一戸建てがついてきますよ! いかがですか!」

「間に合ってます」

「急に敬語!? もー、キャッチセールス断ってるんじゃないんですから、もうちょっとほかに言い方ないんですか?」

「キャッチセールスみたいな売り出し方しといてなに言ってんだ!」

「売り出してないです! 売り込んでるんです!」

 力いっぱい主張する横石に、ミケさんはうろんな目を向ける。「何が違うんだよ」

「ぜんぜん違いますよ。不特定多数の人に宣伝してるんじゃなくて、三池さんだけにアピールしてるんです!」

 ミケさんは一瞬、返す言葉に詰まった。そういうふうに言われてみれば、たしかに自分の失言だった……のかもしれない。三秒口ごもって、ため息をもうひとつ。

「悪かったよ。だけどどっちでも一緒だ。……安売りするなっつうの」

 今度は横石が黙った。返事のないことを怪訝に思ってミケさんが振り向くと、横石は顔を赤くしてぷるぷるしていた。

「なんだ。どういう反応なんだそれ」

「三池さんずるい。かっこいい……」

「はあ?」

「五分経ったので帰ります!」

 お、おう、と気圧されたように返事をして、ミケさんは横石の背中を見送った。何で急に怒ったんだ。雌はわからないと言うべきか、人間はわからないと言うべきか。

 十歩くらい歩いたところで横石は急に立ち止まり、くるりと振り返った。「三池さん」

「あ?」

「プロポーズ、ちょっとくらいは考えといてくださいね! じゃあまた来週!」

 だから来なくていいって……というミケさんのつぶやきを吹き飛ばす勢いでぶんぶんと手を振る横石は、もうさっきの不機嫌はどこ吹く風で、元気よく走っていく。

「なんなんだよまじで……」

 取り残されたミケさんのひとりごとだけが風にさらわれる。

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