市役所のミケさん

朝陽遥

第1話 猫さんの言うことにゃ

 ミケさんは市役所の窓口にいる。

 生活福祉課のカウンターの奥、いちばん端にパーテーションで囲まれたブースがあって、天井からつり下げられたライトグリーンの看板には「なんでも相談窓口」と大書されている。月曜から金曜の午前九時から午後五時十五分まで、ミケさんはそこにいる。

 ミケさんなんてまるで猫みたいなあだ名だなあ、などと思われる向きもあるかもしれないので早めに誤解を解いておこうと思うが、彼はまさしく猫だ。

 とはいえもちろん、ネコ科ネコ属イエネコを市のマスコットとして飼っているわけではない。遺伝子工学によってネコ科の動物をベースに生産されたいわゆる労働用キメラ、通称ALアニマルレイバーの一種、それが彼だ。猫とはいえ人間くらいのサイズだし、二足歩行で歩くし、人間と比べて遜色ない知能があって、服も着るしネクタイもする。首回りが人間より太いので、きちんと巻くわけではなくパッチンするタイプのやつだが。

 人口減少に伴い日本社会がALを労働力としてあてこむようになってはや数十年、多岐にわたる業種の現場に彼らの姿が散見されるようになって久しいが、役所の窓口に配属されるのは珍しいケースだ。

 実際、ミケさんは何度かメディアの取材も受けている。なんせ人間サイズのもふもふした二足歩行猫というのは、おおいに映像映えするので。

 ミケさんと呼ばれてはいるが、もちろん彼は三毛ではない。三毛猫やサビ猫というのは基本的にほぼメスで、それはイエネコだろうとALだろうと変わらない。ミケさんの被毛はハチワレ模様だ。

 三池ジロ、という彼の名前を縮めてミケさん。それが定着して、同僚もマスメディアも記事を見てやってきた市民も、なんなら上役まで彼のことをそう呼ぶ。

 となりの小学校に居着いているメスの三毛猫もミケと呼ばれていることを知っているので、彼自身ははじめそのあだ名に抵抗していた。だがいつまで経っても誰も正しい名前で彼を呼ばないものだから、だんだんあきらめて、いまでは好きなように呼ばせている。



 さて、「なんでも相談窓口」と言ったところで、何もべつに言葉どおりなんでもかんでも解決してくれる魔法のような窓口というわけではない。どこに相談していいかわからない困りごとを抱えた市民がきたらとりあえずここに誘導される、そういうカウンターだ。

 そんな窓口だから、複数の利用者が重なって長く待たされる日もあるし、数えるほどしか相談が来なくてミケさんがパーテーションの影で欠伸をかみ殺してばかりいるような日もある。

 この日も午後二時ごろまでは暇だった。ミケさんは手元のタブレットに表示させていた法令解釈から視線を上げて、眠気覚ましにぶるぶると首を振った。猫はもともと暇さえあれば寝るもので、暇なのに居眠りができない職場というのは、どうも向いているとは言いがたい。

 ちょっと水でも飲んでこようかとミケさんが腰を浮かしかけた、ちょうどそのタイミングで、カウンター上の端末がぴこんと音を立てた。利用者が来たことを告げるものだ。

 ミケさんが椅子から立ち上がって肉球でパネルを押すと、パーテーションの上に設置したランプがぴかぴか光って、ボイスコールが利用者を呼んだ。

「4番のお客様、どうぞ」

「はい……」

 こわごわ、というふうに仕切りを覗き込んだ女性は、ミケさんと目が合うなりぽかんと口を開けて、そのままの姿勢でフリーズした。

 ミケさんは人間の年齢を見分けるのが得意ではないが、二十代半ばかそれくらいに見える。仕事帰りだろうか面接帰りだろうか、少し堅めのビジネススーツで、黒いショルダーバッグを提げている。地味めの化粧の感じもお堅い職業を想像させるが、疲れているのか睡眠不足か、化粧の下の目元には濃い隈が透けている。

「なんでも相談窓口の三池と申します。どうぞおかけください」

「あっはい」

 まだちょっと驚いたような顔のまま、女性はスツールに腰を下ろした。

「総合案内でもご説明したかもしれませんが、私のほうでひとまずご用件をお伺いして、内容に応じて担当窓口をご案内させていただきます……あの?」

「はい、あっ……すいませんじろじろ見ちゃって」

「いえいえ、慣れてますからお気になさらず。役所の窓口に私のようなのはあまりいませんからね」

 ミケさんはなんでもないように笑う。正確に言えば、人間から見たら笑顔に見えるような表情を顔に浮かべる。

「本日はどういったお困りごとで?」

「あ、はい。ええと……すみません、上手に説明できるかわからないんですけど」

 そう前置きをして、女性はつっかえつっかえ話し出した。

 彼女の名前は横石ゆな。数か月前まで県庁の出先機関で非常勤職員として働いていたが(ご同類かとミケさんは思ったが、口には出さなかった)、県の事業予算の都合で雇い止めにあった。折悪しく母親の難病がわかってその介助や通院の付き添いなどもあり、就職活動が長引いてしまっている。

 父親は早くに離婚して久しく連絡を取ることもなく、近くには頼れる親族もいない。すぐにも貯金が尽きるというわけではないが母親の医療費もかさんでおり、将来を考えると不安で、就職を急いだほうがいいのはわかっているが、近場ではなかなか条件に合うところがない。また、健康保険料があまりに高くて驚いて……といった具合に、次から次に心配事が出てくる。

 ときおり涙ぐんで言葉に詰まったり(すみませんという言葉が十回は挟まれた)、同じ話が重複する場面もあったが、ミケさんは要所要所でメモを取りつつ、彼女が話しやむまで相づち以外に口を挟まずただひたすら聞いた。

「すみません。要領を得なくて……」

「いいんですよ。たくさん心配ごとがあったんですね」

 言って、ミケさんは手元のメモをざっと見返した。「ひとつずつ整理していきましょうか」

 暇な部署というのはこんなときにはいい、と内心で思いながらミケさんは手元のメモに書き込みをしながら横石に見せた。

「まず健康保険料ですが、いま伺ったような状況でしたらおそらく軽減措置が受けられますよ。ここの二階でも手続きできますし、ご自宅からネットでも申請できます」

 はい、はいとうなずいて聞いている横石の表情を見て理解度を確認しながら、ミケさんは急いだほうがいい手続きの優先順位と期限、市役所以外の機関に相談したほうがいい内容についてはその連絡先と、どんどんメモを書き足していく。

「……に行くときには前もって所得証明書と通帳を用意しておいて、最初にはっきり預金残高を申告したほうが話が早いです。言いづらいと感じられるかもしれませんが、こういうことはちょっと図太いくらいに開き直って、使える制度は片っ端から頼ったほうがいいですよ。……こんなものかな。ほかに聞いておかれたいことはありますか?」

 すぐに返事が返ってこなかったので、ペースが速かったかなと顔を上げると、最初のように横石がぽかんとした表情でミケさんを見つめていた。

「わかりにくかったですか?」

「あっ……いいえ違うんです。とてもよくわかりました!」

 赤面して、横石は何度もうなずいた。「助かりました。ありがとうございます……」

 どういたしましてと笑顔を作ると、ミケさんはメモを横石に手渡した。どちらかといえば彼の仕事の中では楽なほうだ。無理難題を持ち込む相談者も少なくないし、ただ話を聞いてもらいたいだけの市民から何時間もひたすら愚痴や不平を聞かされることもある。

 そうしたケースに比べればなんということのない、彼にとっては本当に日常的な業務のひとつだった。だから何度も丁寧にお礼を言って去って行く彼女の背中を見送り、日報に相談概要を記録してファイルを閉じたときには、ミケさんはもう相談者の顔も名前もろくろく覚えていなかった。



 ……のだが。

 一週間後に仕事を終えて庁舎を出たミケさんの前に、ふたたび彼女は現れた。

「こんにちは!」

 なんか見たことある顔だな、と思って二秒、彼女が肩から下げているショルダーバックを見て先日の相談内容を思い出すまでにもう三秒かかった。

「ああ、先日の」

「その節はご親切にありがとうございました!」

 先日とは打って変わって元気いっぱいの笑顔で、なんという名前だったか、横田……横溝……横山? だめだ。思い出そうという努力はいちおうしてみたものの(デスクに戻って日報を開けばわかりはする)、あきらめてミケさんはいえいえと首を振った。尻尾を落ちつきなく揺らしながら、なんだかなあと内心でため息を吐く。

 こうも感謝されれば悪い気はしない……と言うべきところかもしれないのだが、本音を言えばあまり嬉しくはない。正直、ほかの窓口に取り次ぐだけの仕事に過大な感謝を向けられるのはいささか重いし、ましてや勤務時間外だ。

 だがそんな本音をそのまま言っては角が立つので、ミケさんは愛想を振り絞ってなるべく感じよく笑った。「お役に立てたのならよかったです」

 ほかに答えようもないからというだけの理由でそういう返答になったわけだが、横なんとかさんはますます笑顔を深めて頭を下げた。

「おかげさまで再就職も決まりました!」

「ああ……よかったですね」

 口ではそう良いながらも、彼女の大声のおかげで退庁するほかの職員から何事かという目で見られて、居心地悪くミケさんはひげをぴくぴくさせた。

「おめでとうございます。がんばってくださいね。それじゃあ」

 会釈してさっさと立ち去ろうと歩き出すミケさんを、しかし彼女は小走りに追いかけてくる。

「あの。ほんとに感謝してるんです。三池さんのおかげです」

「私は何もしてないですよ」

「いいえ。あの日、三池さんにお話を聞いてもらってすごくすっきりして。そしたら翌日に行った面接でもうまく話せて」

 なんか御利益みたいな言い方されてるなと、ミケさんは複雑な気分になった。それでも、まあ招き猫とかいるくらいだしなと自分で自分を納得させて、ミケさんは「よかったですね」と繰り返す。

「あの……なにかお礼をしたくて」

 世話になった職員に菓子折なんかを持ってこようとする市民はたまにいるから、ミケさんはこれには慌てなかった。「あ、いちおう公務員なんで、お礼とかもらったら怒られるんです。お気持ちだけありがたく頂戴します」

「あっ……」

 何だよまだ何かあるのかよ、とミケさんは思ったし、いいかげん笑顔を保つのも限界に近づいていたけれど、とはいえ人目のあるところで市民に対して乱暴な物言いをすればとてもデリケートな問題になりかねず、口から出すときには穏便な言葉にすり替えた。「まだ何か?」

「あの……その」

 顔を赤くして横石(ここでミケさんは彼女の苗字を思い出した)は口をぱくぱくさせている。通りかかった同僚が何事かとちらちら振り返り、中のひとりなどは立ち止まって冷やかしの声までかけてきた。「あっミケさんもててる」

「やだな、からかわないでくださいよ」

 どうせ立ち止まるなら助け船を出せよ助け船をと内心では罵りながら、ミケさんが途方に暮れかけたところで、横石はぱっと顔を上げて、

「あの、あの……少しだけお時間もらえませんか」

 そんなことを言った、というより叫んだ。とにかく声が大きい。

 勤務時間外だっての。内心うんざりしながらも、なんとかやんわりと断れないかと、ミケさんは言い訳を探した。「いえ、このあと用事がちょっと」

「そんなに長くはお時間とらせませんから!」

「何があったか知らないけど、ちょっとくらい付き合ってあげたら?」

 同僚はどこまでも無責任だ。助け船どころか背中を押すようなことを言う。ミケさんは舌打ちを堪えて尻尾を振った。

 横石の服装や容姿がごく常識的でまじめそうなところが災いしているのかもしれない。開庁時間外に市役所の職員を外で待ち伏せするという常識の無い行動をとっていてさえ、少しも危険人物のようには見えないからだ。なんならミケさんの外見が猫であることも、どこかのほほんとした光景に拍車をかけているかもしれなかった。

「ええと……じゃあ、少しだけなら」

 逃げ場のない気持ちでミケさんは耳をぺたりとさせた。



「……で、お話というのは」

 市役所のそばには喫茶店もあるが、まかりまちがって勘定をもたれでもしたら厄介なので、ミケさんは自分で買った自動販売機のミネラルウォーターを手に公園のベンチに向かい、横石と少し距離をあけて座った。

 彼の中ではぎりぎりの妥協ラインだ。本当は立ち話で済ませたかった。そろそろ風も冷たくなりつつある季節のことで、長話はしないぞという無言の主張でもある。

「あの……その」

 自分から強引に呼び出しておいて、なかなか用件を切り出さない相手に、ミケさんの鼻の頭にシワが寄る。猫は怒ると顔が怖い。わかっているので職務中には間違っても出さない表情だ。

 だが横石は気づかない。うつむいて顔を赤らめている。少女漫画だったらこのあとの展開などひとつしかないところだが、ミケさんはあいにく人間でもないし少女漫画に親しんでもいないので、特に何かを察したりはしなかった。

 猫好きの市民は珍しくなく、メディアで露出したミケさんをわざわざ見物しにやってくる暇な市民もいる。だから、横石もそのたぐいだろうかとミケさんは思った。

 そうでなくてもALネコに生まれつけば、眼をきらきらさせた人間に「もふもふしていいですか?」と聞かれる経験は一度や二度のことではない。

 そういうとき、ミケさんはとても不愉快だった。小さな子どもならまあ仕方が無いが、いい年をした大人が、断りさえ入れれば親しくない相手の毛皮をさわっても失礼ではないと思っているその無神経さに腹が立つ。いちいち怒り出していてはきりがないから飲み込む一方なのだが。

「あの……三池さん」

「はい」

 相づちをうつミケさんに、横石は一度ぐっと息を呑んで、それから言った。

「好きです。つきあってください!」

「は?」

 素で聞き返した。

「この間からずっと三池さんのお顔が頭を離れなくて……わたし、先日ご相談に伺ったときまで、ずっと落ち込んでたんです。三池さんに話を聞いていただいて、ほんとに元気が出て、それで」

 ミケさんは半分も聞いていなかった。彼が黙り込んでいるので横石が途中で尻すぼみに言いよどんで黙ってしまって、入れ違いのように近くの消防署から出動した救急車のサイレンが鳴り響いてふたりの沈黙に割り込み、それもすっかり遠ざかったころになって、ようやく口を開いた。

「馬鹿にしてんのか?」

「えっ」

 市民からのクレーム、というワードがミケさんの頭から完全に飛んでいたわけではなかった。それでも、もうそういうことがどうでもよくなるくらい、ミケさんは腹を立てていた。

「ALネコがそんなに物珍しいか?」

 たたみかけるようにミケさんは問いただす。

「えっ。そんなんじゃ……いえ、たしかにこれまで知り合いには猫のひとはいませんでしたけど。でもそうじゃなくて……」

 ミケさんの逆立った毛を見て横石は続く言葉を飲み込み、俯いた。いまにも涙がこぼれ落ちそうになっている。

「……あのなあ」

 さすがに罪悪感にかられて、ミケさんはため息をついた。かっとなって、必要以上にきつい言い方をしたかもしれない。ちょっと役所の窓口で親切にされたくらいで勘違いするほど彼女が人の縁に恵まれずにきたのなら、それは少々気の毒なことではないかという気もした。

「仕事だよ。市民の相談に乗るのがおれの仕事で、市民の皆様の貴重な税金から給料をいただいている以上、義務として丁寧に対応したんだよ。わかるだろ?」

 鼻の頭にシワをよせて厳しい顔を作り、ミケさんは滔々と言い聞かせる。「仕事じゃなくったって、深く関わることもない相手にその場限りで親切にするのなんか簡単なことだろ。そんな外面にころっと騙されたりするもんじゃない。おれのことを親切だと思ったんなら、それはおれが、アンタに興味がなかったからだ」

 通りすがりの相手に親身にふるまう者が、親しい相手にも優しいとは限らない。そう続けようとしたミケさんに、横石は落ち込むどころか目を輝かせた。

「つまりいまは興味あるってことですよね!」

「いやポジティブすぎるだろ!」

 思わず叫んで、ミケさんは尻尾をふくらませる。

「やっぱり三池さんはいいひとです。だって、そんなふうに仰るのだって、わたしのこと心配してくれてるんでしょう?」

「人じゃねえよ」

 思わず突っ込んで、ミケさんは頭を抱える。

 そのミケさんの反応をどう思ったのか、横石はちょっと笑うとベンチから立ち上がって、

「今日は帰ります。ご予定あるんでしたよね?」

 いやそんなん断るための口実だよ、とミケさんは思ったけれど、粘られても困るのでわざわざ口には出さなかった。それよりも気になることがあったというのもある。「待て。今日『は』ってなんだ」

「じゃあまた! お仕事おつかれさまでした!」

 元気よく叫んで、横石は走っていく。夕焼けに照らされてオレンジ色をしたその背中に、ミケさんは叫ぶ。「いやもう来なくていいから!」

「わたし、ちょっと急ぎすぎました! 反省します! まずはお友達からお願いします!」

「聞いてねえし……」

 横石はもう立ち止まらず、ミケさんのその言葉はひとけの少なくなった公園にぽつりとこぼれ落ちて、誰にも拾われなかった。

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