第6話 人間なんか、嫌いだ


 雇い止めの通告があったところで、その日から仕事がなくなるわけではもちろんない。年度末まで、通常業務を毎日こなさなくてはならない。

 仕事に私情を持ち込むのはミケさんのプライドが許さなかったし、そもそも内々に言われただけで、まだ人事が発表されているわけでもない。ほとんどの職員はミケさんの処遇について何も聞かされていないはずだ。だからミケさんは表面上、何も変わらないようにふるまった。少なくとも、彼自身はそのつもりだった。

「なんだあ、ネコなんか出してきやがって。ふざけてんのか。人間の職員を出せよ!」

 だから少なくともその日の午後、そんなふうに市民から怒鳴られたのは、ミケさんに落ち度があったためということではなかった。

 そもそもミケさんが何かをして怒らせたというわけではなかった。その男はパーテーションをのぞきこんでミケさんの顔を見るなり、酒のにおいをさせながら、いきなり大声を上げたのだった。

「ぼけっと突っ立ってねえでさっさと代われ! それとも俺みたいなのに人間様が対応するのはもったいねえっていうのか!」

「まあまあお父さん落ち着いて、大きな声出しちゃだめですよ」

 近くにいた福祉課長が横入りしてきて、男がひとしきり文句を垂れ流しているのを、カウンターの奥でミケさんは聞いた。猫は大きな物音に弱い。尻尾が逆立ったままおさまらないのをみっともないと思いつつ、自分の意思ではどうしようもない。

 男は福祉課長相手にいっとき怒鳴り散らして、本題らしい自治会への不満について長々と文句を垂れてから、酒の匂いをさせたまま帰って行った。

「災難だったね。ミケさん」

 気にするなよと同僚が肩を叩き、いちいち気にしてたらきりがありませんからとミケさんは作り笑いで大嘘を吐いた。

 AL嫌いの人間も、ネコ嫌いの人間も、掃いて捨てるほどいる。

 いつもだったら傷ついても腹を立てても、ひとしきりぼやいたあとにはさっさと忘れてしまう。それができる程度には、ああいう人間の存在にミケさんは慣れていた。そのつもりだった。

 だけどそんなのは嘘だ。気にしないでいられるわけがない。

 ――もう、うんざりだ。

 口の中だけで呟いてミケさんは自分のカウンターに戻り、それきり事務室のほうは振り返らず、テキストに視線を落とした。

 所詮ALは、こういう場所には求められていないのだと、こういうことがあるたびに思う。

 人間は勝手だ。労働力が足りないからとALを作っておきながら、お前らのようなのは目障りだから視界に入るところにやってくるなという。人間様が困窮している横で、たかが動物がもっと待遇のいい高等な労働をしているのは、理屈ではなく気にくわないのだ。

 人間なんか、嫌いだった。

 だが、ALというだけでこんな扱いを受けて腹を立てている自分が、人間だというだけで横石を責めたということを、ミケさんは自覚していた。

 ほかの人間から受けた仕打ちへの鬱憤を、彼らに向かってぶつけられない代わりに、無関係な横石に投げつけた。八つ当たり以外の何でもなかった。

 自分のみっともなさに、言い訳もみつけきれず、ミケさんは落ち込んだ。



 だが懲りもせずにというべきか、横石はそれから三日も経たないうちに姿を見せた。

 夕方、まだ市役所の開庁時間中だ。なんでも相談窓口のカウンターを、前触れなくひょっこり覗き込んできた。「こんにちは」

 何事もなかったように笑って挨拶をする横石に面食らったミケさんは、とっさに挨拶も返せず、無言で耳をぺたりとさせた。

「先日はすみませんでした」

 先手を打って謝られて、ミケさんはようやくかぶりを振る。

「……よせ。こっちが悪かったんだ」

 勤務時間中に利用者に向かって話す口の利き方でないのは重々わかっていたが、この後におよんで慇懃無礼な敬語を通す気にもなれず、声を小さくしてミケさんは謝った。

「八つ当たりした。悪かった」

「いいえ。わたしも無神経でした」

 もう一度頭を下げて横石は言い、それからちょっと辺りを見渡して、「お仕事中にあんまり私語してたら怒られちゃいますよね」と首をそびやかした。

「三池さん、このあいだ仰ってたセミナーって、まだ申し込み間に合います?」

 虚を突かれて、ミケさんは目をぱちくりさせた。「期限はまだだったと思うけど……ちょっと待って」

 パンフレットスタンドから申込用紙をとってきて、ミケさんはカウンター越しに横石に手渡した。

 難病を患っていた母親はもういないはずなのに、という疑問は顔に出ていたのだろう。横石はちょっと鼻の頭を擦って、

「いまのお仕事してて、いろんな病気の人に会うから……いつかもしかしたら、母と同じ病気の人に接することもあるかもしれないし。いまさらかもしれないけど、聞いておきたいなって思って」

 そんなふうに笑ってみせた。

「そうか」

 ほかに何の気の利いた言葉も思いつかず、ただ相づちを打ったミケさんに、横石はぴょこんと頭を下げた。「ありがとうございました」

 いや、と答えながら、ミケさんは複雑な顔をした。いまになって詳しい知識を身につけても、後悔が募るばかりではないかと思ったのだった。

 だが横石がそんなことはわかっていて、それでも学ぶと決めたのであれば、彼が口を出すことではない。

「あの、三池さん。わたしこのあとまだちょっと用事あるんですけど、終わったあと、帰り、待っててもいいですか」

「……駄目だっつっても、アンタ聞いたことないだろ」

 へへ、と笑って横石は手を振る。「じゃあまたあとで!」

 元気よく叫んで出ていくのに、同僚の視線を痛いほど感じながら、ミケさんは素知らぬ顔をする。尻尾だけが落ち着かないふうに揺れている。



「三池さん! お仕事おつかれさまでした!」

 やっぱりバス停の近くで待ち伏せていた横石は、先日のやりとりもすっかり忘れたような顔で笑っている。「お時間あるならこれからご飯とかいきませんか! もちろん割り勘で!」

「ああ?」

 ミケさんは顔をしかめる。「この辺の飯屋なんか、たいていALお断りだよ」

「失礼な話ですよね。でも大丈夫! ここならばっちりです!」

 じゃーん! と擬音つきで横石が見せてきたのは、ここから歩いて行ける店の地図だった。

 ミケさんは一瞬、どういうリアクションをするか迷った。表立ってはっきりとAL入店拒否の表示をする店というのは、実はそれほど多くない。衛生面の心配なんていうことを言い出す連中のほとんどは、ネットで匿名の書き込みをするのが関の山で、看板を掲げて堂々とそういう発言をする店は少ないのだ。

 だから店に正面から問い合わせても、たいてい『大丈夫ですよ』という返事が返ってくる。だがいざ行ってみれば、ALに飲み食いできるものはほとんどない。大半の店は、そもそも人間用の料理しか提供していないのだ。

 だがミケさんがそのことをどう伝えようかと迷っているうちにも、横石は彼のシャツの袖をぐいぐい引っ張る。

「ということで行きましょう! 労働のあとには美味しいご飯が必要です!」

 気が変わらないうちにと急かす横石に、ミケさんは結局、そのまま折れた。にべもなく断るには、先日の罪悪感がまだ尻尾を引きずっていた。

 まあ、店名を見たかぎりでは普通の居酒屋のようだし、焼き魚か煮魚のひとつでもあれば、まったく食べられないということもなかろうと、ミケさんは思い直した。事前に問い合わせたのなら、少なくとも露骨に追い出されるまでのことはないだろう。

 覚悟を決めてミケさんはおとなしく引きずられた。

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