第9話 ほんの少しの期待と諦め

 ミケさんが思いがけない相手から飲みに誘われたのは、その次の週のことだった。

 前の人事課長だ。名を前園という。いつかミケさんにここを応募するよう勧めてきた、かつての飲み友達だった。

 会議があって本庁舎に来たからと、わざわざ誘いに来た。ほかにいくらでも誘うべき人間の同僚はたくさんいるだろうに、あえて自分を誘うからには、雇い止めの話はすでに耳に入っているのだろうなとミケさんは思った。

 ちょっと行ってみたい店があってさ、と前園が口にした店名は、奇しくもと言うべきか必然と言うべきか、先日横石と行ったばかりの店だった。

「やー、お疲れお疲れ。元気にしてた?」

 乾杯もそこそこに、前園はビールを呷って泡の口ひげを作った。前に会ったときにはすでに本人が気にしていた白髪が、また少し増えている。

「まあぼちぼち。支所勤務はどうです?」

「もー、あっちこっちで板挟みだよー」

 笑って前園はどんどん料理を注文する。ミケさんに気を遣っているというよりも、本人が健啖家でぺろりと平らげてしまうのだ。

「やー、いい雰囲気の店だねえ。ミケさんここ来たことあった?」

「前に一度だけ」

「そっか。なんかちょっとこの雰囲気、懐かしいよな。あの店なくなっちゃったって? 寂しいねえ」

「課長が通わなくなったからじゃないですか」

「俺え? さすがにそこまでは通い詰めてなかったって」

 冗談としか思っていないのだろう、さらりと前園は流したが。ALにも人間にも顔の広かった彼が来なくなったことで、ほかの常連客の足まで遠のいたというのはあってもおかしくない話だった。

「最近ミケさんは何か読んでる?」

「いや、全然ですね。勉強だけで手一杯で」

 正直に答えながら、そういえば前園と知り合ったのは、本の話がきっかけだったとミケさんは思い返す。

 酔っ払った前園が好きな歴史小説のシリーズについて一席ぶっていて、あれ面白いですよねとミケさんが話しかけた。本好きのALなんて珍しいなと面白がられて、それから意気投合したのだった。

 いまでも本の趣味は変わっていないらしい。前園は最近読んだ歴史大河小説について語りはじめ、いっとき熱弁をふるっていたが、出された熱燗を手酌で注ぎかけたところで、ふいに話を止めて、意を決したように顔を上げた。

「ミケさん」

 はい、と首を傾げるミケさんに、前園は頭を下げた。「すまなかったと思ってる」

 とっさに反応できず、ミケさんはまばたきをした。

「課長が悪いわけじゃないでしょう」

「そりゃ俺が人事に残ってたって、何もできなかっただろうけど」

 人事課長の所掌は正規職員の配置であって、非常勤職員の人事はそれぞれの部署が持っている。ミケさんに市役所への応募を勧めたのも、ただ勧めただけで、前園自身は選考に関わっていない。それは最初から聞かされていた。

「それでも、ごめん」

 深々と頭を下げられて、ミケさんは困惑する。

「謝らないでくださいよ。最初から、いつまでもいられる職場じゃないのはわかってましたし」

「ミケさんがよくやってくれてるの、ずっと耳に入ってたよ。ご意見箱にも何回もお礼が来てたよね」

 それは、とミケさんは言いかけたが、言葉にする前に、自分が何に反論したいのかを見失って言いよどんだ。前園は何が言いたいんだろう。切られたのはお前のせいじゃないという慰めだろうか。

「おれらがちょいちょい異動させられるのはさ、役人が同じところにずっといて、癒着するのを防ぐためだよ。だから役所の組織っていうのは民間以上に、代わりのきかない人材っていうのを嫌がるんだよな。優秀なのはいい。でもそいつがいなけりゃ仕事が回らないようじゃだめだ」

 その理屈はミケさんにもわかる。

 正規職員なら転勤すればいい。だが非常勤職員は違う。あくまで一時的な繁忙期や、期間の限られた事業を回すための臨時の人手という建前で予算をとってくる。同じ人間をずっと雇い続けることは基本的に認められない。

「役所ってのは、非常勤職員には冷たい職場だよ」

 短いため息を挟んで、前園は続ける。「そういうとこだってわかってて声掛けたのは俺だけど。そんでも、こんな形で終わることを望んでたわけじゃなかった。言い訳にしかならないけど」

 新しい市長の方針のことを、前園は言っているのだと、ミケさんは察した。保守的で差別意識の強い、いまの市の風向きのことを。

 前園が若いころに保健所に配属されて以来、AL福祉問題に熱心に取り組んできた人物だということを、周囲の人から聞いたことはあった。だが彼がミケさんの前でそのことを話題にしたことは、実はこれまで一度もなかった。ただの飲み友達だった頃にも、応募してみないかと誘ってきたときにも、ミケさんが市役所に採用されてからも。

「もっと、あとに続けていきたかった。残念だ」

 沈んだ声で呟かれたその言葉を、嘘や弁解ではないとミケさんは思った。

「そのうち……」

 ミケさんは口を開きかけて、続きをためらった。

 育った施設に置いてあった児童書の種類はたかがしれていたが、ミケさんが図書館に通って片端から読んだ本の中には、プロレタリア文学や奴隷解放文学のようなものもあった。だがああいう運動を、自分たちも起こすべきだとは少しも思わない。

 完全工場生産で自力繁殖ができないALは、どうあっても人間と決別して生きてはいけない。AL用の食料を作っている企業にしても、資本を持っているのは人間だ。正面から戦ったところで事態は悪くなっていくだけだ。人間の都合の範囲の中で少しずつ権利を拡大していく以外に方法はない。

 それは気の遠くなるような話だ。時間がかかるだろうし、何かが変われば反動だって起こる。いま、AL嫌いの保守的な人物が市政に携わっているように。

「……またそのうち、風向きが変わることもありますよ」

 ほんの少しずつの期待と諦めの、両方の混じった言葉を、ミケさんは口にした。

 前園はゆっくりと目をしばたいて、それからうなずいた。

「そうかな……そうだな」

 その声にも、同じだけの失望と希望が入っているように、ミケさんには聞こえた。

 だけど、と前園は酒を呷る。

「悔しいな」

「おれもです」

 答えてから、ミケさんは自分が素直に本音を口にしたことに、自分で驚いた。そんなことは長らくしてこなかった。例外は横石と話すときくらいだ。彼女を相手にしているときは、つい短気を起こさずにいられないというだけだが。

 でもまあ、とミケさんは続けた。

「悪いことばっかりじゃなかったですし」

 それは半分は、ただの強がりだったが、口にしてしまえば本当にそうだったような気がした。

 ――三池さんのおかげで、本当に助かったんです。ほかにもそういう人、いたはずです。

 そう言い切った横石の顔を思い出して、ミケさんはひげを揺らした。

 頑張ってもどうせ無駄だ、市民の感謝なんて重荷なだけだと、そう感じはじめていた。だがそれでも、ありがとう、助かったよの一言が、本当に誇らしかった時期もあったのだ。

「先のこと、決まってるの?」

「受けてるところは何か所か。まだどうなるかわかりませんけど」

「そっか」

 前園は何度かうなずいて、ミケさんの背中を叩いた。

「ミケさんならどこでもやっていけるよ」

 それは単なる社交辞令なのかもしれなかった。そうでなくとも、他人事だと思って気軽に言ってくれるなと、怒ってもいい場面なのかもしれなかった。

 だがミケさんは笑って礼を言い、そしてひとつ、小さな決意をした。

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